三年後には離婚するそうです
婚礼を終えたばかりのリリアーヌが侍女のマリーアの手を借りて着替えをしていると、夫となったテオドール・モローから、書斎へ来るようにと言われた。
マリーアを従え、長い廊下を急いだ。背が低いリリアーヌは、急ぐとどうしても早足になってしまう。
息を整え、書斎で待っていたテオドールに挨拶をすると、ローテーブルの前に置かれた椅子に座るように言われた。
そこにはリリアーヌのために置かれたと思われる、新品の背の低い椅子が用意されていた。
リリアーヌは頬を緩ませ、礼儀作法の教師に習った通りに、優雅に座った。
テオドールも真向かいに座った。
「今日からきみには東の棟を使ってもらう。私は西の棟だ」
「はい」
「食事はできるだけ共にとろうと思っている」
「はい!」
思わず声が弾んだ。
憧れていた人と結婚できたのだ。これから毎日、一緒に食事ができるなんて。
テオドールは穏やかな声で続けた。
「それから、私達は三年後には離婚する」
「…………はい?」
リリアーヌは目を瞬いた。
いま、何と言われたのだろうか。
「……三年後に、離婚?」
「ああ。それだけあれば、きみのお父上への借金の返済を終えられるだろう。返済が終われば、この婚姻を続ける理由はない」
リリアーヌの頭の中から、二人で微笑み合う食卓の場面が吹き飛んだ。
半年前、テオドールの父が代々続いてきた商会の経営を破綻させてしまった。テオドールの父はその事実に耐えきれなかったのか、心臓発作で亡くなった。残った借金と侯爵家当主としての責務を背負い、二十二歳になったばかりのテオドールは文字通り奔走した。
その時、リリアーヌの父が、借金を一括で返済する代わりにリリアーヌとの結婚を持ちかけた。娘自身がこの結婚を望んでいることを確かめたうえでの申し出だった。
テオドールは最初は断った。だが借金は一向に減らない。
爵位返上まで考えたが、祖父母に泣いて止められた。老い先短い二人をこれ以上悲しませるのは忍びない。そう考えたテオドールはリリアーヌの父であるヴェンディ子爵の話を受けることにした。
今日は二人の婚礼が執り行われた。
書斎の窓の外には、まだ祝いの灯りがちらちらと映っている。
「それはもう決まったことでしょうか」
「そうだ。最初からそのつもりでいる」
テオドールはまじめな顔で頷いた。
リリアーヌは膝の上で両手を握りしめた。
いやだ、と大声で言いたかった。
先ほどまで幸せいっぱいだったリリアーヌの頭は上手く働いてくれない。
「棟は別だが、きみには不自由のないようにする。困ったことがあれば何でも言ってほしい」
「……はい」
「では、話は以上だ」
仕事の打ち合わせのような口調だった。
リリアーヌはどうにか挨拶をして書斎を出た。
廊下をふらふらと歩きながら、マリーアに尋ねた。
「私、三年後に離婚するといわれたわよね」
「左様でございます」
「でも、お食事は一緒にと」
「左様でございます」
「離婚するのに、一緒にお食事するものなの?」
「旦那様のお考えは、私にはわかりかねます」
「旦那様は借金返済のために私と結婚したのはわかっていたけど、離婚したいほど私のことがお気に召さないのかしら」
「そこもわかりかねます」
自室に戻ったリリアーヌは室内を見回した。
可愛らしい花柄の壁紙に柔らかな色調のカーテン、絨毯も同系色で揃えられていた。椅子も書き物机もチェストも、リリアーヌの低い身長に合わせたものだった。ただし、実家で使っていたものより少し背が高い。
テオドールの気遣いを感じ、初めてこの部屋に入った時は喜んだ。
だが、そこまで気を遣わせてしまうほど自分の低い身長は気に入らなかったのかもしれない。
「背が低いから、かしら」
「なにがでございますか」
リリアーヌは鏡に映る不安そうな自分の姿を眺めた。
「旦那様は、私の背が低いから、三年後に離婚しようとお考えなのかも」
「それは憶測でございましょう」
マリーアがさり気なくたしなめたが、リリアーヌの耳には届かなかった。
鏡に映る姿は、たしかに侯爵夫人としては小柄だ。テオドールの横に並ぶと、どうしても見劣りしてしまう。
身長が不釣り合いなのが嫌で離婚するのか。でも、背はまだこれから伸びるものだ。
「そうよ。まだ三年あるのよ」
リリアーヌは振り返った。
「三年もあれば私の背も伸びるわ。そうしたら旦那様のお気持ちも変わるかもしれない」
翌朝。
食卓に着いたリリアーヌは早速給仕に牛乳を頼んだ。
「牛乳が好きだったのか? お父上からは伺っていないが」
「背を伸ばすためです」
「そうなのか」
不思議そうに相槌を打つテオドールに、リリアーヌはにっこりと笑った。
「少しでも早く背を伸ばすのです。旦那様の横に立っても恥ずかしくないくらいに」
テオドールは一瞬きょとんとしてから、口元を緩ませた。
「そうか」
運ばれてきた牛乳を受け取ると、リリアーヌは一気に飲み干した。
「おいしい。もう一杯」
