10話 嘘と本当と物がたり②
意気揚々とバスに乗り込んだ二人が入り口で止まっているので、私は横側から覗き込んだ。
「どうしたの?」
玲矢くんが振り返って、すぐ横にある整理券の発行機を不思議そうに指差す。
「ピッてするやつがない」
「ぴ?」
二人がリュックサックから取り出したのは、ケースに入った銀色のカード。もしかしたら、ICカードというものかもしれない。以前読んだ小説の主人公が、それを使って電車に乗っていた。
「ええと、これ町内バスだから、カードは使えないよ」
バスに乗ると、冷たい空気がひゅんと服の中に入った。
私は発行機から整理券を一枚引き抜き、「これ取って」と二人に教えた。
「番号が書いてあるでしょ? で、あそこの運賃表示板と見比べて、バスから降りる時にお金を払うの」
心良くんと玲矢くんは「楽しそう!」と目をキラキラさせ、小さな人差し指と親指で整理券をゆっくり摘みとった。二人にとっては新鮮なものだったようだ。
車内は夏休みとは思えないほどガラガラだ。私たち以外には杖をついたおじいさん一人しかいない。いつもよりひんやりしているように感じるのは、多分汗をかいていたからだ。私はバッグからこっそりハンカチを取り出して首元を拭った。
双子は真ん中の二人掛けの席にぴょんぴょん飛び乗って、窓ガラスを手のひらでぺたぺた触った。
「すごーい、ほこりだらけ!」
「ねえねえうららくん、席がぐらぐらするよ」
「ここ破れてるね」
「……あの、二人とも少し静かにね」
未だバスを発進させない運転手がこちらをギロリと睨んできたので、私は小声で二人を注意した。本人たちに悪気はない、というかむしろ楽しんでいるのだろうが。
二人は「はあい」と素直に返事をして、おとなしく椅子に座り直した。私は二人の後ろの席に一人で座る。
運転手はようやく前を向き、「発車いたします」とアナウンスを流した。バスはのろのろと動き始めた。
花浜町立図書館の最寄りである「町立図書館前」は、ここから七つのバス停を挟んだ先にある。巴さんに用事が特にない時は、車で送ってもらっていた。巴さんがわざわざ送り迎えをしてくれる理由は定かではないが、とにかく私が家にいるのが不都合なのだろう、きっと。
そういうわけなので、バスを使って図書館に行くことは結構久しぶりだった。
「わー、みてみてれいやくん、たんぼだよ」
「ひろーい!」
車窓から見える一面の緑に、双子は興味津々だ。この時期は丁度稲穂が顔を出し始めていて、農家の人たちが肥料を撒いていた。
「心良くんたちの学校では、稲刈り体験とかあるの?」
私の通う花浜町立小学校では、毎年秋になると五、六年生が稲刈りに行かされるらしい。かなり先のことではあったが、率直に言って憂鬱だった。稲刈りの時期はまだまだ暑いのに、外で長時間働かされるなんてたまったものではない。
「いねかり!」
「したことあるよ、いねかり」
「え、嘘」
うっかり口から滑り出た言葉に、双子は「ほんとだよぉ!」と仏頂面になった。
「たんぼが金色のじゅうたんみたいだったよ」
「みんなでいねかりしたよ」
「かりかり」
「ウソじゃないもん」
そうは言っても、私たちはまだ一年生だ。――いや、稲刈りの時期はこれからだから、二人が言っているのは保育園に通っていた頃の話ということになる。
私が「稲刈り、どうやってしたの?」と席から身を乗り出して問うと、二人は突然口ごもり、
「え、えーっと」
「うららくんがね、お、おっきい車で」
「うぃーんってしてね」
と目をきょときょとさせた。
ほら、やっぱり嘘じゃん。とは思ったが、私は「それで?」と続きを促した。
「え?」
「車……コンバインって言うんだっけ、を、運転したんだよね。その後どうしたの?」
双子は顔をぱあっと輝かせて、「そう! こんばいん!」と話に乗ってきた。
「うららくん、運転がめちゃくちゃ上手だったの」
「れいやくんもいっしょにやったでしょ」
「大人のひとがすごいねえってほめてくれて」
「その後みんなでお米をたいてたべたよ」
「おいしかったね」
