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閉塞学級  作者: 成春リラ
3章 夏と救いとお月さま
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16話 針と笑顔とひとりきり③

 私がパジャマのまま外を歩いているなんて知ったら、お母さんは叱るだろうか。

 大きな水溜りも構わず突っ切ると、泥水が跳ねてパジャマの裾についた。既に染みができることは確定だったので、特に気にしなかった。後でお母さんに洗ってもらおう。多分、漂白剤とかを使ってもらえば落ちるんだろう。

 家を飛び出してからしばらくは闇雲に逃げ回っていたのだが、誰も追ってこないことがわかると私は走るのを止めた。さっきから、空気を吸い込もうとするだけで喉の入り口に詰まって窒息しそうになるほど息が苦しい。もう走るのも考えるのも疲れた。

 砂利道を歩いているだけなのに、足の裏に細かい尖った石がぷつぷつ刺さっていく。その時やっと、裸足のまま出てきてしまったことに気づいた。せめて起きた時に靴下だけでも履いておくんだった。髪の毛も、結ぶどころか梳かしすらしていない。朝ご飯だって食べていないし、歯磨きも……あれ、今日は学校に行かなくていいんだろうか。

 そうじゃない。もっと大事なことを私は忘れていた。


「玄関の鍵、閉めてなかった……!」


 あんなに注意していたのに。戸締りだけは絶対に忘れちゃダメって言い聞かせていたのに。鍵は持っていないけど、今からでも戻ろうか。お母さんに鍵掛けてねって……。


「違う、だめ、戻ったら、だめ……」


 まだあの家にはアレがいるのだ。アレがいる限り、戻ることはできない。あんな怪物がいる家に帰ったら、私の脆い身体なんてたちまち乗っ取られてしまうに違いない。

 逃げるんだ。できるだけ遠くに、怪物の手の届かないところまで、全速力で逃げるんだ。

 でも――逃げて、どうする?

 道路に足を踏み出したのと、アスファルトを掻く甲高いブレーキの音が耳を引き裂いたのは、ほとんど同時だった。

 私は、騒音が大嫌いだった。





 どうして私にはお父さんがいないんだろうと、昔からそれなりに不思議に思ってはいたが、特段困ったこともないし、欲しいと思ったこともなかった。お母さんに理由を尋ねようとも思わなかった。

 面倒だったのはむしろ同級生の方だ。私が通っていた保育園は季節の行事やらイベントやらを重んじる所だったので、当然のように父の日にはお父さんの似顔絵を描こうなんて時間があった。一応私の家の事情を知っている先生は「真夜ちゃんは誰を描いてもいいんですよ」と言っていたので、近所の病院の入り口で飼われていたウーパールーパーを思い出しながら適当に描いた。その絵をご丁寧に見咎めたのが同じ組の意地悪な女の子だった。


「まよちゃんのパパ、へんなかお! おっかしい!」


 お腹を抱えてゲラゲラ笑う女の子も、つられて大笑いする周りの子たちも、慌てて注意しようとする先生も全部無視した。スルーされたことに苛立ったのか、女の子は絵の前に回り込み、私の手からクレヨンを取り上げた。

 私はカッとなって女の子の頬を叩き、それでも足りなかったので背中を力いっぱい蹴り飛ばしてやった。

 いもしない父のことを何と罵られようと知ったことではなかったが、お母さんが私の為に働いて買ってくれたクレヨンを取られたのは我慢ならなかった。女の子は号泣し、先に手を出した方が悪いということで女の子よりもきつめに叱られた。別に強く蹴ったつもりはなかったが、女の子が勢いで倒れた時に頭を打ったそうで、本人曰く「とても痛いたんこぶ」ができたらしい。知ったこっちゃない。