口元に白いひげができていた。
テオドールは口元を手で隠し、横を向いた。肩が小刻みに震えている。
「リリアーヌ様、それ以上はお腹を壊します」
マリーアの言葉に、給仕も頷いた。リリアーヌは口を尖らせた。
「三年しかないのよ?」
「お腹を壊しますと、背を伸ばす栄養は摂れません」
リリアーヌは口を尖らせたままマリーアと空になったグラスを交互に見た。
そばにいた給仕が俯いた。
テオドールの肩はますます震えた。
リリアーヌは黙ってグラスをテーブルに置いた。
こうして、リリアーヌの三年間の努力が始まった。
◇◇◇
夫のテオドールは立て直しに忙しく、朝食後に出かけてしまう。夕食も仕事の都合で遅れることがあった。
それでも、できるだけ食卓を共にするという約束は守ってくれた。
ただし、二人の会話は少なかった。
テオドールは丁寧で優しい。だが、リリアーヌとは一定の距離をとった態度を崩さなかった。リリアーヌは他人行儀なテオドールの言動に寂しさを覚えながらも、いつかは打ち解けてもらえるだろうと笑顔を崩さなかった。
ある日、どうしても断れない茶会に二人で出席することになった。茶会が始まり、少ししてリリアーヌは席を外した。帰ってくると、テオドールは数人の令嬢に囲まれていた。
遠目に見ても美しい人たちだった。
華やかなドレスに、丁寧に結いあげられた髪。化粧も装飾品も、自分を美しく見せるために選び抜かれていた。
リリアーヌがテオドールのそばまで来ると、それまであでやかな笑顔を浮かべていた令嬢たちは、すっと表情を消した。
「あなたが奥様?」
「はい」
令嬢たちは値踏みをするようにリリアーヌを頭の先からつま先までじろじろと見た。
「……そう」
令嬢の一人が鼻で笑った。
ここで何か言わなければなめられたままだ、とリリアーヌは焦った。けれど、何を言えばいいのかわからない。迷っているうちに、令嬢たちはリリアーヌを無視して再びテオドールに笑顔を向け話し始めた。
「テオドール様、それで先ほどのお話ですけれど」
「申し訳ない。妻と約束がありますので」
テオドールはやんわりと彼女たちに断りを入れ、狼狽えるリリアーヌの手を取った。
「行こう」
「……はい」
二人はそのまま主催者に挨拶し、茶会を辞した。
「よろしかったのですか」
「義理ははたしたからな。商会へ戻らなくては」
テオドールはいつもどおりだった。
あの場で、令嬢たちに商会の商品を勧める機会もあったはずだった。それなのにその機会を失ったのは、令嬢たちのあしらいさえまともにできなかったリリアーヌのせいではないか。
自分は未熟だ。
リリアーヌは馬車に揺られながら唇をかんだ。
テオドールは屋敷までリリアーヌを送り届けると、商会へ向かった。
小さくなる馬車を見送りながら、リリアーヌは先ほどの茶会を思い出していた。
テオドールの周りにいた令嬢たちは皆、自分を引き立てる装いと化粧をしていた。冷たい目で見下ろされ、リリアーヌは質問にひと言答えただけで終わった。むしろテオドールに庇われたような気がした。
「侯爵夫人として、未熟でした。旦那様にも子ども扱いされた気がします」
「それは仕方のないことでございましょう」
マリーアの返事に、リリアーヌは首を振った。
「せめてあの令嬢たちに負けないくらい綺麗になります!」
リリアーヌは鼻息荒く宣言した。
マリーアはリリアーヌが綺麗になるための策をあれこれと話すのを右から左に聞き流し、手際よく着替えさせ始めた。
その日から、リリアーヌは美容に気を遣った食事を始めた。料理長に頼み込み、肌に良いとされる食材を使ったものに変えたのだった。
「私のお肌、艶がよくなったわよね」
マリーアに尋ねると、
「リリアーヌ様のお肌はもともとリンゴのように色艶がよろしゅうございます」
と、返された。
「少しは大人っぽくなったわよね」
「……まだ始めて三日でございます」
リリアーヌはまたも口を尖らせた。三日では足りないらしい。
◇◇◇
次の日、リリアーヌのもとに一つの箱が届けられた。うきうきしながら箱を開け、中の可愛らしいケースを取り出した。
「マリーア、お願い」
リリアーヌはマリーアにケースを開けて見せた。可愛らしい小瓶に入った化粧水や口紅などの化粧道具一式が詰まっていた。
「本当になさるのですか」
「そのための化粧道具よ」
マリーアはため息をつくと、リリアーヌの注文のままに化粧を施し始めた。ドレスも令嬢たちが着ていたような華やかなものに着替えた。マリーアに髪も結い上げてもらった。
鏡に映った姿を見て、リリアーヌは満足して頷いた。
「どう?」
マリーアに尋ねた。
「……印象が変わりました」
マリーアは慎重に答えた。
これならきっと、テオドールも驚くに違いない。
さっそく、帰宅したばかりのテオドールの前で、リリアーヌはくるりとその場でまわって見せた。
「どうですか? 少しは侯爵夫人らしくなりましたか?」
テオドールはまじまじとリリアーヌを見た。
そして、眉をひそめた。