私は時折相槌を打ちながら、二人の話に耳を傾けた。一分の隙もなく交互に捲し立てる二人は、窓から差し込む太陽の光を浴びてきらめいていた。心良くんのさらさらの髪の毛には、白い天使の輪があった。
心良くんが興奮で目を見開いた瞬間、透き通ったビー玉のような瞳がはっきり見えて、私は声を出さずに「あ」と感嘆した。泣いていないのに潤んでいるように見える心良くんの瞳は、こちらが涙ぐんでしまいそうになるほど綺麗だった。
ふと、その目に触れてみたい、と思った。
おそらく表面は滑らかで、つるりとしていて、押したらぷるぷる震えるのだろう。柔らかいのに弾力があって、そう、きっと果物と同じ触感だ。
心良くんが瞬きをする度に瞳が隠れるのが惜しくて、心のどこかがじりじりと疼く。
瞼をこじ開けて、画鋲か何かで固定して、満足するまで指先で撫でたら、どんなに幸せな気持ちになれるだろうか。
いいや、いっそのこと舐めてみよう。どんな味がするのかな。心良くんの目のことだから、熟れた桃やさくらんぼみたいに甘い味が
「まよちゃん?」
心良くんの瞳に触れる寸前で、私は右手の指をぴたりと止めた。同時に喉の奥が引き攣ったようにヒクッとして、息も止まった。
何も聞こえなくなっていた耳に、音が戻っていくのを感じた。バスががたがたと揺れる音、運転手のアナウンス、外で鳴いている蝉の声。
――今、私は何を考えていた?
「ぼくの顔になんかついてる?」
心良くんは身をよじって私の指を避けると、自分の頬を触った。私は小さく深呼吸して息を整えてから、無理矢理に口角を上げた。
「あ……ううん、何もついてないよ」
「そう?」
危なかった。心良くんの声が聞こえなかったら、本当に目に触っていたかもしれない。私は火照った頬を左手で押さえて、右手の人差し指には爪を食い込ませた。
「まよちゃんって、時々ぼんやりすること、あるよね」
心良くんは困ったような笑みを浮かべた。「ぼくたちの声が、聞こえてないみたいな」
「そう、だね。……えっと、それで、何だっけ」
「うん! それからね、農家のおばちゃんたちがおにぎりを作ってくれたんだけど……」
再開した話を、私はほとんど聞いていなかった。心良くんと目を合わせるのが恥ずかしくて、だからと言って目を伏せるのも不自然で、所在無げに視線を動かしていた。
当然のように、玲矢くんと目が合った。
「……」
玲矢くんは口を噤んで何かを言いたそうに私をじっと見ていたが、数秒後には心良くんの話に混ざっていた。
さっき心良くんの瞳に触れようとしていた指先を見つめる。食い込ませた爪の跡があった。
私は何を考えていたんだろう。胸中で反芻する。
心良くんの瞳に触って、それで――舐めようとしていた。
(何でそんな、バカみたいなことを)
暑さで頭がおかしくなっていたのだと結論付けるには、車内は涼しすぎた。
バスのアナウンスで「次は、町立図書館前」という声が流れてくるまで、体感でいつもより遥かに長い時間が経った。その間私はずっと黙っていたが、二人も気にすることなく話していた。
「あ! 次、だよね?」
私が心良くんの言葉に頷くと、二人は背伸びをして降車ボタンに指を添え、
「せーの!」
と、声を揃えて同時に押した。ピンポーンという軽快な音が車内に響いた。町立図書館前、停車します。運転手の疲れた声も響く。
二人は「いぇーい」と陽気にハイタッチをして、いたずらっぽく笑った。
「へへっ、人が全然いないから押せるね」
「いつもは先に押されちゃうもんね」
「……バスのボタン押すの、好きなの?」
兄弟の嬉しそうな様子に引っ張られるように、私は何とか声を絞り出した。
二人の気持ちはわからないこともないが、やたらとバスのボタンを押したがるのは子どもっぽいというイメージがあった。
「えー、まよちゃんは好きじゃないの?」
「別に……何で好きなの?」
「うーん、わかんない!」
元気よく言った玲矢くんに、私は「何それ」と力なく笑顔を見せた。
指先には、甘い痺れがまだ残っていた。
*
図書館に足を踏み入れて、私は本の匂いを吸い込んだ。
二週間ぶりの図書館は、夏休み中ということもあっていつにも増して人が多かった。カウンターに列ができているのを見るのは珍しい。その分少し騒がしいが、そこは諦めるしかない。
