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閉塞学級  作者: 成春リラ
3章 夏と救いとお月さま
16/88

15話 針と笑顔とひとりきり②

 雨は寝る前よりももっと酷くなっていた。

 忍び足で寝室を出て、壁伝いに廊下を進む。開いていたドアの隙間からリビングに入り、手探りで電気のスイッチを押すと、ぱっと明るくなった。

 目を閉じたり開いたりして光に慣らしながら、私は縁側の窓ガラスに近づく。ひんやりとした空気の感触と雨の匂いがした。雨戸を下ろし忘れていたせいか、外が見えないほど水が滴っている。帰るまでに止まなかったらどうしようか迷う。二人の言う通りもう一日泊めてもらうしかないだろうか。

 叩きつけるような雨の音は家のどこにいても同じように聞こえてくる。耳を両手で塞いでも静まってくれないのだ。おまけに、遠くで雷が鳴っている音までする。耳を劈くような轟音ではなくても、ぞわぞわと悪寒が走るのは変わらなかった。


「うるさい、なあ」


 窓の前に三角座りをして、目を閉じて、薄いカーテンの裾を握る。

 蝉の鳴き声も、人の大声も、激しい雨や雷の音も、車が急ブレーキを踏んで地面が擦れる音も、大嫌いだ。

 そういう不快な全ての音から逃げたくて、私は――。


「……どうしたの?」


 ひっく、と喉が緊張で締まり、肺が一回り小さくなったような感じがした。

 恐る恐る振り向く。閉め忘れたドアの隙間からこちらを覗き込んでいたのは、心良くんだった。


「なんだあ、心良くんか」


 心良くんは眠そうに目をごしごしして「なんだじゃないよぅ」と言う。


「まよちゃん、なんで起きてるの? よるだよ」

「ご、ごめんね」


 時計の針は二時過ぎを指していた。まだまだ寝ていないとまずい時間帯。隣で寝ている心良くんに気づかれないようにそっと布団を抜けたつもりだったのだが、申し訳ないことに起こしてしまったらしい。

 心良くんは、起こされたことに怒っているというよりも、私がこんな時間に起きていることが不思議という気持ちの方が強いみたいだった。


「寝れなかった? まよちゃん、おふとんちがうとだめ?」


 私は首を振った。カーテンを掴む手に力がこもる。


「よく目が覚めるの。家にいる時も」


 大体一時から三時の間だ。寝つきは悪くないのに、夜中になるとばっちり覚醒してしまう。そうなると布団の上で横になっているだけではどうにもならないので、こんな風に場所を移して眠たくなるまでぼんやりするのが常だった。

 心良くんはそうなんだ、と言って私の隣に座った。私と同じように、窓の方を向いて。


「寝ないの?」

「まよちゃんが寝るまでいっしょに起きてる」


 にっと笑った心良くんに、私もつられてそうなんだ、と返す。他人事みたいな言い方になった。


「あめ、すごいね」

「……だね」


 特に話すことがない時は、自然とお天気の話になる。心良くんは窓ガラスをべたべた触って「わあ、びっしょり」と濡れた手のひらを見せてきた。窓ガラスには当然、心良くんの手の跡がくっきり残っている。私はつい顔をしかめた。


「それ、やめた方がいいと思う」

「だめ?」


 手の跡から水がつう、と滴って新しく歪んだ線の跡ができた。


「乾いたら、手の跡が残っちゃうよ」


 タクシーに乗った時に濡れた窓を触っていたら、お母さんにそう注意された。いつだったかは覚えていないぐらい昔の話だ。


「じゃ、窓に指でおえかきするのもだめ?」

「だめだよ」

「窓に顔をくっつけるのも」

「そ、そんなことしてたの? だめでしょ」


 心良くんは含み笑いをして、両膝を抱きしめるようにしながら私を見た。


「まよちゃんはおねえちゃんみたいだねって言ったけど」


 日向ぼっこをしている猫みたいに、目が細くなる。


「やっぱり、ママみたい、かも」


 ――ママみたいかも。

 その発言は手毬みたいにぽんぽんと跳ねて、壁のあちこちにぶつかった後、心の中で弾けて広がった。

 意味を理解した時、ぼん! と音がしそうなほど突然に顔が火照った。


「お母さんみたいって……うわ、うわあ」


 私はつい頬を両手で押さえて、感動で言葉にならない声を漏らした。「真夜ちゃんの髪は、お母さん譲りできれいだね」と髪を褒められたことはあったが、そのままお母さんみたいと言われたのは初めてだ。