「……その化粧は似合っていない」
リリアーヌの笑顔が固まった。
「ドレスもだ。きみにはもっと可愛らしいドレスが似合う」
何も言えなかった。
「無理にそんな格好をしなくていい。マリーア、着替えさせてやってくれ」
そう言うと、西棟へ向かった。
リリアーヌは立ち尽くした。
綺麗になったといってもらえると思っていた。
少なくとも、いつもと違うね、くらいは言ってもらえると思っていた。
まさか、似合わないといわれるとは想像もしなかった。
「あんなに嫌そうなお顔をなさるなんて」
部屋に戻ったリリアーヌはソファに沈み込んだ。
髪を解かれ、化粧を落とされ、いつものドレスに着替えさせられた。
マリーアは化粧箱をクローゼットの奥にしまい込んだ。
「私、お化粧しても綺麗になれないの? ドレスも身長が足りないから似合わないの?」
マリーアは答える代わりに、そっとリリアーヌの前に刺繍箱を差し出した。
「リリアーヌ様、刺繍をなさいませんか? 無心になれば、少しは心が落ち着きましょう」
リリアーヌは少しだけ顔を上げ、また俯いた。
「……今はそんな気分じゃないの」
刺繍箱はひっそりと引っ込められた。
その日の夕食は、いつにもまして静かだった。
テオドールは普段通りだったが、リリアーヌの元気がないことには気づいたらしい。
「今日はなにをしていたんだい」
「……お化粧の練習を」
「そうか」
それで会話が途切れてしまった。
その後、テオドールは何度か口を開けたが、結局何も言わなかった。
リリアーヌは黙ってスープを口に運んだ。
◇◇◇
美しく装っても、テオドールは喜ばない。だったら、他のことで喜んでもらおうと思った。
「もっとお勉強を頑張ります」
侯爵家の歴史、領地のこと、礼儀作法など、学ぶことはいくらでもある。
ある日、教師が計算の答案を見て目を丸くした。
「全問正解です。リリアーヌ様は、本当に数字にお強い」
「ありがとうございます」
「難しい問題も随分と早く解かれましたね」
リリアーヌは嬉しくなった。
そうだ。自分にも得意なものがあったのだ。
「これなら、旦那様のお役に立てるかもしれない」
教師が帰った後、リリアーヌは手伝えることはないかと家令のもとを訪れた。
家令は事務机いっぱいに帳簿を広げ、頭を抱えていた。
「どうかなさいましたか?」
「どうにも数字が合わないのです。この時期は毎月、胃が痛くなります」
リリアーヌは背伸びして分厚い帳簿に目を向けた。しばらくしてから、一か所を指さした。
「……ここ、数字が違います」
「え?」
家令は帳簿を引き寄せ、計算をやり直した。
やがて顔を上げた。
「……合いました」
「よかったです」
「今のは暗算で?」
「はい」
「この桁数を?」
「数字には強いのです。実家の父の帳簿を時々見ていました」
家令は感心したように息を吐いた。
「……神童という噂は本当だったんですね」
「大袈裟です」
リリアーヌは照れくさくなった。
けれど、家令が本当に困っていたことがわかり、役に立てたことを喜んだ。
「私にもお手伝いできませんか?」
「それはありがたいお申し出ですが……」
「検算だけでも」
家令はしばらく考え、帳簿の一冊を差し出した。
数字を追うのは楽しかった。間違いを見つけ、ひとつひとつ正していく。帳簿の数字が綺麗に合うと、気持ちよい。
リリアーヌは夢中になった。
ところが、テオドールはあまり良い顔をしなかった。
「リリアーヌ、無理はするな」
リリアーヌは笑顔で答えた。
「無理ではありません。楽しいのです!」
「なにも家令の仕事の分まで引き受けなくてもいい」
「引き受けさせられたのではありません。私がやりたいのです」
テオドールは困ったように眉を寄せた。
「体は大丈夫か。本当に無理をしていないか」
「はい! いたって健康です」
「……そうか。では、食事と休憩時間を後回しにしないこと。約束だ」
「はい!」
「私にも言ったことだからな」
リリアーヌは驚いた。
そういえば、テオドールが昼食を抜くことがあると知ったのは、美容のために料理長へ相談していたときだった。
家令から、先代侯爵が食卓でも仕事や勉強の話ばかりしていたと聞かされた。
テオドールは幼いころから、どんなに良い成績をとっても、満点でなければ次は満点を取るようにと言われていたらしい。
そんな話をする親もいるのかとびっくりした。
自分の実家では、食卓はその日の出来事を話す場所だった。
勉強のことも、庭で見つけた虫のことも、読んだ本の感想も、なんでも話した。
そこで、ある日の夕食に思い切って話しかけたのだ。
「旦那様。私は今日、お庭をゆっくり歩きました」
テオドールがナイフを止めて顔を上げた。
「ゆっくり?」
「侯爵夫人らしく、落ち着いて歩こうと思ったのです」
「なるほど」
「ところが、猫が先回りして寝転ぶのです。私が道を変えても、なぜか猫は先回りして寝転ぶのです」
「それは大変だったね」