一年前に改装されたこの建物は、田舎の町立図書館にしては現代的な作りだ、と入り口に貼られている新聞の切り抜きに書いてあった。褒められているのか貶されているのかよくわからないが、天井が高く開放的で木の温もりを感じる空間は居心地が良かった。何より、清潔で綺麗だ。
全身がリラックスしていくのがわかる。心良くんたちと毎日遊ぶことは勿論楽しいのだが、普段は一人で本を読んでいたい私にとって、図書館は第二の家だった。
「あ、二人とも。私本返してくるから……」
自由に本読んでて、と振り返ろうとしたら、私の左右を風のように何かが駆け抜けていった。
「わーい! としょかん!」
「れいやくん、あっちいこー!」
どたどたと靴音を鳴らして、二人はあっという間に見えなくなった。
「ちょっ……図書館の中で走っちゃだめだよ!」
聞こえたかなあと不安になったが、私に言われなくてもどうせ図書館の人に注意されるだろう。無理に追いかけようとはせずに、私はカウンターの列に並んだ。
バッグの中から本を取り出して、待機。返却する本は四冊。その内半分が小説で、もう半分が絵本だ。前回来た時はあまり時間がなくてたくさん借りられなかったので、今日は上限いっぱいまで借りようと思った。あ、でも心良くんたちはカードを持っていないから、私のカードで借りてもらわないと。
今日図書館に来たのは、双子の退屈を紛らわせる為でもあるが、実はもう一つ目的があった。夏休みの自由研究で使えそうな本を探すことだ。
私の小学校では一年生から六年生まで、夏休みは必ず自由研究の宿題が課されていた。初めてだから何をしたらいいかわからないし、気軽に相談できる人もいない。家にあるパソコンは常に雅さんが占領していて触れることもできないので、図書館で調べようと考えていた。多分自由研究のテーマをまとめた本があったはずだけど、ああいうのはどのコーナーに置いているのかな、と考えていたら私の番が回ってきた。本をカウンターに出して返却手続きを済ませる。
私は急いで引き返すと、叱られない程度に速足で館内を歩いた。まずは二人を探そう。一体どこまで行ったんだろう。
真っ先に児童書コーナーに行ってみたが、二人の姿はない。
代わりに、同じクラスの女の子を見つけてしまった。
名前は覚えていなかったが、よく学校の図書室で見かけるので顔は知っていた。ボブカットの髪に大きな丸眼鏡をかけた子だ。勿論、話したことは一度もなかった。でも、女の子が普段何を借りているかは知っている。海外の児童小説だ。図書室に来ると彼女はいつも同じ棚を物色しているので、いい加減覚えてしまった。この図書館に来ても探しているものは同じであるようだ。
別にじっくり見ていたわけではないのだが、目が合ってしまった。女の子はびっくりしたように目をぱちくりさせて、その場で足踏みをした。何やら、もじもじしているように見える。
あまりクラスメイトと顔を合わせたくはなかったので、私は踵を返してその場を後にした。女の子が追ってくる気配はなかった。
周りを見渡しながら館内を歩いていると、兄弟の声が聞こえてきた。私は急いで声の方向に向かった。
「すごいねえ、いっぱいあるね」
「うちにあるの、どれかなあ」
二人がいたのは新聞や雑誌のコーナーだった。玲矢くんが先に私に気づいて、大きく手を振った。
「あっ、まよちゃん見て見て! 新聞がたくさんあるよ!」
私はホッと胸を撫で下ろして二人に近づいた。図書館は広いので、完全にはぐれてしまったらどうしようかと思っていたのだ。心良くんと玲矢くんは、色々な種類の新聞を手に取って見比べている。図書館には山ほど本があるのに、二人が興味を持つのがよりによって新聞だなんて。私はくすくす笑った。
「新聞、読めるの?」
学校ではまだ漢字を習っていないので、日常的に使うような簡単なものしかわからない。私だって小説を借りる時はふりがなが振ってあるか確認するし、無ければ諦める。新聞は到底無理だ。心良くんたちも、中身を読んでいるわけではなさそうだった。
