彼女との日々
―――――例えば、こんなときどうすればいい?
某知恵袋に書き込もう、と現実逃避をしかけた。
とにかく、とにかく混乱していた。
状況を整理すれば、まず現在位置は大学近くにある人気の喫茶店。
目の前には頬を染めたうつむき加減の女子大生。
そして喫茶店の向かい、道路を挟んだ向こうに見えるのは―――――紛れも無く自分の恋人だった。
始まりは、唐突だった。
そう、全くの寝耳に水としか言いようのない友人の『今日、昼奢るわ』発言だった。
この時点だと、自分も思わず『は? なんで?』と聞き返した。
正直、ケチなこいつに限ってとすら思った。
が、続く『代わりにノート見せて』という代償要求に『なるほど』とあっさりと納得してしまったのがそもそもの間違いだったのだ。
例え来週にテストが控えていようとも。
友人が指定してきたのがファストフードではなく、大学近辺に所在する喫茶店であったのもおかしかった。
ならついでにあそこのケーキを大好物だという恋人も呼ぼう、友人と恋人も高校からの同級生だから問題ない、と考えたのが、第二の過ちだった。
要するに本日最大の地雷を自分でセットしてしまったというわけだ。
まさかその後どうなるかを考えずに馬鹿みたいにうきうきと喫茶店に行った結果が、冒頭である。
「篠塚くん」
喫茶店に入れば、なぜか同じゼミの女の子が自分に向かって声を掛けてきた。
頭の中に「?」を浮かべながら、話を聞けば今日自分を呼び出したのは実は友人ではなく、彼女だという。
いくら馬鹿な自分でもこの時点で、『おかしい』と思った。
だがかなしいかな、話も聞かずに席を立つという不調法をする勇気がなく、とりあえず飲めもしない『コーヒー』を注文する焦り具合だった。
それからは、予想した通りの展開だった。
「同じゼミになったときから、ずっと篠塚くんのことが好きだったの」
頬を赤く染め、うつむき加減に告白する彼女は、非常にかわいらしかった。
そう、ゼミの中でも密かに人気があることを納得できるくらいに。
そんな彼女にまさか好意を持たれているとは思いも寄らず、かたかたと震える手でコーヒーカップを持ち上げ――――ふと目をやった外に恋人の姿を見つけてしまった。
……ここまで長々と綴ってきたが、図にすると安易なものだ。
奢ると友人に騙される→同級生(女)が代わりに居て告白される→そこを恋人に見られる→浮気?
そう!
要するに今まで言いたかったのは、自分が騙された被害者であることではなく、
『これって恋人と別れたいがために、浮気現場をわざわざ見せ付けるために呼び出したっぽくね?』
というものだった。
声を大にして言いたい。
『自分は断じて浮気はしていない!』
浮気など言語道断、欠片もしていないのである!
と、自分の中で自分に向かって宣言したところでどうしようもない。
ただただ自分で自分に言い訳している間に、目を見開いていた恋人は走り去ってしまったのだ。
これが、第三の過ちであった。
どうでもいい同級生など放って、彼女を追いかければよかった。
だが、さらに言い訳をするならば、このときの自分は呆然自失するぐらい、ショック、だったのだ。
普段の恋人から行動を推測するならば、すぐさま怒りの形相で飛び込んできて、薄汚れた床という名のマットに自分を沈めただろう。
それがそれをしなかった、というのは、大きな衝撃だった。
ぽかんと数秒口を開けながら、やばいと頭の中で警鐘が鳴った。
どういう意味だ、どういう意味なのだ恋人のこの行動は!と目まぐるしく頭を巡らせる。
たどり着いたのは、二つの答えだった。
1、もはや自分のことなどどうでもいい
2、後で抹殺
頭の中で選択肢を挙げながら、自分の想像に震える。
答えは1の要素もありつつ、限りなく2に近い。
もはや命運は尽きた、と真っ白になりながら、どうにか目の前に居る同級生にお断りを入れ、喫茶店を出る。
向かうのは、屠殺場、もとい彼女の家である。
とぼとぼと歩き、幼馴染で恋人、という気安さから簡単に彼女の母親に家に上げてもらう。
恐る恐る2階にある恋人の部屋のドアを開けた先に広がっていたのは、真っ赤な血の海―――――もとい、ホームセンターで『やめとけ!』と必死に止めるのも聞かずに彼女が格安で手に入れた絨毯、そしてそこに座り込む恋人の姿だった。
「……お邪魔します」
まるで浮気現場を見つかった駄目亭主の帰宅時のような、弱々しい声。
しかしじっと絨毯に視線を落とす恋人の頭には角もなく、視線が上げられることもなかった。
正直、戸惑った。
いつだって暴力的、破壊的、と暴れん坊な恋人のこんな姿は初めてだったのだ。
思えば高二の秋にそれまで幼馴染として、友人として付き合っていた彼女に、
『付き合え』
と居丈高に命じられ、『どこに?』とお決まりのボケをかますと同時にコブラ・ツイストをお見舞いされてから早四年。
173センチ、という女性にしては大柄な彼女から繰り出された必殺技に悶絶し、答えは「はい」一択という悪夢のような告白劇から、いつだって恋人は女王様、自分は下に下にとへいこらして生きてきたのだ。
だからこそ、怒らない、噛みつかない、暴れない彼女にどうすればいいかわからない。
考えられる手は、二つ。
何事もなかったかのようにいつも通りに振舞う、事なかれ主義の偽善者になるか?