「そうなのです。おかげで、ちっとも優雅に歩けませんでした」
テオドールはくすりと笑った。
リリアーヌは嬉しくなって、庭に咲いた花や蝶の話もした。
それから、昼食をちゃんととってほしいと頼んだ。
「お忙しいときは、仕事をしながらでも食べられるものを料理長に作ってもらいます」
「そこまでしなくても」
「もうお願いしました」
「……そうなのか」
「はい。明日からお届けしますね」
にこにこと語るリリアーヌを見て、テオドールは苦笑した。
「わかった。善処する」
それ以来、リリアーヌは毎日、その日に会ったことを話すようになった。
最初は相槌ばかりだったテオドールも少しずつ言葉を返してくれるようになった。
そして今、彼は食事と休憩をとるようになっている。
「旦那様も約束を守ってくださっているのですね」
「守らなければ、きみにも料理長にも叱られそうだからな」
テオドールは微笑んだ。
リリアーヌも笑った。
「では、私も守ります」
「そうしてくれ」
その日から、二人は互いの食事と休憩に目を配るようになった。
帳簿の点検も順調だった。
月末の締めを終えた後も、リリアーヌは家令に頼んで帳簿を見せてもらった。
数字の並びを追っているうちに、気になることがあった。
帳簿の分類をし直していくうちに、売れ筋なのに仕入れや輸送費を引けば利益がほとんど残らない商品があるようなのだ。
「お父さまが話していた、若いころの失敗談と同じ内容だったのです」
リリアーヌはそう説明し、家令を通してテオドールに知らせた。
テオドールと家令はリリアーヌの指摘を確認した。
「調査と交渉、それに販売方法の見直しが必要だな」
テオドールは早速商会の社員に指示を出した。
結果は数週間後に現れた。
「徐々に改善されている。まず、きみに報告しておきたかったんだ。ありがとう」
その日の最初の話題は、テオドールからもたらされた。
「よかったです」
リリアーヌは彼から話を始めてくれたことと、役に立てたということで、満面の笑みになった。
その夜、リリアーヌは寝台に入ってもなお口元が緩んでいた。
綺麗になろうとして失敗した。
けれど、得意なことでテオドールの役に立てたのだ。
しかも、テオドールから話しかけてくれた。
リリアーヌは眠りに落ちるまで喜びをかみしめた。
◇◇◇
それから間もなく、もっと嬉しいことが起きた。
夕食後、自室でマリーアと話をしていたところに、テオドールが帳簿を持ってやってきたのである。
「少し、時間はあるか」
ためらいがちに言うテオドールに、リリアーヌは、
「ございます!」
椅子から飛び降りるようにしてテオドールの前に向かった。
テオドールを招き入れ、彼には少し低いローテーブルの椅子に案内した。
二人が腰を下ろしたところで、テオドールが切り出した。
「ここの数字について、きみの意見を聞きたいのだが」
テオドールはリリアーヌに見えやすいように帳簿を広げた。
「私の意見、ですか?」
「そうだ」
リリアーヌの顔がぱっと輝いた。
「拝見します」
リリアーヌは嬉々として帳簿を読み始めた。
「ここの数字がこっちに入るので……」
ぶつぶつ言いながら、帳簿を丹念に調べていく。
リリアーヌが質問する数字に、テオドールは別の帳簿をめくりながら答えていった。
「こちらの帳簿も見てもいいですか?」
「もちろん」
やり取りが楽しくて、リリアーヌはますます夢中になって帳簿を読み込んでいった。
次々と帳簿に赤を入れていくテオドールを見て、リリアーヌは次の帳簿に手を伸ばそうとした。
「リリアーヌ様、お休みの時間はとっくに過ぎています」
テオドールが顔を上げた。
「しまった」
「あと少しだけ!」
リリアーヌは帳簿を抱えた。
マリーアは無言で首を振った。
「本当に、あと少しなの」
「明日にしても帳簿は逃げません」
テオドールは帳簿を閉じた。
「すまなかった。私が夢中になってしまった」
マリーアの冷たい視線を浴びながら、帳簿を抱えて部屋を出て行った。
リリアーヌは寝台に入る直前まで、
「もう少しで終わりそうだったのに」
と、訴えた。
マリーアは、
「左様でございますか」
と短く答えて灯りを消した。
「お休みなさいませ」
心はまだ高揚したままだった。
「お化粧は否定されましたが、私の得意なことは評価されたのです」
できることをすればいい。
リリアーヌは口元を緩めながら目を閉じた。
◇◇◇
帳簿の整理を進めるうちに、リリアーヌはテオドールの署名が必要な書類の数字にも目を通すようになった。
そんなある日の食卓で、テオドールがナイフを動かしながら言った。
「今日は、猫の道を譲ってもらえたのか?」
リリアーヌのフォークが止まった。
「……覚えていらっしゃったのですか」
テオドールは頷いた。
「その後の話を聞いていなかったなと思ったのだ」
リリアーヌはにこりとした。毎回、他愛のない話を食卓でしているばかりで、忙しいテオドールには覚えていられないだろうと思っていたのだ。