「ううん、こんなにたくさんあったら、破きほうだいだなって」
と、玲矢くんがにこにこと言った。
「お家だとびりびりにしたら怒られちゃうもんね」
「ママ、新聞すぐ捨てちゃうし」
図書館の新聞だって破いちゃ駄目だよと言うと、二人は「わかってるよぅ」と声を揃えた。
「いっぱいあるからすごいなって思っただけだよ」
「でも、古いやつは捨ててるのかな」
「捨てるぐらいならほしいね」
玲矢くんは「これとかだめかな」と棚の一番後ろにあった新聞を取り出した。「駄目に決まってるでしょ」と笑いながら玲矢くんの手元に視線を落とした時、新聞の右上に書いてある日付に目が留まった。
漢数字と「月」「日」ぐらいなら、私でも読める。
七月二十七日。
「……ん、あれ」
頭の奥で、何かが引っかかった。
小さいけれど、決して見逃せない異物感だ。例えるならば、お気に入りの靴の中に入っていた尖った石。最初からそこにあったのに、今の今まで存在に気づかなかったような、正体不明の石ころ。
(七月、二十、七日……)
心良くんたちに出会った二日後の日付だ。特別なことはなかったはず。
なのに、どうしてこんなにも気にかかるのだろう。
私は口を手で塞ぎ、記憶の引き出しを片端から開けていった。
新聞の見出しに書いてある文字は読めないが、一面には総理大臣の写真が載っていた。これは特に関係ない……と思う。
異物感は次第に大きくなり、頭の中でごろごろ転がっていく。転がるというより、「倒れて」いく。
どすん、どすん。頭の奥の方で轟音が鳴り響く。
(何かが、倒れて)
――私は一息で玲矢くんの手から新聞を強引に取り上げて元の場所に戻した。
「……?」
玲矢くんは何が起こったかわからないという風にぽかんとしている。
「あ……」
私は自分のしたことに気づいて「ご、ごめんね」と一言謝った後、
「なんか、これは見ちゃいけない気がして」
と正直に伝えた。
「ふぅん?」
二人はことりと首を傾げたが、私が棚に戻した新聞を再び取ろうとすることはなかった。
心良くんはきょろきょろと視線を忙しなく動かし、「あ!」と遠くを指差した。
「えほんのコーナーってあっち?」
「おー、いこういこう!」
双子の興味は移ろいやすいのか、元々さほど興味があったわけではないのか、二人はもう新聞に用はないみたいだった。それどころか、私が肩を掴む間もなく児童書コーナーに向かって駆け出して行ってしまったのだ。
「あっ、ちょっと、二人とも待って! 走っちゃだめぇ!」
二人を追いかける前に、私は振り返って新聞の入った棚を見た。
「……」
新聞に伸ばしかけた手を、弱々しく握る。
不可解な異物感は消えない。何が私の心を捉えて離さないのかわからない。
それでも、気にしないことにしようと誓った。
そうしないと、とても恐ろしいことが――取り返しのつかないことが、起こってしまう気がした。
*
自由研究の本は、一ヶ所にまとめて置いてあったので探しやすかった。夏休みが始まって一週間近く経っていることもあり、何冊かは既に借りられてしまっていたが、今ある分で十分だった。バラエティ豊かな実験や工作が載っているページは、パラパラめくっているだけでも楽しい。読書感想文は夏休みが始まる前に一日で書き上げてしまったので、問題集や絵日記、朝顔の観察日記などを除くと残すは自由研究のみ。まだ夏休みは一ヶ月もある。ここはじっくりテーマを選びたい。
近くにあったテーブルに数冊の本を広げて読み比べていると、「だーれだ!」と後ろから目を塞がれた。頭の後ろから含み笑いが聞こえる。私の顔に当たっている手は小さくて、柔らかくて、ふにふにした感触だ。こんなことをするのは勿論双子しかいないのだが――。
「心良くん」
間髪入れずに答えると、「ええっ!?」と度肝を抜かれたような声がして、視界が明るくなった。
テーブルの前に回り込んで目を丸くしているのは、やっぱり心良くんだった。ちなみに、今日の心良くんは赤いTシャツ、玲矢くんは橙色のTシャツを着ることで区別している。
児童書コーナーに来てからは、自分の好きな本を求めてバラバラに行動していた。心良くんと玲矢くんは途中まで一緒にいたようだが、今は近くに玲矢くんの姿はなかった。
