17話 夏と救いとお月さま
夜は、いくら待ち続けても明けなかった。
たくさんの声が聞こえる。もう何も聞きたくない。お母さんと私しかいないところで静かに過ごさせてほしいのに、肝心のお母さんはいないし、お母さん以外の余計な人たちは掃いて捨てるほど集まってくる。
「怖かったね、真夜ちゃん。もう心配しなくていいんだよ」
「落ち着いて聞いてほしいんだけど、あの男の人は実はね」
「真夜ちゃんの家から逃げる途中、トラックに撥ねられて」
「可哀想に、まだお若かったのに」
「誰が引き取るか、ねえ」
「人殺しの娘」
「聞こえるわよ」
「朝香さんって、写真を全然残していなくて」
「こんな遺影でいいのかね」
うるさい、うるさい、黙って、もうやめて!
みんなみんな大嫌いだ、お前たちがいなくなればよかったのに!
「ほら真夜、あんたがこれ持ちなさいよ」
額縁の中の無表情なお母さんを見た時、糸がぷつんと切れた。
こんなのお母さんじゃない。
写真をひったくってその場で床に叩きつける。いともたやすくガラスは砕け、それだけでは暴れ出す感情を抑えられなくて、私は額縁を両手で持ち上げると目の前にいた人間に向かって振り下ろした。
「きゃああっ!」
額縁の角で誰かを殴って殴って、周りにいた大人に羽交い絞めにされても、暴れ出した怪物は止まらなかった。
怪物は前触れもなくいなくなって、
私は、すべてを忘れた。
*
車が私の鼻先で止まったのは、幸運だったと言うほかない。
「っあ、あ、あああ……」
「このガキ! 何してんだお前! 俺を人殺しにするつもりか!」
車から降りてきた男に肩を揺さぶられて怒鳴られていることはわかったが、それに反応できるほど心に余裕がなかった。男は私が全然返事をしないのに苛立ったのか、不明瞭な捨て台詞を吐いて車に戻り、走り去っていった。
「思い出した……」
自分の身体をかき抱いて、道路の端で震えた。
どうして今まで全く思い出さなかったのだろう。私はこんなに正しく状況を理解していたのに。五月二十七日の夜、私のお父さんを名乗る男の人が家にやってきたことも、男の人とお母さんが言い争いになったことも、帰る場所のなくなった私がお母さんの従兄弟の敏行さんに引き取られたことも、
お母さんが、死んだことも。
「……お母さんが、死んだ?」
自分で声に出して言ってみると、言葉は想像の百倍くらいずっしりと重たくて、私の胸に跳ね返ってきた。言葉がぶつかって穴が空いたところに、もう逃げられないんだ――という、諦めとも絶望ともつかない気持ちが入り込んでくる。
もう逃げられない。もう忘れられない。私のお母さんは死んだんだ。敏行さんと巴さんの言うことを聞いておとなしく待っていたところで、お母さんは帰ってこないんだ。
顔を上げると、そこは真っ暗な世界だった。家を飛び出した時には早朝だったのに、いつの間に夜になってしまったのか。
夜空には雲も星もなく、町を飲み込むような闇だけが立ち込めている。
私はふらりと立ち上がり、行く当てもないのに歩き始めた。足の裏から伝わってくる熱は、私が生きているということを嫌というほど教えてくれた。
夜だからか、車も人もいない。草木が揺れる音も、あれほど騒がしかった蝉の鳴き声もない。どうやら私は、本当にひとりぼっちになってしまったらしい。
ある意味、私の理想の世界ではあった。静かで、何も聞こえなくて、誰もいない。私を煩わせるものは、どこにも存在しない。
ただ、気が狂いそうなほど真っ暗だった。真っ暗は嫌だ。真っ暗は怖い。今の私には守ってくれるお母さんもいない。またあの怪物が現れたら、この世界にひとりぼっちの化け物が生まれてしまう。なんて寂しくて、悲しい世界なんだろう。
先が見えないほど長い道路に沿って、私は歩き続けた。これからどこへ行こうか。どこへ行ったって構わない。私はひとりぼっちなんだから。
でも、少し暑くなってきた。帽子を被らずに外に出るのはいけなかったかもしれない。
まずは水が飲めるところを探そうと思っていたら、視界の端に白っぽいものが映り込んだ。
「なに……?」
胡乱げに目をやった先にあったのは、夜空にぽっかり浮かぶお月さまだった。
私は何ともなしに立ち止まって、まん丸い満月を見上げた。お月さまの白い光のおかげで、私の足元はちょっぴり明るくなっていた。たったそれだけで、私の「ひとりぼっち」は和らいで、さっきよりも寂しくないように思えた。
「ああ、きれい」
瞳から零れた涙を手の甲で拭って、私はつぶやいた。
そっか、と私は理解した。お月さまが、きっと真夜中を照らしてくれるただ一つの光なのだ。私はこの真っ暗な世界で、これからあの光に縋って生きていけばよいのだ。
踏み出した足が、障害物にぶつかった。
すいっと前方に視線を動かすと、階段が私の眼前に現れていた。ステップは一段ずつお月さまの白い光で照らされていて、こっちへおいでよ、ここなら大丈夫だよと囁いているみたいだ。
お月さまは、階段の途中に立っていた。
もっとお月さまに近づきたいと思って、私は階段を上り始めた。一段ずつ上がっていく度に、冷たかった心に温かなものが満たされていくような気分になった。
彼に近づいていくほど、胸が高鳴っていく。想いがこみ上げてくる。お月さまに触れたい。ずっと傍にいたい。私に微笑みかけてほしい。真夜ちゃんって言って、笑ってほしい。
「心良くん!」
私がお月さまの名前を呼んで、右腕を伸ばした時、
ドン
両方の肩に、強い衝撃があった。
今の今まで確かに存在していたステップが無くなって、居場所を失った足が宙に浮いた。右腕を伸ばしたまま、体が仰向けに傾く。
目の前が唐突に開けた。一面に広がる雲一つない青空と、照り付ける大きな太陽。
急速に遠ざかる直前、一瞬だけ、私を歩道橋の鉄骨階段から突き飛ばしたお月さまの顔が見えた。
私は愚かな間違いを犯していたということに、その瞬間まで気づいていなかった。
後頭部がステップのどれかにぶつかって、
澄み渡る青空に色とりどりの花火が咲いて、
何も見えなくなった。