 生唾を飲み込んで、一つ呼吸を整える。


「ね、ね、私のどこがお母さんみたいなの?」


 ぐいと顔を近づけた私に、心良くんはにこっと笑った。


「あれもダメ、これもダメ、って言うところ」

「えっ」

「ぼくたちのママもよく言うもん。これは触っちゃダメ、あそこに行っちゃダメって」

「なっ……んだぁ」


 早とちりをしていたことにやっと気づいて、さっきとは別の意味で顔が熱くなる。よく考えてみたら、心良くんは私のお母さんのことを知らないし、最初から自分の母親の話をしていたのだ。


「まよちゃんのママは言わないの? だめだめって」

「うーん……だめなことはだめって言うけど、あれもこれもってほどじゃないかな」


 お母さんはむしろ、何でもやってみなさいと言うことの方が多かった。


『真夜は、知らないだけだよ』


 記憶の中のお母さんが、私の前髪を払って言う。知らないだけだよ、はお母さんの口癖だった。お母さんが言うには、世の中には楽しいことや素敵なことがいっぱいあって、私はそれを知らないだけなのだとか。

『興味を持った物は、何でも知ろうとしてみなさい? 真夜が好きになれるものは、絶対そこにあるよ』


「まよちゃんって」


 心良くんの丸い瞳が私を見ていた。いつもと変わらないはずなのに、顔の距離が近いからか妙にどきどきする。


「まよちゃんのママのこと、好き?」


 これまで一度も訊かれなかった質問に、心臓がぐるんと一回転した。

 と同時に、どうして今更そんなことを訊かれるのだろうと思った。……あ、もしかすると、さっきの私のつぶやきを聞き咎めたのかもしれない。


「もちろん。大好きだよ」

「ふーん、そうなんだあ」


 何度も小さく頷く心良くんは、頷いているわりに全然納得してなさそうだ。


「心良くん、お母さんのこと嫌いなの?」

「うーん……嫌いじゃないけど、好きじゃない……けど、嫌いじゃない」


 どう言ったらいいかわからないようだ。でも、子どもとはよっぽどのことがない限り母親を好きであるものだと思い込んでいた私には、それだけで十分カルチャーショックだった。

 実は、図書館に行った日から薄々気づいていたのだけど。改めて口にして言われると衝撃も一段と大きいというか。


「まよちゃんのママって、どんな人?」

「どんな人って言われても……えーっと、優しい人……?」

「ぼくたちのママ、優しくないや」

「あと、毎日ご飯作ってくれる」

「毎日コンビニのおべんとうだし」

「明るくて、さっぱりしてる」

「いっつもためいきついてる」

「一緒にいると、安心する、人……」


 ――なんだ、言えるものなんだね。

 目が重くなってきたのは、眠くなってきたからだろう。涙が溜まっているとかではないと思いたい。


「あー、まよちゃんはいいなあ。ぼくも、ちゃんとご飯作ってくれる優しいママが欲しかったよ」


 取り換えっこできないかなと物騒なことを言いながら、心良くんは口を尖らせて後ろに大きく伸びをしたが、起き上がった時にはもう言葉ほどがっかりした顔はしていなかった。


「ま、いいや。ぼくにはれいやくんがいるし」

「ふふっ、言うと思った。心良くんは、本当に玲矢くんが大好きなんだね」

「うん、大好き! れいやくんがいちばん好き!」


 規則正しく並んだ白い歯を見せて、心良くんは幸せそうに笑った。そのまま校内新聞の一面に載せられそうなほどに完璧な笑顔だ。

 こんな笑顔を毎日見られる玲矢くんが、この時ばかりは羨ましかった。

 心良くんはまた繰り返し頷いた。今度は納得している感じの頷きだった。


「そっか、そっかぁ……まよちゃんのれいやくんは、ママなんだね」

「真夜ちゃんの玲矢くん、て」


 誤解を生みそうな例えだが、上手いこと言ってやったとでも言いたげである。したり顔を緩ませ、心良くんは瞼をラッコのように押さえた。話も一段落ついて、そろそろ眠気に耐えられなくなってきたのかもしれない。