図書館の時計を見上げると、もう三時間も経っていた。今日はいつもより来るのが遅かったので、そろそろ帰る支度をしなくてはならない。帰りのバスがやってくる時間は四時十六分だ。これを逃すと家に帰り着くのが六時を過ぎてしまう。流石の巴さんもこれには渋い顔をする。それより先に雅さんが「あたしは門限六時なのにズルい!」と言い始める。
「なんで!? なんでわかったの!?」
「え……っと、なんとなく」
「なんとなくでわかるの? まよちゃんすごい!」
「そうでもないと思うけど……」
私も明確に二人の違いを理解しているわけではないし、常に正確に見分けろと言われたら難しいと思う。何しろ二人は顔がそっくりであるどころか仕草や性格まで同じだし、行動が完全に同調していることも多々ある。
ただ、ほんの少し声が違った。一週間聞き続けていてもほとんど感じ取れないほどの微弱な差だが、心良くんの方がちょっとだけ声のトーンが低い。もっとも、それだけで二人を区別できるはずもないので、結局のところ勘である。
そのことを心良くんに伝えたら、いたく感心された。
「まよちゃんはすごいねえ。ママでもまちがえるのに」
「そうなの?」
「ていうか、どっちがどっちでもよさそう」
心良くんが言うには、双子のお母さんはあまり彼らの名前を呼ばないそうだ。二人一緒にいる時は「あんたたち」、一人しかいない時は「あんた」、他人に説明するときは「うちの息子たち」。どうしても名前を呼ばなければならない時だけ、「あんたどっちよ」と訊いてくるらしい。
「それ、間違えるっていうか、わかってないんじゃない……?」
「どーだろう。でも、別にいいけどねぇ」
心良くんはあっけらかんとしている。
「ぼくたち、二人で一人だし」
本の上を滑らせていた指を、私はぴたっと止めた。
「二人で一人?」
「うん。ふたりでひとり。ぼくとれいやくんでワンセット」
心良くんはにやりと笑って、さも当然のことのように言った。
「だってぼくたち、双子だもん」
「……」
「………どうしたの?」
あんまり平然と言われたので、私は舌の先まで出かかっていた言葉を飲み込んでしまった。「でも、心良くんと玲矢くんは、別の人間だよ」――言ったところで、心良くんは落ち込むことも喜ぶこともなく、ただ訝しげに私を見つめるのだろう。
「…………うん」
長めの沈黙の後、そう返事をするしかなかった。
私は話題を変えようと思って、「心良くんは何か借りないの?」と尋ねた。心良くんは何も持っていなかったのだ。
「あ、さっきれいやくんといっしょにえらんでたの。今はれいやくんが持ってるけど。それにするよ」
「へえ、何にしたの?」
「えっとね……」
心良くんの言ったタイトルは、聞き覚えのあるものだった。昔借りたことのある絵本だろう。
深く考えずに連れて来てしまったが、インドア派な私と違ってアウトドア派の印象が強い二人でも本を読むというのは結構驚きだった。心良くんたちの家に本を持ってくることはあっても二人の前で出すことはなかったので、私も二人の読書事情は全く知らなかった。
「心良くんも、本好きなんだね」
私が呟くと心良くんは途端に渋い顔をして、「うーん……」と歯切れが悪くなった。
「あのね、ぼくたちの家……ママとパパがいる方ね、には、絵本がいっぱいあるんだけど」
なんでも、そのどれもが保育園で貰った幼児向けの絵本で、心良くんも玲矢くんもすっかり飽きてしまっているらしい。休み時間にはわざわざ図書館へ行かないし(これも私からすると信じられないことではあるが)、新しい本を買ってもらうこともないから、最近は全然本を読んでいないのだとか。
「だから、家にいる時はテレビ見てるかなあ。アニメとか」
「アニメかあ」
それこそ私の知らない領域だった。
私の家にテレビは無かったし、見たいと思ったこともなかった。クラスメイトが盛り上がっていても、会話に入りたいとすら考えなかった。
どこにいても、私は部屋の隅っこでずっと本を読んでいた。