嬉しい誤算だった。
「今日は、私が先に譲りました」
「それなら、通れたな」
「いいえ。猫も止まりました」
「……気が合うんだな」
「懐かれたみたいです」
リリアーヌは食堂の窓から庭へ目を向けた。
低木の連なる小路の向こうに、噴水が静かに水を吹き上げていた。
「良かったな」
声を掛けられて再びテオドールに目を向けた。彼は柔らかく微笑んでいた。
リリアーヌもつられて微笑んだ。
今までは自分の失敗した話をしてきた。
けれど、テオドールは一度も馬鹿にして笑ったりしなかったし、たしなめもしなかった。
なにより、自分の話したことを忘れずに覚えていてくれた。そして、続きを聞きたがってくれている。
リリアーヌはじわじわと温かくなる心のままに尋ねた。
「旦那様は、今日はいかがでしたか」
「そうだな。お昼に食べたサンドイッチがおいしくてね。明日も同じものを料理長に頼もうと、メモして帰ってきたんだ」
「もうお話になりましたか」
テオドールは苦笑した。
「メモをしたことを今の今まで忘れていた」
「まあ」
二人は同時に笑った。
食事後に、二人で料理長に会いに行き、明日の昼食は二人とも同じものをと注文した。
家令と料理長は、揃って目を丸くした。
翌日の昼食をテオドールが自ら注文するなど、初めてだったからだ。
そんな日々が続いた。
帳簿の整理は進み、商会の経営も少しずつ改善していった。
テオドールは以前ほど疲れた顔をしなくなった。
食卓では笑うようになった。
リリアーヌに仕事の相談をすることも増えた。
リリアーヌは幸せだった。
これなら、三年後に離婚するという話もなくなるかもしれない。
ある日、その日の帳簿の整理を終えて部屋へ戻る途中、リリアーヌはマリーアに考えを話した。
「旦那様は私のことをお認めになりつつあると思うの。きっと、三年後にも一緒にいたいと思ってくださるわよね」
「それは旦那様に直接お伺いになったほうがよろしいかと」
「大丈夫だと思うのよ。だって、あんなに楽しそうにしてくださっているもの」
リリアーヌは鼻歌を歌いながら歩いていった。
マリーアは小さくため息をついた。
◇◇◇
マリーアを従えて元気よく廊下を歩くリリアーヌの後ろ姿を見て、テオドールは口元を引き締めた。
テオドールは、最初こそ戸惑ったものの、最近ではリリアーヌとの生活を気に入っていた。彼女が食事の時に話す内容が、いつしか楽しみになっていた。どうでもいいような話でも、彼女が話すと面白いものになる。
食卓があんなに温かいものだということを、リリアーヌに教えられた。
父が生きていた頃、食卓はいつも仕事の延長だった。
褒められた記憶は少ない。
商会が破綻してからは、食事をとる時間さえ惜しくなった。
それを変えたのがリリアーヌだった。
テオドールは手にした帳簿に目を落とした。
リリアーヌは帳簿に携わっているときを心から楽しんでいる。自分も彼女の笑顔を見ると嬉しくなった。
『侯爵様、最近は笑顔が増えましたね』
と、商会の職員に微笑みながら言われた。
「だからこそ、いけないな」
テオドールは小さく呟いた。
リリアーヌはまだ若い。これから学ぶことも、知ることも、出逢う人も沢山待っている。
自分が彼女との生活を気に入っているからと言って、ここに引き留めていいはずがない。
返済が終われば、彼女を自由にする。
最初から、そう決めていた。それを曲げてはならない。
テオドールは重ねた帳簿を棚の奥まで入れ、棚の扉に厳重に鍵をかけた。
◇◇◇
それからしばらくして。
ある日の夕食の席に、テオドールは嬉しそうな顔で現れた。
席に着き、食事が運ばれたところで、テオドールが話し始めた。
「今日は良い報告がある」
声が弾んでいた。リリアーヌの心は自然と浮き立った。
「商会が大幅黒字に転じたのだ」
「まあ!」
リリアーヌは身を乗り出した。
「おめでとうございます!」
「ありがとう。きみのおかげでもある」
「そんな。私は少しお手伝いしただけです」
「その少しが、大きかったんだよ」
テオドールは嬉しそうに笑った。
リリアーヌも笑顔になった。
テオドールの努力が報われた。
自分も、その一助になれた。
嬉しくてたまらない。
「これなら、お父上への返済も早めることができる」
「それはよかったです」
「ああ。三年はかからないだろう」
テオドールは満足げに頷いた。
「そうすれば、きみとの離婚も早められる」
リリアーヌの笑顔が止まった。
「……え?」
「きみに不自由を強いる生活も、当初よりはやく終わりが見えてきたということだ」
テオドールは心から喜んでいるようだった。
リリアーヌは何も言えなかった。
三年後に離婚するといわれたから、努力してきた。
背が伸びればいいのかと思った。
綺麗になればいいのかと思った。
仕事の役に立てば、少しは認めてもらえるのではないかと思った。
そして、ようやく認めてもらえた。
なのに。
その努力が、離婚を早めてしまった……?