「かぞくで、大好きで、ずっといっしょ……なんだから。同じ」

「……うん、同じかもね」


 そうか、心良くんにとっての玲矢くんとは、私にとってのお母さんみたいな人なのか。

 心良くんが玲矢くんを大好きな気持ちが、ようやく理解できた。ううん、その気持ちは心良くんだけのものだから、一生私には理解できっこないのだけど。でも、どういうものなのかはわかったような気がする。

 きっと、家族を好きな気持ちに理由なんて要らないんだろう。それは当たり前の「好き」だから。


「心良くんも、なんだかんだ言ってお母さんのこと好きだよ、多分」

「そうかなあ。そうなのかなあ」


 言いながら、心良くんはこっくりこっくりと船を漕ぎ始めていた。私は慌てて肩を揺さぶって声をかけた。


「こ、ここで寝ちゃだめだよ。あ、まただめって言っちゃった」


 心良くんを起こしてしまったのは私なのに、リビングで寝かせたら玲矢くんに怒られてしまう。私は足取りの危うい心良くんの手を引いてドアまで誘導した。


「……ねえ、まよちゃん」

「うん?」


 まだ何か喋り足りないことがあるのか、あまり呂律が回っていない心良くんは、目を何度も開閉しながら、それでも私の方を向いて言った。


「まよちゃんは、なんで、ぼくのとなりがいいって言ったの」

「となり? ……寝る前のこと?」


 心良くんはがくんと頭を下げた。とうとう寝落ちたのかと思ったが、本人は頷いたつもりみたいだ。また顔を上げると、目を擦って無理矢理に開いた。そこまでしても私の答えを聞きたいらしい。


「それは、心良くんのことが好きだからだよ」


 特に何も考えずに私は言った。

 ドアノブに手をかけようとしたら、手首を掴まれた。


「……心良くん?」

「ほんとうに?」


 消え入りそうな掠れ声だった。


「ほんとうに、ぼくが好きなの?」


 雨に紛れるようにつぶやく心良くん。

 この部屋の静けさを塗り潰すような雨音に呑まれそうになりながらも、心良くんの声だけは、私の耳にしっかりと届いていた。


「どうして、れいやくんじゃないの?」

「え」

「どうしてれいやくんじゃなくて、ぼくなの。ぼくのどこが、れいやくんよりいいの。どこがれいやくんより好きなの」


 抑揚に乏しい声は、つらいとか悲しいとかではなく、全然わからない、という響きをしている。

 そして、心良くんが何をわからないのか、私にはわからなかった。


「私は……」


 繋いでいた手を解いて、私は心良くんの頬を片手で包み込んだ。

 心良くんの好きなところ?

 そんなの――考えなくたって言える。それだけはずっと、出会った時から変わらないことだ。


「私は、心良くんの、笑った顔が好きだよ」

「……わらったかお?」


 力強く頷き、頬を親指でそっとなぞる。

 溢れんばかりの笑顔の心良くん。

 提灯に照らされて微笑む心良くん。

 はにかみ顔の心良くん。

 くすくす笑う心良くん。

 全部、心の中のアルバムに大切に仕舞われている。一枚一枚を思い出すことができる。

 ほんの数週間共に過ごしただけなのに、こんなにも私の心を捉えてやまない。これが「好き」じゃなかったら何なのだろう。

 きっと、私が知らない心良くんの笑顔はまだまだある。過ぎてしまった過去から、遠い先の未来まで、心良くんの笑顔で埋め尽くされているんだ。

 知りたい。全部知りたい。全てに触れたい。


「私、心良くんにずっと笑っててほしい。心良くんの笑った顔を、ずっと見ていたい」


 これから先もずっと。それは決してできないことだとわかってはいても、せめて夏休みが終わるその日までは、祈り続けたいと思った。


「ぼくたちの、じゃなくて、ぼくの」


 頬を包む指が、弱々しく握られる。心良くんの手はあったかくて、少し湿っていて、柔らかくて、小さい。


「ぼく、の……」


 心良くんの声は次第にすぼんでいき、最後の方は耳を近づけても内容が聞き取れなかったが、むにゃむにゃと何かを訴えようとしているのはわかって、それが酷くもどかしかった。

