9話 嘘と本当と物がたり①
合言葉は、「また明日も来ていい?」だった。
私が懲りることなくそう言うと、心良くんは「うん、いいよ」と笑って答えてくれた。
くどいと思われても、しつこいと思われても、最後に確認したかった。
それは多分、必ず笑顔が返ってくることに安心感を得ていたかったのだ。
ほら、心良くんは今日も笑っている。私はそれをここで見ていてもいいと許されている。
そんなことがあったと自覚したのは、ずっと後になってのことだけれど。
*
「真夜ちゃん、最近ずっとお出かけしているよね」
心良くんたちの家に通い始めて六日目の朝になって、ようやく巴さんは食卓でそう言った。世間話を切り出すみたいな口調だった。
私は卵焼きを口に運びかけていた手を止め、無言で視線を返した。今更何を言われるんだろうとどきどきしながら、巴さんの次の言葉を待つ。
「誰かと遊んでるの?」
巴さんは箸を止めない。相変わらずの作り笑いだが、少なくとも悪意は感じられなかった。なので、私も正直に答えた。
「はい。学校の子じゃないですけど」
「どういうことかしら」
「心良くんと玲矢くんって言って、遠いところからおばあさんの家に来てる子たちです」
「へえ、そうなの。あら、お昼ごはんも毎日ご馳走になっているの?」
それは申し訳ないわぁ、と巴さんはわざとらしく頬に手を当てた。むしろ今まで気づかなかったのが不思議だなぁ、と私は呆れた。
「おばあさんは、一人増えるぐらい別に問題ないって言ってます」
双子から聞いた話によると、だが。おばあさんの声はすごく近くに寄っても聞き取れないほど小さいので、いつも彼女が何と言っているのかわからない。でも、二人は理解できるらしい。
「そうなの。毎日貰ってばっかりは申し訳ないし、今日はお菓子を持っていきなさい」
巴さんはよいしょ、とおばさんくさい声を上げて立つと、キッチンの奥の棚をごそごそと漁った。
「これなんかいいんじゃないかしら」と巴さんが差し出してきたのは未開封のお煎餅だった。私も好きで、よく食べていたものだ。たくさん入っているし、これならお土産になるかもしれない。
「ありがとうございます」
素直に受け取る。パッケージに描いてある子どもの絵を見ながら、心良くんたちが喜んでくれるといいな、なんて考えていると、巴さんは腰をかがめて私の顔をまじまじと見つめてきた。なんだか、すごく驚いているように見える。
「真夜ちゃんも、笑うのね」
「……え?」
「あ、洗濯機が止まってたんだった」
巴さんは中途半端なところで私から視線を逸らして、スリッパの音をぱたぱたと鳴らしながら洗濯機の方に向かってしまった。リビングには私だけが残された。
「……」
真夜ちゃんも、笑うのね。
巴さんの言葉を反芻して、唇と口角に触れてみた。確かに、ちょっと緩んでいる。
いや、そうではなくて。巴さんにわざわざ指摘されるほど、普段の私は笑ってないのだろうか。
考えてみれば当たり前ではあった。思い出せる限り、この家では笑えるような出来事が何もなかったのだ。楽しいことも、嬉しいことも、面白いこともないのだから、私が笑わないのは仕方ない――と開き直って、お味噌汁を飲み干す。
「……やっぱり、しょっぱい」
せめてこのお味噌汁が薄味だったら、もう少しは笑えるかもしれない。
でも、じゃあ、やっぱり。二人のことを考えていると自然と頬がほころぶのは、二人と一緒にいるのが楽しいからなのだろう。
*
私が心良くんたちの家に行って何をしていたのかと言うと、日によって様々だった。
玄関の戸を開けた途端、靴を履いている途中の心良くんとその場で対面して、おはようを言う前に「あっ、まよちゃん! 外行くよ!」と言われた日もある。そういう日は、お庭でだるまさんが転んだをしたり、最初に二人と出会った草むらで鬼ごっこをしたり、公園の遊具で日が暮れるまで遊んだりした。つまり、三人の行動圏内で何も持って行かなくてもできる遊びをした。