 お母さんに話したら、「折られたわけじゃあるまいし」と苦笑された。

 保育園からの帰り道で、私の手を握るお母さんの手が温かかったのを覚えている。どんよりとした曇り空からは、傘を差さなくてもいい程度の雪がまばらに降っていた。

 黒っぽいコートを着込んだお母さんは、白い息を吐いて付け足すように言った。


「まあ、真夜にとってはすごく嫌なことだったんだね」

「うん。だからしょうがないよ」


 開き直った私に、お母さんは少し眉を上げた。


「だけどね、いきなり叩くのは良くない。蹴るのもやりすぎだ。真夜だって、悪くないのに責められるのは嫌でしょう?」

「う……じゃあ、私はどうすればよかったの」

「真夜は言葉が足りないの。まず、嫌なことは嫌って相手に伝えるものだよ」

「どうでもいい人となんか、話したくない」

「真夜」


 お母さんの諭すような声で、粋がっていた心がしゅんと萎んだ。


「……はい」


 どうでもいい人と話したくないのは変わってないけど、お母さんとケンカするのは嫌だから頷いただけだよ、という気持ちを存分に込めて返事をする。私の意図がわかっているお母さんはますます苦い顔をした。


「じゃあ、言っても返してくれなかったらどうすればいいかな」

「その時は……」


 指を頬にあててしばらく考え、お母さんはにっと笑った。


「実力行使だ」


 力強く拳を突き上げたお母さんに、結局同じことじゃんと私は呆れた。


 心境が変わった、というより変えざるを得なくなってしまったのは、その後同級生の保護者が陰口を叩いているのを見たからだ。「真夜ちゃんはお父さんがいなくて、お母さんの躾がなっていないから他の子どもに暴力を振るうのだ」と。大事なものを取られたから報復をした私が怒られるだけでも理不尽なのに、何も関係ないお母さんまで悪いように言われるのは全く納得がいかなかった。なぜどうでもいい人たちのせいで、私がどうでもいいことで悩まなければならないのだろうと思うと、ますます腹が立った。

 お母さんに買ってもらったものを取られることより、お母さんが貶められる方が嫌だった私はあっさり折れてしまった。自分のものを取られても反応しないようになった。幸い、意地悪な女の子は何をしても無反応な私に飽きたらしい。それ以降ちょっかいをかけてこなかった辺り、もしかしたら意地悪な女の子は言うほど意地悪ではなかったのかもしれない。


 元々他人を信用しない性格だったのか、それとも父の日の一件で加速したのかは定かでないが、ともかく保育園の頃から私には友達がいなかった。部屋や園庭の隅で、一人でできる遊びをして穏やかに毎日を過ごしていた。辛いとか、寂しいとか思ったことは一度もなかった。

 ただ、友達なんて一人もいらない、と言うと言い過ぎになる。正確に言うと、私にはお母さん以外の世界の全てが同じ色に見えていた。

 平たい灰色の世界の中で、唯一色彩を感じられるものがお母さん。他のものに優劣をつけることはできない。嫌いなのではなく、何にも誰にも興味を持つことがなかったのだ。その中から好きなものを見つけるのは、私にとってとても困難なことだった。


 お母さんも私の性格に早くから気づいていたようで、「真夜っていつもつまんなそうだよね」と言ってきた。私が四歳の時のことだ。


「つまんなくないよ、たぶん……」


 たぶん、と自信なく付け加えたのは保育園にいて楽しかったことが一度もないからだ。

 私が友達を作りたがらないことも、お母さんは重々承知しているようで、決して強要することはしなかった。その代わりに、他の楽しいことを教えてくれた。


 お母さんに勧められて読書をするようになったのはその頃からだ。本を読むのは確かに楽だった。図書室は人も少なくて比較的静かだったし、読書をしていれば誰かに話しかけられることもない。何より、灰色だった世界がほんの少しだけ色づいて感じられるようになった。本を通して世界を見ることで、今まで興味のなかった事象を知ってみたいと思えるようになったのだ。

 読んだ本の感想を伝えると、お母さんは大げさに喜んだ。私が僅かでも外の世界に興味を持ったのが素晴らしいのだと言う。いつも仕事で忙しいお母さんとの会話のネタになるのが嬉しくて、私は一生懸命に本を読み込んで、毎回異なる視点から感想を言えるように頑張った。