「リリアーヌ?」
テオドールが不思議そうに尋ねた。
「どうした?」
リリアーヌは目の前の皿に目を落とした。
「……少し、疲れました」
「このところ頑張っていたからな。今日は早めに休むといい」
リリアーヌはぎこちなく頷いた。
「今日はもう、退席してもいいですか」
食事は始まったばかりだった。
「あとで軽食を届けさせよう」
「ありがとうございます」
リリアーヌはふらりと席を立った。マリーアが静かにリリアーヌの肩を支えた。給仕たちが心配そうな顔を向けているが、リリアーヌには気遣う余裕はなかった。
長い廊下を何とか歩き通し、やっとのことで自室にたどり着いた。
真っ青になったリリアーヌに、マリーアは何も言わなかった。流れるような動作でリリアーヌの寝支度を整え、寝台へ横にならせた。
「今夜はもう目を閉じてお眠りください」
リリアーヌは言われるままに目を閉じた。マリーアに礼を言う気力もなかった。
◇◇◇
翌朝、いつもの時間にマリーアが起こしに来たが、リリアーヌの体は鉛のように重かった。
「旦那様に今朝はご一緒できませんと伝えてほしいの」
「かしこまりました」
リリアーヌはまた目を閉じた。マリーアは何も尋ねず、上掛けを直した。
次に目を覚ました時には、日は高く昇っていた。
マリーアが窓を少し開けた。暖かな風が日向の香りを運んだ。
寝台の中でぼんやりとしていたリリアーヌのそばにマリーアが近づいた。
「体を動かした方がよろしいです。庭の散歩などはいかがですか」
「歩く気にならないわ」
「では、刺繍をしましょう。気がまぎれます」
マリーアはさっと刺繍箱を取り出した。リリアーヌは顔をしかめた。
「今、針を持ったら血の海になりそう」
マリーアはため息をついた。
「では、スープを召し上がりませんか」
ローテーブルに、湯気の立つスープの入った鍋と皿が置かれていた。
途端に、お腹が鳴った。昨夜からろくに食べていなかったことを思い出した。
「少しだけなら」
リリアーヌは寝台からのっそりと体を起こした。
マリーアが皿にスープをよそった。
ガウンを羽織って、椅子に座る。スープを一口すする。冷えきった体の奥に、スープの温かさがじんわりと広がった。
結局、全部飲んでしまった。少し元気が出てきたところで着替え、いつものように書き物机に近づいた。
そして、はっとした。
「……あっ!」
机の上に、書類が置いてあった。
しかも、提出期限は今日だった。
昨夜、夕食のあとに渡そうと思っていたのに、すっかり忘れていた。
リリアーヌは青くなった。
「どうしましょう」
「家令にお届けして、署名をいただきましょうか」
マリーアが提案した。
それが一番早い。
家令に頼めば、テオドールから署名をもらい、そのまま役所へ届けてくれるだろう。
リリアーヌは頷きかけて、止まった。
家令に任せていいのだろうか。
そして自分はいつまでこの部屋にこもるのだろうか。
テオドールに嫌われていることを目の当たりにするのが怖くて、嫌われている理由を知るのが怖くて、三年後までこの部屋のなかで苦しい思いを抱えていくのだろうか。
「もう、心にあいた穴を取り繕うのは嫌だわ」
リリアーヌは口元を引き結んだ。
「ねえ、マリーア」
「なんでしょう」
「私、努力したと思うの」
「はい」
「背を伸ばそうとしたし、綺麗になろうとしたし、お勉強も頑張ったわ」
「左様でございます」
「でも、肝心なことを聞いていなかったのよね」
リリアーヌは静かにマリーアを見た。
「旦那様が、どうして離婚なさりたいのか」
口にすると、胸が痛くなった。恐怖心が鎌首をもたげてくる。
テオドールの口から、自分を嫌いだと言われたら、どうしたらいいかわからなかった。
だから、努力すればテオドールの気持ちを変えられるかもしれないと、ひたすら頑張ってきた。
けれど、頑張れば頑張るほど、離婚が近づいた。
「もう、逃げないわ」
リリアーヌは書類を胸に抱えた。
「旦那様に会いに行きます」
マリーアは深く一礼した。
「お供いたします」
◇◇◇
商会は賑わっていた。
店先には商品が並び、客が思い思いに品物を見ている。
リリアーヌはマリーアと一緒に馬車を降りた。
店内に入るなり、数人の令嬢が近づいてきた。
茶会でテオドールを囲んでいた令嬢たちだった。最近、商会によく顔を出していると聞いていた。
「あら、侯爵夫人ではありませんか」
リリアーヌは背筋を伸ばした。
「ごきげんよう」
「わざわざ商会までいらしたの?」
「旦那様に用事がございます」
「そんなにお側にいたいのかしら」
リリアーヌは唇を結んだ。
もう一人が、わざとらしく首を傾げる。
「お金で結婚したくせに、ずいぶんと欲張りなのね」
マリーアが一歩前に出た。
「お言葉が過ぎます」
「侍女は黙っていなさい」
令嬢はリリアーヌを見下ろした。
「テオドール様がお気の毒だわ。あんなに立派な方なのに、下位貴族の娘を押しつけられて」
リリアーヌの胸の奥がずきりと痛んだ。
リリアーヌは精一杯、顔を上げた。
「私は、侯爵家のお役に立てるように努力しております」
「だったら、テオドール様を解放して差し上げたら? あの方の自由を奪うべきではありませんわ」
令嬢は冷たく笑った。
リリアーヌは何も言い返せなかった。
自分がずっと、心の奥で恐れていたことだったからだ。
テオドールは離婚したがっている。
自分は離婚したくない。
それは相手を縛ることなのだろうか。
本当は、令嬢のいう通りかもしれない。自分の我儘で迷惑をかけているとしたら。
涙が一粒、頬を伝った。
そのときだった。
「私の妻に、何を言っている」
低い声が響いた。
テオドールが立っていた。