 小さな手が、私の手首から落ちるように離れた。


 部屋にふらふらと入っていった心良くんは、ぼふんと音を立てて布団に突っ伏すと、そのまま一度も寝返りを打つことなく眠りについた。起こしちゃってごめんねと声に出さずにもう一度謝って、心良くんに毛布を被せる。

 玲矢くんやおばあさんを起こしてしまわないように、私もゆっくりと布団に仰向けになる。

 天井の豆電球を見つめていたら、ふと思い出した。


(……そういえば、さっき心良くんには言えなかったな)


 まあ、いいか。わざわざ言うことでもないし。私は目を閉じて、まどろみの中に落ちた。


 ――私のお母さんは、「今」いないということ、なんて。





「……ん、……ちゃん、まよちゃん、まよちゃん、起きて」


 耳にかかる息がくすぐったいのと、揺すられるのが鬱陶しいのとで目が覚めた。

 まず、相手は誰だろうと思った。兄弟どちらかであることはわかるが、寝起きのはっきりしない頭とぼやけた視界では判別できない。意識的に瞬きをして目を凝らしてみてもわからなかった。

 次に考えたのは、今何時だろう、ということだった。毎日ぴったり七時半に起きる私が、誰かに起こされることは滅多にない。

 まさか、初めての寝坊? それとも、二人の家ではもっと早く起きるのが普通とか?

 もしかして、私が最後に起きたのか? おばあさんに迷惑を……。

 そこまで考えて、顔からさっと血の気が引いた。


「あ、起きた。ぼくだよ、れいやだよ」


 私の目の前でひらひらと手を振っているのは玲矢くんだった。左側、つまり布団と窓の間にしゃがんで私の肩を揺さぶっていたようだ。

 右を見ると、掛布団を脱ぎ捨てた心良くんがぐうすか眠っている。

 更に奥を見ると、おばあさんもまだ布団に寝そべっている。

 ……私は一人、玲矢くんに起こされただけであるらしい。


「あの、玲矢くん」


 色々言いたいことはあったが、とりあえず今何時なのと訊こうとしたら、左手を掴んで引っ張り上げられた。


「きゃっ」

「しずかにしずかに」


 唇に人差し指を当てて、玲矢くんは囁く。

 昨晩の私みたいに部屋の端っこを忍び足で移動する玲矢くんに手を引かれ、私は為すすべもなくあとを付いていった。玄関の窓からは白い光が差し込んでいる。雨音は全く聞こえてこない。私と心良くんが再び寝てから今までの間にすっかり止んだみたいだった。あんなに土砂降りだったのに、こうも一晩で雨雲がどこかへ行くものなんだろうか、とちょっと変な感じがした。


 一緒にリビングに入ると、玲矢くんは自分でドアを閉めた。バタン、という音が朝の静けさの中に妙にこだました。

 私は時計を見上げた。まだ六時半だった。どうりで目が覚めなかったわけだ。いつもこの時間に起きていると言われても不思議でない時間ではあるけども、それだったらどうして心良くんやおばあさんも一緒に起こさないんだろう。


「ねえ、玲矢くん、どうしたの」


 玲矢くんは鼻歌を歌いながら軽やかに歩いていった。と思えば、キッチンの奥にある食器棚やテーブルの上に置いてある文房具入れから何かを取ってくると、すぐに戻ってくる。

 片方は、よくあるガラス製のコップだった。

 もう片方は、

(何、あれ……)

 名称はわかる。何に使うものなのかもわかる。

 今なぜそれを持ってきたのかが、わからない。


「玲矢くん、何を」


 三回目の呼びかけにも玲矢くんは答えず、私の前を通り過ぎていき、徐に水槽の前で立ち止まった。昨日お祭りで貰った金魚が入っている、あの直方体の水槽だ。

 玲矢くんは取ってきたものを一旦棚の上に置くと、容器を開けて金魚の餌をほんの少し摘み、水槽の上からぱらぱらと散らした。容器を置いて再びコップを手に取り、じっと水槽の中を見つめる。ただし、金魚すくいの時のような鋭い目つきではない。もっと穏やかで、余裕のある目だ。