 純粋に読書が好きで本を読んでいる人と、根本的なところで私は違っていた。

 本は好きだ。でも、私が本を好きなのは、お母さんが本を好きだからだ。

 結局のところそれは、お母さんを媒介しなければ世界と関われないことと同義だった。


「今日は真夜の好きなグラタンだよ」と、ある日お母さんはエプロンを付けながらうきうきした様子で言った。

 リビングの小さなテーブルで学校の宿題をしていた私は、思わず動かしていた鉛筆を止めた。


「……私、グラタンが好きって言ったっけ?」

「好きじゃないの?」

「ううん、好きだけど」


 お母さんが作ってくれるものは全部好きだけど。

 そうではなくて、グラタンが特別好きだと言ったことがあっただろうか、ということだ。


「お母さんがよくグラタン作ってくれるから、なんとなく慣れてるんじゃないかな……」


 私の発言に、お母さんは目を見開いた。


「え、私は真夜がグラタン好きだと思って、頻繁に作るようにしてたんだけど」

「お母さんが頻繁に作ってくれるから、好きなんだよ」

「いやいや……」


 不毛な平行線の会話を続けた後、お母さんはフッと笑った。


「鶏が先か卵が先かならぬ、お母さんが先か真夜が先か、って感じだね」

「お母さんと私だったら、お母さんが先だと思うけど」

「……それもそうだ」


 どんな経緯であれ私がお母さんの作るグラタンを好きなのは変わらないので、別にそのままでも良かったが、以後、食卓にグラタンが並ぶ頻度は若干落ち着いた。落ち着いたことそのものに対する文句も感謝も特になかった。

 私は今でもグラタンが好きだ。あつあつのホワイトソースを絡めたマカロニに焦げたチーズがたくさんかかっているあの食べ物が好きだ。けれど、お母さんが作ってくれるものならば、グラタンでなくても良かったのだと思う。



 五月二十七日。

 ……そうだ、五月二十七日だ。こんな寂れた田舎町、小学校に入っても環境が一変するはずはなく、保育園の頃と同じように同年代の子どもたちが詰まった空間に無為に通わなければならないことにいい加減飽き飽きし始めていた、五月二十七日だ。

 頭の中のカレンダーが、五月二十七日のマスだけ赤黒く塗り潰されていたことを、私は全く、覚えていなかった。たった二ヶ月と少し前のことなのに。


 五月二十七日、何曜日だったかは忘れたが、平日だった。学校に行って帰るというルーチンワークを感慨もなくこなした覚えがある。布団に入るまでの出来事は断片的にしか思い出せないが、際立ったことは何もなかったのだろう。いつも通りお母さんと話して、いつも通りご飯を食べて、お風呂に入って。そろそろ真夜は寝なさい、と言われたのもいつもと同じ時間だった。

 いつもと違ったのは、家のあちこちにガタがきているのをお母さんと一緒に確認したことだ。中でも、玄関の鍵のかかりが悪くなっているのは一大事だった。内側から閉めていても、外から少し強くドアノブを捻ったら簡単に開いてしまうのだ。


「やだなあ、いつからだろう、これ。よく空き巣に入られなかったね」


 田舎は平和だなあとぼやいて、お母さんはドアの前に椅子を置いた。修理は次の日に来てもらうことになった。

 寝室の電気まで壊れていた。私はずっと豆電球をつけて寝ていたので、真っ暗な部屋で眠りにつけるだろうかと不安だった。


「ごめんごめん、今晩だけだから。明日になったら電球買ってくるよ」

「……じゃ、私が寝るまで横にいてよ」


 我儘を言ってみたが、「町内会のお仕事があるから忙しいの。ごめんね」とかわされてしまった。お母さんがちょっと横に座って手を握って、子守唄の一番だけでも歌ってくれたら、すぐに寝られるのに――と思ったが、お母さんの困った顔を見てごね続けられるほど私は子どもではない。

 おとなしく布団に入って、私は自分から「おやすみなさい」と言った。

 寝室が真っ暗になるのを心配して、お母さんは少しだけふすまを開けておいてくれた。おかげでリビングの柔らかい光が、心地いい生活音と共に差し込んできた。元々眠かったのもあり、私はあっさり眠ってしまった。