今まで見たことのないほどの怒りを露わにしていた。
そこにいたのは、穏やかで物腰の柔らかい貴公子のテオドールではなかった。怒りに燃える目を令嬢たちに向けつつ、テオドールは少しかがんで、両腕でリリアーヌを抱きしめた。
「……テオドール様」
「お帰りいただこう」
「でも、私たちは」
テオドールは令嬢たちを睨んだ。
「妻を侮辱する方々と、商談するつもりはない」
テオドールはきっぱりと言った。
「今後、当商会への出入りはお断りする。各家にも正式に抗議させてもらう」
令嬢たちは顔色を変えた。何か言いかけたが、テオドールの表情を見て口を閉じた。
やがて、足早に店を出て行った。
商会の扉が閉まったのを確認したテオドールは、リリアーヌを見た。向けられた顔は、いつものテオドールだった。
リリアーヌは声を出さずに泣き続けていた。
「リリアーヌ」
戸惑いを含んだ声だった。
「大丈夫か」
リリアーヌはテオドールを見上げた。困った顔のテオドールを見て、リリアーヌはまた涙を流した。
「なぜここに来たんだ」
静かな声だったが、わずかに苛立ちが混じっている、とリリアーヌは思った。
「お邪魔かとは思いました。でも」
そう言うと、唇をかみしめた。喉の奥で、嗚咽を抑えた。その場にいた職員たちが一斉にテオドールを睨んだ。
テオドールは慌てて首を横に振った。
「そうじゃない。何の用事かと尋ねたかったんだ」
テオドールがリリアーヌに目線を合わせるために屈もうとした。リリアーヌは思わず体ごとそっぽを向いた。
テオドールは小さくため息をつくと、リリアーヌのお尻の下に片腕を回し、ひょいと抱き上げた。
一瞬の出来事だった。
いつも見上げていたテオドールの顔が、自分より少しだけ低い位置にあった。
「こうすればきみの目を見て話せる」
「え、あの」
「なにか火急の用事か? でなければマリーアや家令は許可を出さないと思うが?」
リリアーヌは、小さく叫んだ。用件を思い出した途端、涙が止まった。
「そうなのです! 今日中に旦那様のご署名をいただいて書類を提出しなくてはならないのです」
マリーアが横から書類の入った封書をすっと見せた。
「わかった。すぐに署名しよう」
テオドールは片腕でリリアーヌを抱き上げたまま、商会の商品棚の上に書類を置くように言った。
書類に目を通した後、差し出されたペンで、末尾に署名し、それをマリーアに渡した。
「家令にお届けしてきます。リリアーヌ様をよろしくお願いします」
「わかった」
マリーアはリリアーヌたちに一礼すると、商会を出て行った。
二人は商会のガラス窓越しに、馬車が去っていくのを見送った。
馬車の影が見えなくなったところで、テオドールは奥の来客用のソファに座り、自分の膝の上にリリアーヌを座らせた。
「続きを聞こうか」
リリアーヌはゆっくりと頷いた。
「旦那様にお伺いしたいことがあります」
「なんだ?」
「昨夜のお話です。離婚を早めたいのは、……私と早く離れたいからですか?」
テオドールは言葉を失った。そのまま、目を見開いて固まった。
「……私と一緒にいるのが、お嫌だからですか?」
声が震えた。
言ってから、また泣きそうになった。必死でこらえた。
ちゃんと聞くために。
テオドールはしばらく黙っていた。
「……きみにはそう聞こえたのだな?」
「はい」
「もしかして、婚礼の日からずっと?」
リリアーヌは頷いた。
テオドールは目を閉じた。
「そうか」
しばらくして、ゆっくりと口を開いた。
「きみが思っていた理由からではないよ」
リリアーヌは恐る恐る尋ねた。
「では、どういう?」
「きみを自由にしてあげたいからだ」
「自由?」
「ああ。きみはまだ若い。これからもっと世界を知っていく。そのうち、私へのあこがれとは違う、本当の恋を知るはずだ。そのとき、私に縛られていてほしくなかった」
リリアーヌは呆然とした。
そんな理由だったのか。
ずっと、自分が嫌われ続けているのだと思っていた。
背が低いから。
綺麗ではないから。
侯爵夫人として未熟だから。
けれど、テオドールは違うことを考えていた。
「私はテオドール様をお慕いしています!」
「わかっている」
「憧れなんかじゃありません!」
「リリアーヌ」
テオドールは困ったように笑った。
「きみはまだ十一歳だろう。だから」
「十一歳は立派なレディです!」
リリアーヌは顔を真っ赤にして抗議した。
「お勉強だってできます! 帳簿だってつけられます! 旦那様のお役にも立てます!」
「ああ。よくわかっているよ」
「でしたら!」
「けれど、それと結婚のことは別なんだ」
テオドールは静かに言った。
「今のきみが私を好きだといってくれるのは嬉しい。けれど、これから先も同じ気持ちでいなければならないとは思ってほしくない」
リリアーヌは唇をゆがめた。
「……旦那様は、私の気持ちが変わると決めつけていらっしゃいます」
テオドールは言葉を失った。
「三年後も、私は旦那様が大好きかもしれません。その時も、離婚しなければなりませんか?」
「それは……」
「私の未来を勝手に決めないでください!」
リリアーヌの目から、また涙がこぼれた。
「旦那様は、私がお嫌いなのだと思っていました。だから、ずっと頑張ってきたのです。……なのに、旦那様は離婚できるのが嬉しそうで……」
テオドールは息を呑んだ。
「……すまなかった」
リリアーヌは涙を拭った。
「私、旦那様のお考えを聞いていませんでした。でも、旦那様も、私の考えを聞いてくださいませんでした」
テオドールは頷いた。
「そのとおりだ」
「もう、私の気持ちを勝手に推し量らないでください」
涙がまた溢れた。