「今見てるのはねえ、南の島に行ってモンスターをやっつけたりするやつなんだけど、ヒーローがかっこよくてね、ぼくとれいやくんも南の島に行ったよねって話してて……」
饒舌に喋り始めた心良くんを見ながら、なるほど、南の島がどうこうという話はそのアニメを見て思いついたのだろうと察した。記憶の順番が入れ替わっているちぐはぐさがなんとも心良くんたちらしい。
「ぼくたちが行った島にはモンスターはいなかったから、たいくつだったんだよね」
「モンスター、倒せるの?」
くすくす笑うと、心良くんはちょっと頬を赤くして「たおせるもん」と拗ねたみたいに言った。
「れいやくんもぼくも、ながーい剣持ってたし。ぼくたちの背よりずぅっと長いやつ」
「それは持てない気がするけど」
「も、持てるし! なんか、ふしぎな力があるから!」
自分の背丈よりも遥かに長い剣を振り回す心良くんと玲矢くんを想像したら可笑しくて、両手で口を押さえて笑ったら、「笑わないでよぉ!」と心良くんはますます顔を真っ赤にした。
「ご、ごめん。想像したら面白かったから」
心良くんはしばらく頬を膨らませてぷんぷんしていたが、やがて疲れたような表情になると、口をへの字にした。よほど腹が立ったのかまだ不機嫌そうなので、私は焦った。
「あの、ごめんね。そんなに怒ると思わなくて、つい」
私が手を合わせると、への字の口のままふるふると首を振られた。
「ううん、ちがうの……」
右手の人差し指を弄りながら、心良くんは視線を彷徨わせていた。言葉を探しているみたいだ。私は茶々を入れずに発言を待った。
「あのね」とか「えっとね」と何回か迷った末に、心良くんはおずおずと話し始めた。
「まよちゃんはさ、ぼくたちの話を聞いても、『うそだ』ってあんまり言わないよね」
そうだっけ。私は顎に指を当てて考えた。
「言ったこともあるよ」
「だからっ……んー、うそって言わないっていうか、それだけじゃなくて……」
心良くんは(皆そうかもしれないが)考えをまとめている時に視線がよく動く。口調もしどろもどろになる。やましいことは何もなくても、隠し事をしている見えるのだ。本人は、この仕草が原因で先生から偶に叱られるとしょんぼりしていた。可哀想ではある。
散々悩んだ末に、心良くんはひらめいたようだった。
「まじめに聞いてくれる! その次は何があったのって、きいてくれる!」
「……うん、そうかもね」
「しんじて、くれるの?」
心良くんは腕の上に顎を乗せると、上目遣いになった。ただでさえ綺麗な瞳にいっそう目を引かれてしまう。本人に自覚はないのだろうが、ずるい。
「いや、本当だとは思ってないよ」
私は心良くんと微妙に目線をずらして正直に答えた。
「え……えええ、ええええ!?」
信じてるよと言われることを期待していたようだ。衝撃で言葉も出ないのか、心良くんは口をあんぐりと開いて硬直した。ピンク色の口内に小さな歯が規則正しく並んでいるのが見える。指を突っ込んでみたくてうずうずしていたら、心良くんはショックから解放されたらしく「ひ、ひどい!」とテーブル越しに詰め寄ってきた。テーブルを手のひらでバンバン叩くので、周りの人にじろじろ見られている。小声で「図書館では静かにね」と一応注意してみたが、心良くんには聞こえていない。
「まよちゃんはしんじてくれると思ってたのに!」
「だって南の島とか、行けるわけないよ」
「行ったもん!」
「でも、行けたらいいと思ってる」
「なんで誰もしんじて……え、え?」
心良くんはテーブルの上に手をついて目を白黒させた。「な、なに?」
自由研究の本を閉じて横に除けると、両手で頬杖をついた。
その時丁度、四時を知らせる音楽が鳴った。図書館には遠方から来訪する子どもも多いので、四時と五時に一回ずつチャイムが鳴るのだ。
ハンドベルのポーン……という澄み切った軽やかな音が響いた。私はこの音色が大好きで、周りの人たちがそそくさと片づけを始める中、いつも最後まで聴いていた。
音が鳴り止んで一瞬の静寂が訪れた時、私は口を開いた。
「嘘のような話も、本当だったらいいと思うよ」
自由研究の本を閉じて、綺麗に積み重ねる。結局選びきれなかったから、この三冊を借りて帰ることにしよう。