 次に目が覚めた時、まだ全然朝になっていなかった。


(……え、何で目が覚めたの)


 枕元の目覚まし時計を見ようとするも、部屋が暗いのと眠気で視界がおぼつかないのとあってさっぱり時間を確かめられない。ぱちぱちと瞬きをしてもう一度目を凝らそうとしたら、

「こんな時間に何の用? 帰りなさい!」

 滅多に聞けないお母さんの怒鳴り声がした。

 ああ、こんな時間に目が覚めたのはお母さんが怒鳴ったせいなのかと理解する間もなく、玄関の方からお母さん以外の誰かの気配がすることに気づいた。


「い、いいじゃないか、俺と…………だろう。……でも」


 もごもごとくぐもった声がする。大人の男の人の声だった。

 鍵の修理にきた、という感じではなさそうだと直感的に思ったが、この時点ではまだ事の重大性がわかっていなかった。夜中に私たちの家に入ってくる男とは、一体誰なのだろう。


「あんたと私の間に仲があったこととか、無いも同然っ、帰って……ちょっと、なっ、入ってこないで!」


 ドアがガン! と閉められる、金属質で不快な音。


「名前何だっけ。どこにいる? …………」

「寝てるに決まってるでしょう……もう、本当に、お願いだから帰ってよ!」


 男の気配は段々寝室に近づいてきていた。具体的に起こっていることは見えないが、二人分のどたどたという足音が布団越しに響いてくる。良くない想像をするには十分な情報量だった。

 この男は望まれない来客なのだ、と私は理解した。お母さんは男の人のことが嫌いで、それで帰ってほしいと強く思っている――。

 どうしよう。お母さんが困っているみたいだし、起きた方がいいのかな。いやいや、子どもは出しゃばらない方が。そんな考えがぐるぐると頭を巡って、私は布団の端っこを強く握った。

 二人の会話は、距離が近くなった分さっきよりもはっきり聞こえる。


「なあ、別に難しいことは言ってないよな? 娘に会わせてくれって、そう言ってるだけなのに」

「真夜は私の娘です。あんたに親権はありません。私の真夜にあんたの顔なんて、死んでも見せてやらない」


(娘……って、私のことだよね)


 つまり男の人は、自分が私の親だって言いたいのだろうか。変な話だ。私の親はお母さんしかいないのに。男の人は勘違いをしていて、他の家と間違えてうちに入ってきてしまったのかも、と私は日和っていた。


「何でそんな冷たいこと言うんだよ。ちょっとぐらい」

「真夜の親は、私だけ」


 ほら、お母さんだってこう言ってる。もっと言っちゃえ、と心の中で応援した。


「真夜は、私だけの宝物なのっ! あんたなんて、あんたみたいなクソ野郎が関われるわけないんだから!」


 声を出さずに送っていたエールが一気に小さくなって、背筋にぞくりと戦慄が走った。


(どうしちゃったの、お母さん……)


 お母さんはここまでヒステリックに金切声を上げることがあるのだと、私は初めて知った。クソ野郎という汚い言葉を使うことも。喚き散らすのも大声を上げるのも子どものすることで、お母さんのような真っ当な大人はそんなことをするはずがないと、私は無意識に信じていたのだ。

 私は布団から身を起こした。ふすまの隙間からこっそりリビングを覗こうとしたが、突然聞こえたドスンという重たいものが倒れるような音にびっくりしてやめてしまった。


「おい、近所迷惑だ」

「うるさいっ、あんたが一番迷惑だ、帰れよ、帰って死んじまえっ!」


 伝わってくる振動に身がすくむ。お母さんは男に向かって椅子か何かを振り回しているようだった。布団の中に舞い戻った私は、頭の上までしっかりと掛布団を被って目を瞑った。それでも音はシャットアウトできなくて、布団の中にまで染み込んでくる。

 お母さんはわりといい加減でさっぱりした性格ではあるけれど、死んじまえなんて乱暴な物言いは絶対にしない。ねえ、本当にどうしちゃったの?