 私は玲矢くんにそっと近づき彼の視線の先を見てみた。やっぱり昨日と同じ黒い金魚だ。真夜と名付けられた、黒い――。

 刹那、玲矢くんがコップを持った手を水槽の中に突っ込み、水面付近まで泳いできた黒金魚をすくい上げた。

 水槽の中の水がバシャアアと周囲に飛び散り、私の顔にも数滴跳ねた。


「……っあ、」


 突然のことに息が止まりそうになる。だが、本当に信じられない事態が起こったのはその後だった。

 玲矢くんは流れるようにコップを逆さにし、床の上へ中身をぶちまけたのだ。

 コップから大量の水と一緒に零れ落ちた金魚は、フローリングに打ち付けられてびちびちと暴れている。

 水が滴るコップを、かえって恐ろしいほど落ち着いて棚の上に置いた玲矢くんは、もう一つの道具を――千枚通しを取って、両手でしっかりと握ったまま床に膝をついた。


「……れい、や、くん」


 玲矢くんが何をしようとしているのか、もう訊かなくてもわかった。


(……あれ? それなら、まさか)


 私の頭を過ったのは、初めて二人と出会った日の翌朝の出来事だった。

 あの日、玲矢くんは死んだ猫を抱えて一人、庭で泣いていて……。

 そうだ、玲矢くんは一人だった。心良くんもおばあさんも、周りにはいなかった。


『表の道路でね、車にひかれてた』

『またあそぼうねって、言ってたのに』


 あれはもしかして、交通事故ではなかったんじゃないか。


『まよちゃんは……』


 何かを言いかけて、私に背を向けた玲矢くん。

 本当は、何を言おうとしていたの。


 そんなわけがない。

 だってあの時、玲矢くんは本当に悲しそうに涙を流していたんだ。猫が死んでしまったことがつらくてつらくて仕方ないという風に。そうとしか見えなかった。考えられなかった。

 それなのに――どうして玲矢くんは今、床の上で飛び跳ねる黒い金魚に向かって、文房具入れから自分で取ってきた、ぴかぴか光る千枚通しを何回も、何回も振り下ろしているのか。


「んっ、うまくいかないなぁ。動かないでほしいんだけ……どっ」


 少し熱を持った、けれど基本的にはいつもと変わらない声で玲矢くんはぼやいた。尾びれをばたつかせて跳ね回る金魚は、千枚通しから辛くも逃れている。玲矢くんに捕らえられそうになった時の何倍も必死に見えた。


(猫は、結構大きかった)


 下半身がちぎれて無くなっていた。あんなことが私と同い年のこの小さな男の子にできるのだろうか。猫の手足は一本しか残っていなくて、胴体は赤黒く汚れていて、

「う……」

 猫の死体の様子を隅々まではっきり思い出してしまい、私は口と鼻を押さえていた。脚からみるみる力が抜ける。視界がぐらん、と傾く。思わず足元にくず折れると、床に零れた水がパジャマをしとどに濡らした。


 爽やかなはずの空気が、いつの間にか重い圧を持って私と玲矢くんを取り囲んでいた。「……はあっ」なんだか息苦しさを覚える。荒い呼吸のテンポはじわじわと速くなっていった。