俯きがちに私の手元を見ている心良くんは、どうにも釈然としていないみたいだった。
「う……じゃあやっぱりうそだと思ってるの?」
「それは、まあ」
「うそじゃないもん」
心良くんはまたいじけた顔になった。でも、今度はどことなく弱々しい。
「本当に、してみせてよ」
「え」
「私の前で、嘘のような話を、本当にしてみせて?」
左手で頬杖をついたまま右手の小指を突き出して、にっこりと微笑む。
「はい、約束」
心良くんは珍しいものでも見るかのような目で、しばらくの間突き出された小指を凝視していたが、やがて首を縦に振った。自分の小指を絡めると、一転して真剣な顔で何度も頷いた。
「じゃあ、夏休みのあいだにはほんとうにしてあげる」心良くんは宣言した。
「楽しみにしてるね」私も、本心からそう答えた。
ゆびきりげんまん、うそついたらはりせんぼんのます。
声が私の胸の中にこだまする。
指を切った後、心良くんは言い訳みたいに付け足した。
「まよちゃんをお空の上や海の底に連れていくのだって、ぼくたちなららくしょーなんだからね」
「えー、それなら今すぐやってよ」
「ぐっ……じゅ、準備がいるんだってば」
得意げにぺらぺらと夢物語を話す心良くんの後ろから、玲矢くんが歩いてくるのが見えた。
「あ、」
声をかけようとして、玲矢くんが唇に人差し指を当てて「しー」としていることに気づく。何をするつもりだろうと思いつつ、私は見ないふりをした。
「ちからをたくわえないといけないの」
「その力はいつ溜まるの?」
「それはぼくにもわか……んっ」
「だーれだ!」
私がされたのと全く同じように、玲矢くんは心良くんの目を塞いだ。
それは双子同士でやっても意味ないんじゃないかなぁと思ったが、心良くんは玲矢くんの手をぺたぺた触って「えー、だれだろぉ?」とくすぐったそうに笑っている。
目を塞がれていても笑っているとわかる心良くんの口を見て、私は先日の出来事を思い出した。
ここ数日、心良くんの笑顔を見ても、この前のような黒い澱みは現れなかった。
(何だったんだろう……あれ)
私の目が狂っていたのか、心良くんに何か問題があったのか。
もしくは、もっと別の理由?
原因のわからない異常ほど怖いものはない。もう解決したのかどうかも不明なのだ。
見えなくなったならいいじゃない。そう思うと同時に、楽しくて幸せな日常に残った小さなしこりがどうしても気になってしまう。
だけど、あんまり毎日が楽しすぎて、私はとうとうそいつを無視するようになった。
*
本の貸し出し手続きをしていたら、図書館を出るのがギリギリになってしまった。
道路を挟んだ向こう側にあるバス停には、もうバスが来ている。幸い、信号は青だ。
「たくさん借りられたね」
「ねー。帰ったらいっしょによもうね」
「どれからよもうか」
「迷っちゃうねえ」
二人は図書館の入り口でじゃれついている。急いでって言ったのに。
「バス来てるよ! 急いで!」
必死で呼びかけたら、双子は手を繋いで「はーい」と気の抜けた声で走ってきた。
「それじゃあ間に合わな……え」
ふざけているように見えたのに、これでもかなり一生懸命に走っている私の横を二人は華麗に追い越し、私よりずっと早くバス停に辿り着いた。心良くんはバスに乗り込んでぴょこんと顔を出す。
「まよちゃーん、急がないとバスいっちゃうよぉ」
「うっ……」
兄弟はいつも外を駆け回っているということを忘れていた。
息を切らして前のめりになりながら、私は何とかバスの入り口の手すりを掴んだ。倒れ込みそうになりながら乗り込んだ瞬間、背後でドアが閉まった。
不幸中の幸いならぬ幸い中の不幸か、運転手は行きのバスと同じだった。今度は私のことを睨んできたので、「すみません……」と小さく頭を下げる。二人の後ろの席につくと、私は安堵と疲労でため息をついた。
「ねえねえ、まよちゃんってもしかして足おそい?」
「運動にがて?」
「だ、だって、疲れるし。あんまり外で走ったりしない……し」
私の言い訳に、二人はころころと笑い声を上げた。
「じゃあ、こんど三人でとっくんしよう」
「とっくん?」