「……るせえな、……しろ!」


 さっきまでおどおどしていたはずの男が、急に低い声を張り上げた。お母さんの悲鳴と、また何かが倒れたこと以外、布団に遮られてよくわからない。外に出るつもりはなかった。身を守らなければ、おぞましくてグロテスクな圧力に押し潰されてしまう気がして。

 もうこれ以上、お母さんが変わっていくのを認識したくない一心で、私は頭が痛くなるほど手を耳に押し付けた。得体の知れない男より、人が変わったように相手を罵倒するお母さんの方が、私には怖かった。


「……! …………!……と、……」

「……よ! お前なあ、……」


 皿の割れる音。足を振り下ろす音。壁に何かが打ち付けられる音。

 あとは――何の音?

 一粒の光もない闇の中で、私は布団のシーツを噛み、歯を食いしばった。掛布団をぐちゃぐちゃに濡らして、音の洪水に必死で耐えていた。


 どれくらいの時間が経ったのかはわからないが、音は唐突に止んだ。


(終わった……の……?)


 手や足に力を入れようとすると、最初はぶるぶると震えてまともに動かなかった。大きく深呼吸をして、手を無理に開いたり閉じたりしてからもう一度足に意識を集中させる。二回目は動いた。

 私は音を出さないようにもそもそと掛布団を除けた。さっきまでの騒動が嘘のように何の音も聞こえない。

 ほっと一息ついた瞬間、

「う、うわああああ!」

 男の叫び声が聞こえて、私はまた慌てて布団に潜り込む羽目になった。


「お、おお、おれ、俺は、知らないからな……!」


 ゴン、とさっきまでよりも小さくて硬質なものが床に落ちる音と、男がばたばたと遠ざかっていく音。玄関のドアがまた開かれて、荒っぽく閉じられて、

 今度こそ本当に静かになった。


(帰ってくれた、のかな)


 安心したら、恐ろしい気持ちでいっぱいだった頭に色んな感情が戻ってきた。安堵とか、不満とかいう類の感情だ。

 あの男の人は、私たちの家にとんでもない怪物を連れて来たのだろう、と私は推測した。こんな真夜中に(時計は相変わらず見えないけど、そうに決まってる)信じられない。人を狂わせる怪物が乗り移ったせいで、お母さんはあんなに凶悪な化け物になってしまったのだ。うん、絶対そうだ。

 男の人は帰ったようだけど、ちゃんと怪物も持ち帰ってくれたかしら。耳を澄ませてみても、お母さんの声は全然聞こえない。

 声どころか――気配まで消えてしまったみたいだ。


(……お母さん?)


 お母さんが壁の向こう側に本当にいるか少しだけ心配になって、けれどまさかそんなはずはないと楽観していた私は、ほとんど身構えることもなくふすまを開けた。

 暗闇に慣れていたところにいきなり強い光を食らったので、数秒目が眩んだ。

 直後、視界に飛び込んできたのは、異様な光景だった。


「おかあ、さん?」


 からからになっていた喉から、同じくらいかさついた変な声が出た。


 お母さんは、横向きに倒れていた。



 そこから後はあんまり覚えていない。

 思い出せるのは、吐き気を催す血の匂い。

 視界に赤くて黒い膜がかかっていたこと。

 そして私は、お母さんを見てすぐに、ふすまをぴしゃりと閉めたということ。


 再び掛布団を被った私は、自ら夜の闇に落ちていった。

 豆電球も、夜空に煌めく星も、隙間から差し込む光もない、ほんとうの闇に包まれて、私はひとりぼっちだった。

 これは夜なのだ。涙が溢れ続けて溺れてしまいそうなほど危険だけれど、ただの夜だ。夜ならばいつか終わる。明けない夜はないって、誰かも言っていたから。太陽が昇って、小鳥のさえずりが聞こえて、また目が覚めたら、

 お母さんに「おはよう」を言って、一緒に朝ご飯を食べよう。

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