かと思えば、一日中家から出なかったこともある。エアコンがいまいち効いていない部屋の中で、テレビを見ながらごろごろしたり、各々の宿題をしたり、お昼寝をしたり。
なんてことない普通の夏休みだった。私一人だけで同じことをしていたら、きっと退屈だったと思う。公園で遊ぶのも、宿題をするのも、お昼寝をするのも、それ自体は面白みのないことだ。
それでも楽しかったのは、心良くんたちがいたからだ。
「たーいーくーつー!!」
……ところが、二人の満足感の器は、私よりずっと深かったらしい。
「もう鬼ごっこもかくれんぼもだるまさんが転んだもあきたー! もっとたのしいことがしたいよー!」
心良くんは畳の上に大の字になると、手足をばたばたさせた。玲矢くんはと言うと、心良くんとは反対にぴったり手足を揃えてうつ伏せになり、「ひま……ひま……」と呟いている。陸に上げられて呼吸ができなくなった魚を思い出した。スタイルは異なるが、双子の主張は同じだ。
つまり、代わり映えのしない日々に飽きてしまったとのこと。
「なんかさー、せっかくおばあちゃんちに来てるのに、夏休みなのに、いつもの休みの日とかわらないっていうか、つまんないっていうか……」
「私は、楽しいよ?」
一応言ってみたが、心良くんはますます腕をばたつかせて「たのしいけど、もっとたのしいことがしたいー!」と喚いた。強欲だ。
玲矢くんはごろりと転がって顔をこちらに向けると、
「まよちゃん、何かたのしい場所とかなーい?」
と期待の眼差しを向けてきた。
「た、楽しい場所?」
「うん。そんな遠くなくて、たくさん遊べて、たのしい場所」
「え、と、うーん……」
そうは言っても、この辺りは本当に自然と家以外何もないのだ。
「あー、海行きたいな、海」
心良くんは不規則に手足をばたばたさせるのを一瞬止めると、今度は畳の上でクロールの真似事をし始めた。心良くんを見ていた玲矢くんもそれに倣う。
「海なんて、この町にはないよ」
どちらかと言えば、山の方がたくさん見える。
「でも、去年はおばあちゃんに車で連れて行ってもらったよね」
と、心良くんは声を弾ませた。
「けっこう遠かったね」
「うきわが途中でしぼんじゃって」
「海の向こうまでながされちゃって」
「みなみの島について」
「やしの実をとって食べて」
(……また始まった)
こんな風に、二人の話は唐突に非現実的になることが頻繁にあった。理由はわからないが、絶対に嘘だとばれるようなことを二人は堂々と事実のように語り始めるのだ。
だが、それも含めて私は彼らの話を聞くのが好きだった。
「それで、その後はどうなったの?」
私が訊くと、玲矢くんは手足をぴーんと伸ばし、
「ひこうきが飛んできて、たすけてくれた!」
と凛々しい声で言った。
「南の島は、飛行機が来れるほど大きいの?」
「おおきいよ! ぼくたちの家よりおおきい!」
「……比べる相手、間違ってない?」
「とにかくおっきいの! で、ひこうきがばびゅーんって飛んで、ぼくたちを家まで届けてくれたの」
心良くんと玲矢くんは腕を回転させるのを止めて、ぐったりと畳の上に突っ伏した。今ので少し疲れたようだ。
「でも、ひこうきはもう来ないよって言ってたから、みなみの島は行けない……」
「海まではおばあさんに連れて行ってもらったんでしょ? また車で行けばいいじゃない」
私の提案に、心良くんはイヤイヤをするように首を振った。
「それもだめ。おばあちゃん、去年の冬から急にみみがわるくなって、車の運転ができなくなったの」
では、海に限らず遠出は全て無理ということだ。
巴さんと敏行さんの顔が一瞬頭に浮かんだが、すぐに消された。確実に雅さんが良い顔をしない。というか、雅さんは私がいるだけで常に機嫌が悪い。