俺のことを愛しているならどうしてあの子のことを聞かないんだ!と逆切れ最低糞馬鹿野郎に成り下がるか?
答えは1でも2でもなく―――――。
「雅」
誰がこいつに付けたんだこんな対極な名前――――を呼び、彼女の目の前に膝をつく。
とりあえず、鉄板でも仕込んであるのかと疑いたくなるような腕を封じるために抱きしめる。
ぴくりとも動かない身体は、やっぱり女の子なんだなと思えるくらいには華奢だった。
「好きだよ」
二十歳を超えた男がどうよと言わんばかりの赤面ものの台詞。
それでもそれが正直な気持ち。
始まりは一方的なものだったかもしれない、それでも今は誰よりも彼女が好きだし、大事だと思っている。
たとえどれほ暴れん坊な彼女であろうとも。
腕の中の体は一瞬震え、そして俺の顔をたまに鮮血に染める腕が動いて俺の胸元を掴んだ。
そう、いつもの胸倉を掴むのではなく、ぎゅっ、とまるで可愛い女の子がするような仕草だった。
別の意味でも息を詰めながら、ゆっくりと今日の顛末を語った。
「福井が、ノート見せる代わりに昼メシ奢るって言うからあそこに行ったんだ。雅を呼んだのは、雅があそこのケーキ好きだし、俺が雅の分払うつもりで呼んだ。そしたら福井の代わりにあの子が居て、告白された。けどすぐに断ったから」
「………」
「ごめんな」
頼むから信じてくれ、と内心祈りを上げていると、彼女は小さくだがこくりと頷いた。
わかった、という合図だ。
今日は一体どうしたのか、と聞きたくなるぐらいかわいらしい仕草をする彼女だった。
やっぱり女の子なんだな、可愛いとでれでれとしていると、胸元を掴む彼女の腕がぐいっと引っ張った。
当然、彼女とともに絨毯の上に転がる。
艶やかな長い黒髪が床に広がり、直近にはじっと自分を見上げる白い顔。
おお、まさかお許しが!と歓喜し―――――暗転。
――――甘かった。
そう、その一時は彼女が好むケーキ以上に甘かった。
ふわふわと気持ちだけでなく、意識も飛んだ。
「お前に隙があるからだ!」
と告白されたことを責められ、腕挫十字固。
誰だ可愛いなんて思ったのは――――俺か、俺。
いつものごとく床を連打する以外、弱者にできることはなかった。
本当に何でこんな暴力的なんだ――――床に力なく身体を投げ出していると腕は解放された。
けれど次に、
「馬鹿高輝」
どすん、と重なる身体にまた呻く。
呻きながら、絞め上げるわけではなくただ静かに重なるだけの身体。
本当にどうして、こんな彼女と付き合っているのか。
いつだって疑問、というか永遠の謎。
『別れたい』と数えきれないくらい思った。
でも不思議と『別れよう』と決意することはない。
惚れた弱み――――なんて便利な言葉なのだろう、自分を納得させるのに。
溜息をつきながら、自分の上に乗る身体に腕を回したのだった。