テオドールは空いた手で、涙を拭った。
「私は、きみのためだと思っていた。けれど、きみが何を望んでいるのか、きちんと尋ねていなかったんだな」
リリアーヌは鼻をすすった。
「はい」
「悪かった」
テオドールは続けた。
「それに、化粧をしていた日のことも、謝らなくてはいけないな」
「覚えていらっしゃったのですか」
「ああ。あのあと、きみが元気をなくしたから」
「……似合わないとおっしゃいました」
「言い方が悪かった。私は、きみが無理に大人びる必要はないと思ったんだ。今のきみには、今のきみの良さがある」
テオドールは少し恥ずかしそうに続けた。
「それを、うまく伝えられなかった」
リリアーヌはしばらく黙っていた。
「私は、きれいになったねと言っていただきたかったのです」
小さな声で打ち明けると、テオドールが頷いた。
「そうか」
「頑張ったのですよ?」
「そうなんだな」
「でも、似合わないと」
「……本当に、すまなかった」
テオドールはリリアーヌの前で頭を下げた。
リリアーヌはようやく、少し笑った。
「もう、あのお化粧は致しません」
「その方がいいと思う」
「旦那様!」
「……すまない」
二人は顔を見合わせた。
そして、どちらからともなく笑った。
「三年後に別れると決めたのは私だ。その決定は取り消そう。これからのことは、きみと話して決める」
「本当ですか?」
「ああ。ただし、きみが将来どうしたいかは、これからもきみ自身が決めていい。私に遠慮する必要はない」
「では、離婚しなくてもいいのですね?」
「少なくとも、今から離婚すると決めておく必要はないな」
リリアーヌの顔がぱっと輝いた。
「ありがとうございます!」
テオドールは微笑んだ。
「これからは、何かあれば互いにはなそう。きみの考えを聞かせてほしい」
「はい! 私も旦那様のお考えを聞きます」
「約束だ」
「はい!」
リリアーヌは微笑んだ。
「ではさっそく、尋ねたいことがある」
「なんでしょう」
「今日は仕事を切り上げてリリアーヌと二人で屋敷に帰ろうと思う。どうだろうか」
「私も旦那様と一緒に帰りたいです」
テオドールは商会の責任者を手招きして、馬車を用意するように言った。
「今日は早退する」
責任者は驚いた顔になったが、すぐににっこり笑った。
「かしこまりました。どうぞ、ごゆっくり」
◇◇◇
リリアーヌたちは用意された馬車に乗り込み、帰り道もたくさん話した。
リリアーヌは上機嫌だった。
「三年後には、私はもっと立派な淑女になっています。楽しみにしていてくださいね」
自信たっぷりに言うリリアーヌに、テオドールは頷いた。
「お化粧も上手になっていると思います」
「ほどほどにな」
「旦那様!」
テオドールは笑った。リリアーヌもつられて笑った。
こんなふうに、なんでも話せるようになりたかったのだ。
これからはきっと大丈夫。
そう思っていたら、テオドールがふと思い出したように言った。
「そういえば」
テオドールは続けた。
「マリーアから、刺繍の時間も帳簿点検に使っていたと聞いた」
リリアーヌの笑顔が固まった。
「……帳簿も、侯爵夫人の務めかと」
「そうか? マリーアから、刺繍道具の上にまで帳簿を広げると愚痴をこぼされたぞ?」
「……場所がそこしかなくて」
リリアーヌの目が泳いだ。
「では、今度は私のお願いを聞いてもらえるかな」
「なんでしょう?」
「きみの刺繍したハンカチを一枚もらいたい」
リリアーヌは言葉に詰まった。
テオドールは楽しそうに続けた。
「きみが作ったものだから、大切にする」
リリアーヌはざっと頭の中で完成までの日数を計算した。
「えっと、えっと、次のお誕生日まで猶予をいただけますか」
「来年か。楽しみだ」
テオドールは頷いた。
「待ち遠しいな」
リリアーヌは窓の外を見た。
三年後の離婚は、ひとまずなくなった。
背を伸ばすために、牛乳を急いで飲む必要もない。
綺麗になるために、無理なお化粧をする必要もない。
帳簿の整理だって、今までどおり続けられる。
けれど。
リリアーヌはそっと指を折って改めて数えた。
次の誕生日までの日数で、本当に間に合うだろうか。
帳簿なら、どんなに難しくても解けるのに。
刺繍だけは、どうにも苦手だ。
「マリーアと作戦を立てなくては」
「何か言ったか?」
「いいえ!」
リリアーヌはにっこり笑った。
「旦那様、ハンカチの大きさに、ご希望はございますか?」
「そうだな。普段使えるくらいで」
リリアーヌの目が光った。
「では、小さめでもよろしいでしょうか」
「もちろん」
リリアーヌは胸をなでおろした。
これで、なんとかなるかもしれない。
「そうだ。私の名前を刺繍してもらえると嬉しいな」
リリアーヌの笑顔が、再び固まった。
テオドール・モロー。
名前の文字数を、頭の中で数える。
長い。
「あのう、お名前の、頭文字でも?」
テオドールは微笑んだ。
リリアーヌは返事を待った。
テオドールは微笑むだけで、決して承諾はしてくれなかった。
屋敷に戻ると、待っていたマリーアに駆け寄って、テオドールからハンカチに刺繍をしてほしいと頼まれたことを話した。
焦るリリアーヌに、マリーアは、
「左様でございますか」
と答えながら、刺繍箱を取り出した。
「どうせなら、三年後に、とお願いした方がよろしかったかもしれませんよ?」
「……その数字は嫌い」
リリアーヌは頬を膨らませ、マリーアを睨んだ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
よかったら、★★★★★、ブックマーク、いいね、などなど、いただけると励みになります!