 ぶちゅり、と気色の悪い何か柔らかなものが潰れる音がした。


「あっ、やったぁ! まよちゃん、刺さったよ!」


 玲矢くんは楽しそうにはしゃいだ。割れないしゃぼん玉を作った時も、黒い金魚をすくい上げた時も、こんなに嬉しそうにしなかったくせに。

 目を背けているのに、玲矢くんが金魚に刺さった千枚通しを引き抜くのが見えた。金魚の尾びれが床を叩くことはもうなかった。私は固く目を瞑った。


「まよちゃんも、やってみる?」


 暗闇の向こう側から、遊びに誘うような声がする。冗談じゃない。私は激しく首を振った。

 玲矢くんは息を呑むと、少しだけ声を潜めて淋しそうに「そっかぁ」と言った。どこか諦めたような響きがあった。けれど、その直後には元の調子に戻っていた。


「じゃあ、ぼくがやるね!」


 再び聞こえる、金魚に針が突き刺さる音。引き抜いて、刺して、引き抜いて。

 刺して――、今度は引き抜かなかった。


「あーあ、ぐちゃぐちゃだ。もう動かなくなっちゃった」


 せっかくいちばん大きいのを捕まえたのに、と玲矢くんは独り言のように言った。


「やっぱり金魚じゃだめかぁ。でっかくても、ちっちゃいもん。……あ、ラムネのびんどうしよう。いらなかった」


 衣擦れの音と連動するように、玲矢くんの気配が迫ってくる。

 悪い匂い、嫌な匂い、生々しく鉄臭い匂い、日常ではほとんど嗅ぐことのない異質な匂い、違う、本当はこれは、この匂いの本当の名前は、

 ――「血の匂い」、だ。

 認識した途端、頭の奥の方にキィン! と劈くような痛みが走り、それまで麻痺していた理性が急速に活動を始め、恐怖と吐き気と目眩が一斉に襲ってきた。


「ああっ……ううっ、うえええっ……」


 胃の底からこみ上げる苦くて酸っぱい液体が喉を灼いていく。吐いちゃだめだ、こんなところで吐くのはだめだと回転する意識の中で自分に言い聞かせる。


「ねーえぇ、まよちゃん、目え開けてってば」


 甘く思考を蕩かす声音に操られるように私は目を開き、そのことをひどく後悔した。

 突き出されていたのは、最早原型を留めていないほど縦にも横にも広がったぶよぶよした物体だった。千枚通しには刺さっているというよりも辛うじて引っかかっているという具合で、私の目の前を不安定に揺れている。

 物体から垂れた真っ赤な体液が私の膝にぽたりと落ちた時、反射的に肌が粟立った。


「いやあああああっ!」


 玲矢くんは、全く狼狽えなかった。

 私は縛り付けられたように動かない脚を引き摺って離れようとしているのに、玲矢くんはその都度距離を詰めてくる。


「それっ……やめて、近づけ、ないで! 見せないでっ!」

「ええー、やっぱりだめかあ」


 じゃあ今度からはしないよ、と反省したかのような台詞を吐きながらも、玲矢くんは物体を片付けようとしない。

 頭の奥の激痛は、引くどころかどんどん増していく。痛みが脳みそを突き破って外に溢れるんじゃないかと思うほどに。口から手を離して両手で頭を押さえると、今度は濃厚な血の匂いを直接吸い込んでしまった。

 見えている景色が、全く違うものに切り替わる。

 時間は夜。場所は明かりの灯らない部屋。


「いやあっ、いやあああ、やだあああっ! やだ、やだよ、やあっ……」


 違う、こんなのは、こんなのは知らない。

 臭くて怖くて危なくて暗くてうるさくてひとりぼっちであかくてくろくて――私は知らない!


「まよちゃん、これ怖い?」


 玲矢くんがまだ何か言っている。怖いかだって? 何で当然のことを訊くんだ、怖いに決まってる。恐ろしい、怖くてたまらない――何が怖いんだろう?


「うららくんが見たら……なんて言うかなあ。ふふっ」


 玲矢くんの左手が私の顔に伸びてきて、目の下を滑っていく。私の目から零れる大粒のしずくをすくい取ると、玲矢くんはクスクス笑った。


「あ、泣いてる」


 憐れむでもなく、面白がるでもなく、凹凸のない声で玲矢くんは言った。それなのに、玲矢くんは一片の濁りもなく微笑んでいる。いっそ天使のようですらあった。汚れた世界の中で、ただ笑っている、からっぽの天使。

 白い微笑みの天使の口から、呪詛の言葉が紡がれる。


「ねえ、まよちゃんの□□□□□□ときも、泣いたの?」


「知らないっ!!」


 喉が枯れるほど叫んでも、悪夢のような現実は変わらなかった。

 聞きたくない、見たくない、知りたくない、考えたくない!

 血の匂いなんて知らない、ひとりぼっちなんて知らない、暗い部屋なんて知らない。見たことないんだもの、覚えていないんだもの!


「もうやだぁっ、やめて、お願い、やめてよぉっ!」


「ぼく、□□□□□□□ところって見たことないんだけど、どんなきもちになった? まよちゃんは……」


 千枚通しを転がして私の肩を掴もうとする手を、何も考えずに振り払い、玲矢くんを突き飛ばす。


「さわらないでえっ!」


 両手を床につき、私はよろよろと立ち上がった。ああ、脚が動く。逃げなきゃ、ここから早く逃げなきゃ。

 玲矢くんの声は、ほとんど耳に入ってこなかった。

 絡まる足を強引に前に出すようにして、私はその場から駆け出した。

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