それに、あの人たちにそういうお願いをするのは――やっぱり、気が引けた。頼み込めば渋々連れて行ってくれる可能性はあるけれど、尚更やめておくべきだ。
「うみ………うみいきたい……」
「うみって何がいるんだっけ」
「じゅごん」
「しーらかんす」
「にんぎょ……」
それは水族館でも見られないんじゃないかなぁと言おうとして、
「……あ!」
ひらめいた。
「ん、どしたの?」
むくりと起き上がって怪訝な顔をした玲矢くんの肩を掴んで、私は「見れるよ」と興奮気味に言った。
「見れるよ、人魚!」
*
ギラギラと音がしそうな炎天下の中、私が二人の手を引いて向かったのは町内バスの停留所だった。ところどころ錆びていて読めない時刻表を指でなぞり、手元の時計と見比べる。
「あっ、よかった! あと五分で来るみたい」
上機嫌で振り返ると、予想外にも二人の反応は「ええー」と嫌そうだった。
「そんなにまつの?」
「こんなにあついのに」
「ええ? ……だって、このバス一時間に一本しか来ないんだよ? 五分だけでいいなら、ラッキーでしょう」
「ぼくたちがすんでるところはいっぱいバス来るし……」
文句を言いながらも、二人は大人しくベンチに座った。首から下げた水筒を同じタイミングで開けると、口をつけてぐびぐび飲み始める。まだバス停に来たばかりなのに。
朝のニュースで言っていたが、今日は最高気温が三十五度を超える猛暑日らしい。私も家で一番大きい水筒を探して、なみなみとお茶を注いで持ってきた。細かいところを確認せずに取ってしまったが、よく見たら雅さんの名前が書いてある。帰ったら怒鳴られそうだなという微弱な鬱陶しさは、ほとんど認識する間もなく熱気に溶かされて消えた。
私にとっては、暑さよりも蝉の煩さの方が苦痛だった。ジリジリジリ……と鳴いているのは、アブラゼミだろうか。遠慮を知らない鳴き声が不愉快で仕方ない。夏が暑い理由の半分ぐらいはこの蝉のせいだろうと私は決めつけていた。
お茶を飲み続けていた心良くんはようやく水筒から口を離し、駄々っ子みたいに口を尖らせた。
「ねえ、やっぱりおうち帰らない? こんなにあついなら家にいた方がいいよぉ」
「家より図書館の方が涼しいと思うよ」
私がそう返すと、心良くんはむう、と膨れっ面になった。
そう、今から三人で行こうとしているのは町立図書館だ。
人魚が見たいなら、人魚姫の本を借りればいい。海に行きたいのなら、海が描かれた絵本を読めばいい。――というのが、私の案だった。
図書館はバスで行けるところにあるし、毎回ではないが一人で行って一人で帰ることもあった。心良くんたちを連れて行っても問題ないはずだ。そのことをおばあさんに(心良くん越しに)伝えたら、にっこり笑って許可してもらえた。
二人と遊ぶのに夢中ですっかり忘れていたが、夏休み前に借りた本の返却期限が四日後に迫っていた。ついでに返すのが丁度良いだろう。幸い、本は持ってきている。
「二人とも、外で遊んでる時は文句言わないのに……」
「あそんでる時は気にならないもん」
「もーん」
心良くんと玲矢くんがいっそう頬を膨らませるので、私はつい噴き出してしまった。心良くんは「なんだよぅ」と眉根を寄せた。
「いや、なんか子どもっぽいなあって」
「子どもっぽくないもーん!」
心良くんはすっと立ち上がり、腕組みをして怒ったような顔をした。「子どもっぽくない!」と繰り返すさまが正に子どもっぽくて、私はますます笑ってしまう。
「ぼくたち子どもっぽくないもん。まよちゃんが大人っぽいんだよ」
玲矢くんがつんと澄ました顔で意外なことを口にした。私は目を見張った。
「私が? 大人っぽい?」
「うん。三年生とか、四年生ぐらいにみえる」
「ええ!?」
そんなことを言われたのは初めてだった。
「おねえちゃんがいたら、こんな感じなのかなあ」