「運動会、あるよね? リレーとかはしるよね」
「えっ……と、そうなの?」
興味のない行事の説明はほぼ何も聞いていなかった。運動会も二学期の初めにあるということぐらいしか知らない。無論、登場人物たちが運動会に参加する本は読んだことがあるので、どんな競技があるのかは一通り把握している。かけっことか、綱引きとか、玉入れとか。でも、それはファンタジー小説の魔法と同じようなもので、私にとっては遠い世界の出来事だった。
「リレーって、一番足が速い人だけが走るんじゃないの」
「んー、ぼくたちの学校のリレーは、みんなではしるやつと、足がはやい人だけはしるやつとあるって言ってたよ」
「そんなぁ」
私は思わず頭を抱えたくなった。クラスの子たちと一緒に走るとか、絶対に無理だ。
心良くんと玲矢くんは「れんしゅうしよう」「がんばろがんばろ」と応援するように両手の拳を振った。
「バトンわたすのもしないと」
「ペットボトルをつかおっか」
「どこでやろう?」
「公園だったら……」
「あ、あの、もういいから」
私は二人の座席の背で熱くなった顔を隠した。心良くんと玲矢くんはあれやこれやと特訓メニューを考えていて、私の小さな声なんて聞いちゃいない。
恥ずかしかったが、それ以上に嬉しかった。
「……ふふっ」
座席の陰で表情を緩める。
慌てて口元を押さえたが、心良くんたちには私の顔が見えていないことに気づく。少しだけ顔を上げて二人が前を向いていることを確認。
私はもう一度隠れてから、思う存分にやにやした。
また一つ、心良くんたちと一緒にいられる理由が増えた。そう思ったらにやけるのも無理はないだろう。
壊れやすい大切なものを扱うように、丁寧に理由を積み上げる。夏休みの宿題。走る練習。自由研究だって、三人でできるかも。図書館で交わした、心良くんとの約束もある。
行く先に「一緒にいられる理由」という名のタイルを敷き詰めて、足場を作っていく。自分の居場所を築いていく。
そうすればきっと、私は明日も二人と遊べるから。
「ぼくたちの運動会もたのしみだねえ」
玲矢くんののんびりした声が聞こえた。
「うららくんとぼく、どっちの方が足はやいっけ?」
「おんなじじゃないかなぁ」
「こんど、いちについてよーいどんしてみる?」
「よーいどんしよ」
特訓は知っているのに、競争という言葉は知らないらしい。二人は舌っ足らずに「いちについてよーいどん」と繰り返した。私も座席の陰に隠れたまま、口の中で言ってみる。よーいどん。
「次は、町役場前、町役場前」
アナウンスがバスの中に響く。それに負けないぐらい、心良くんと玲矢くんの笑い声も響いている。
心良くんたちの家の最寄りのバス停まで、あと七つ。
タイヤは回って、バスはゆっくりと進んでいく。今日という日の終わりは確実に迫ってきている。
(バスが、止まってくれたらいいのに)
頭の片隅でふわふわと願った。
ここで止まってくれたら、二人と過ごす時間が永遠に続いてくれるかもしれないのに。心のどこかで私はそう期待している。
けれどもバスは薄情で、私の願い事を全然聞いてくれない。
「……そしたら明日はね、れいやくんが……」
夢見心地な私の耳に、心良くんの声がするりと入ってくる。
明日。うん、明日だ。
今日が終わってしまっても、明日になれば、また心良くんたちに会える。それは私もわかっている。
でも、その「明日」はいつか終わりが来てしまう。
(……あんまり、考えないようにしていたけど)
夏休みは、いつか終わってしまうのだ。
心良くんたちは夏休みの間だけ花浜町にいると言っていた。ということは当然、夏休みが終わったら二人は帰ってしまう。運動会の話をしていたけれど、それだって二学期の行事だ。心良くんと玲矢くんの参加する運動会に、私はいない。
二人はそれをわかっているのだろうか。わかっていても、特に気にしていないのだろうか。
上機嫌に話している二人は、とても私と同じことを考えているようには見えなかった。
バスは進む。夏休みの絵日記も、白紙のページが減っていく。
せめて、もう少しゆっくりでありますようにと、今はまだ青い空に願った。