覚
はあ、と小さく息がこぼれる。寝床から抜け出して、とりあえずカーテンを開けた。その薄い布をどけると初秋の柔らかい朝陽が射し込んでくる。
そこで、不意に玄関の扉がいささか乱暴にノックされる音を聞いた彼女は、こんな時間に一体誰だと眉間に皺を寄せた。控えめなものから、段々と強くなる音に悠理は小さな舌打ちとともに覗き穴に目を近づける。
扉一枚を隔てた向こう側にいたのは、鮮やかな茶髪を掻き毟る同僚の男だった。染髪のはずなのに、一切の黒を含まない茶色が、男の細い指で乱されていく。向こう側の様子を数秒間見つめ、悠理は仕方がないとでも言いたげにチェーンと鍵を外して扉を開けた。
「何の用」
抑揚のない、完全な棒読みで質問をする。男は、ぱっと髪の毛から手を離して彼女の手を掴んだ。悠理の肩が無意識にぴくりと反応する。
「リアちゃん・・・!」
ここ数年間、呼ばれ続けてきた名を呟かれ悠理は微かに首を傾げた。
「お願い・・・。後生だから、これだけは聞き入れて欲しいんだ・・・」
「はぁ?」
まだ、その願いとやらの内容を言わないうちから男は後生だとのたまっている。しかし、目の前の彼がここまで必死になる願いとは一体なんなのだろうかと考えていると男は言った。
「本部の鍵失くしちゃったんだよぉ・・・」
実に情けの無い声音である。今にも泣きそうな顔で、悠理の細い手を握り締めている。彼女は、眉間に寄せていた皺を少しだけ深めた。
「・・・琳は馬鹿なんだね」
思ったことを言葉にすれば、琳はしょんぼりと俯いてごめんと謝る。
悠理の同僚ということは同じ職場に向かうわけで、数少ない職員全員に配布されている鍵を失くした琳は彼女を頼ることにしたらしい。琳の知る限り彼女は、物忘れや物の紛失の類をしたことがないのだ。事実、その通りである。
「ちょっと待ってて。起きたばっかりだから」
欠伸を噛み殺し、琳を部屋に入れる。彼は、以前しょんぼりした表情を崩さないまま大人しく扉を後ろ手に閉めた。
「今日は蘭さんと9時から仕事なのに・・・鍵・・・」
ぼそりぼそりと自らの失態を嘆く琳。悠理が何気なく時計に目をやれば丁度7時半をまわったところだった。まだ時間はある、と思いつつも仕事の準備は時間がかかる。
「蘭丸に連絡とればよかったじゃん」
同じ仕事に出るならば、蘭さんもとい蘭丸に連絡をすればよかったのだと冷めた口調で返してやる。言われた琳は、沈んだ面持ちから更に悲しいような疲れたような顔をして返事をする。
「蘭さん、何故か俺に連絡先教えてくれないんだよね」
「・・・琳が馬鹿だからじゃないかな」
どんよりとした空気を纏う琳は、どこか老け込んで見える。年齢的には、二十代前半のはずなのだが。悠理は、いつものことだと言うようにそれを無視した。
「それに蘭さんって、最近は連絡するなって言ってるし・・・しちゃだめかなぁと」
悠理は思う。琳の気遣いは時に異様だ。