「まよちゃんみたいなおねえちゃんなら、ほしかったねえ」
兄弟がしみじみと言うので、「お、お姉ちゃん!?」と声が裏返る。
「私、弟とか妹とかいないけど」
「え、そうなの?」
心良くんはぺたんとベンチに座り直すと、お行儀よく膝に手を乗せた。
「じゃあ、まよちゃんにはおねえちゃんかおにいちゃんがいるの?」
「……いないよ?」
ほんの一瞬、般若の形相で「お姉ちゃんじゃねえし」と怒鳴る雅さんが頭を過ったが、過っただけだった。
「うん? んんー……?」
心良くんと玲矢くんは思案顔で唸っている。二人の困惑の理由は、少し考えたらすぐにわかった。
「あ、えっと、私きょうだいいないよ」
「……え?」
二人は顔を見合わせると、少し遅れて「ええー!?」と大声を上げた。
「きょうだいが……いない……?」
「ど、どういう……どういうこと……?」
「一人っ子なの」
「ひとり!?」
二人はやたらにテンションが高い。私は首を傾げた。
「……そんなに驚くこと?」
心良くんは拳を作ってぷるぷる震わせ、「びっくりだよ!」と大きく目を見開いた。玲矢くんも口を半開きにして固まっているし、私だけが二人に置いていかれたみたいだ。
「だって、きょうだいがいないって、そんなの、たいへん!」
「大変って、何が?」
「えっ、う、だってぇ……」
居心地が悪そうに口をもごもごさせて、心良くんは玲矢くんの肩にぎゅうっと抱きついた。
「れいやくんが……れいやくんがいなかったらなんて、わかんないよぅ」
「え……何でそうなるの」
玲矢くんも眉根を寄せると、不安そうな顔になった。
「うららくんがいなかったら、ぼくかなしくて泣いちゃうかも」
「さびしくて倒れちゃうかも」
そこまで聞いて、やっと合点がいった。二人は生まれた時からずっと一緒だったから、兄弟がいないという状況を想像できないのだ。どうやら一人っ子の存在自体を知らなかったらしい。
私はトートバッグを肩にかけ直した。
「そんな大変でもないよ。最初からいなかったら、いなくても別に困らないし」
「ええ……」
玲矢くんはますます顔を歪めた。私は慌てて「あっ、いらないとかじゃなくてね」と訂正した。
「えっと……いないのが当たり前? だから、大変じゃないっていうか……いたら楽しいんだろうけど」
自分でも何を言っているのかわからなくなってきた。
なんだか、どんどん墓穴を掘っている気がする。心良くんはさっきより強く玲矢くんにしがみついているし、玲矢くんの顔は険しい。
「う……あの……ち、違うの、ごめんね……」
私は心良くんの顔を直視できずに目を伏せた。
真夏の太陽と、沈黙が肌をピリピリ焼いていくような感触が痛かった。
しばらく黙り込んだ後、玲矢くんが徐に口を開いた。
「じゃあ……まよちゃんは、おうちでずっとひとりぼっちなの?」
「え」
今度は、私が身を固くする番だった。
「……私、は」
辛うじて言うも、そこから先の言葉が出てこない。
唇を噛みしめて汗ばむ手でブラウスの裾を掴む。蝉の声が、一段と大きくなったような気がした。
なんて嫌な音。耳の奥の奥まで響いてくる。侵食してくる。脅かされる。
こんな騒音が大嫌いになったのは、いつからだろうか。
「……っ、そんな、こと、ないよ」
締め付けられる胸が苦しくて、途切れ途切れにしか言えない。
「私には――」
声は、エンジンを吹かしてやってきたバスの音に掻き消された。
心良くんと玲矢くんはベンチからぴょんと立ち上がると、生き返ったように明るい声を上げた。
「あ、バスがきたー!」
「やったぁ、エアコンえあこん」
双子の興味は瞬く間に逸れたので、言いかけた言葉の行く先は失われた。
(……ううん、これで良いんだ)
二人には言う必要のないことだった。
バスがもう少し遅く来ていたら、うっかり口を滑らせていたかもしれない。
だから、これで良かったんだ。
少なくとも、この時はまだ。