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破られた誓約は7つになります

作者: 夢見叶
掲載日:2026/04/22

「お嬢様。今朝のお手紙でございます」


 アンナがそう言って差し出した封筒を、わたくしは受け取らなかった。


 封蝋を見れば、差出人は分かる。アスフェルト侯爵家の紋章――剣と麦穂の意匠。この6年間で見飽きた印影だった。中身も、おそらく見当はつく。


「お嬢様」


 アンナがもう一度、封筒を差し出す。


 わたくしは紅茶を一口飲んでから、銀の盆に置かれたそれを指先でつまみ上げた。封蝋を割る。便箋を広げる。


『ヘルムート・フォン・アスフェルトより、エルセ・フォン・リーデル嬢へ。来る秋の婚姻直前打ち合わせ儀礼につきまして、当家にて諸事情が重なり、誠に遺憾ながら――』


 そこから先は読まなかった。読まなくても分かる。「誠に遺憾ながら、来春への延期をお願い申し上げる」と続くはずだ。なぜなら、この6年間で同じ書き出しを6度受け取っているからだ。


「7度目でございますね」


 アンナの声には、もはや何の感情も含まれていなかった。同情も呆れも怒りも、ぜんぶ前回までに使い切ったらしい。


 わたくしも同じだった。


「……7度目」


 数えるのをやめようと、何度思ったか分からない。けれど数えてしまうのは、たぶんわたくしの悪い癖だ。律儀というか、几帳面というか。こういう時、普通の令嬢ならどうするのですかしら。床に手紙を投げつけて、紅茶のカップを割って、寝室に閉じこもって泣くのが正しい振る舞いだろうか。


 ――いや、それも違う気がする。


「お嬢様。誓約書を、お出ししましょうか」


 わたくしは少し考えてから、頷いた。


「お願い」


 書斎の鍵付き引き出しから、アンナが革表紙の冊子を持ってきた。表紙には金箔押しで『婚姻誓約書 第7921号 リーデル=アスフェルト』と刻まれている。


 開く。


 1頁目――婚約誓約。署名と封蝋。立会人3名のうち、王宮側の立会人として記された名は『ライハルト・フォン・ヴァルトハイム』。


 2頁目――指輪交換儀礼。同じ。


 3頁目――家庭訪問儀礼。同じ。


 4頁目――冬の祝宴披露儀礼。封蝋の下に、赤い『延期印』が押されている。理由欄には「侯爵家ご嫡男のご体調不良」。


 5頁目――延期印。「侯爵家領地の収穫祭多忙」。


 6頁目――延期印。「侯爵家ご親族のご慶事」。


 7頁目――延期印。「侯爵家ご嫡男の領地視察」。


 8頁目――延期印(つい先ほどの手紙で確定)。「諸事情」。


 赤い印が並んでいる。きれいな等間隔で。


「お嬢様」


 アンナがそっと囁いた。


「これで、7度になります」


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「ええ。7度ね」


 わたくしはひらりと頁を捲った。誓約書の最終頁、附則条項。


 第12条。


『婚姻儀礼の延期が3度を超えた場合、被延期側は王宮婚姻法務司に申し立てを行うことにより、片務解除権を行使することができる』


「……3度」


 わたくしは指でその一行をなぞった。


「アンナ。わたくし、いつから片務解除権を持っていたのかしら」


「4度目の延期を受けた時点でございます。お嬢様」


「では2年前ね」


「左様でございます」


 2年。


 わたくしは2年もの間、片務解除権を持ったまま、何もしていなかった。なぜか。


 ――父が生前、最後にまとめてくださった縁組だった。それだけ。


 正直に申し上げれば、面倒だったのも本当だった。手続きが。


「お嬢様」


 アンナが静かに言った。


「面倒くさいというお気持ちと、もう限界だというお気持ちは、両立いたします」


「……そうね」


 わたくしは紅茶のカップを置いた。冷めていた。


 立会人欄の名を、もう一度見る。


『ライハルト・フォン・ヴァルトハイム』


 王弟殿下。婚姻法務監察使。位階は公爵。


 この方は、わたくしとヘルムート様の10度の儀礼すべてに――3度の履行と、7度の延期に――欠かさず立ち会われていた。


 延期の場には、本来は王宮側立会人は出席しなくてよい。書面のやり取りで足りる。けれど殿下は、なぜか毎回、王宮の馬車で侯爵邸の門前まで来てくださり、わたくしの前で「では本日の延期について、書面署名を確認いたします」と仰り、わたくしの返答を待ってから、誓約書に立会印を押されていた。


 毎回、何かを言いたそうな顔をして、何も仰らずにお帰りになった。


「アンナ。あの方が、なぜ毎回お越しになるのか、分かる?」


「……お嬢様」


 アンナはしばらく黙ってから、こう言った。


「逆に、お嬢様はなぜだと思っておいででしょうか」


「分からない。だから訊いているのよ」


「では、僭越ながら申し上げますが――」


 アンナはわたくしの目を見た。


「閣下は、ずっと同じ場所に立っておられました」


 それだけ言って、アンナは一礼した。それ以上の言葉はなかった。


「……アンナ」


「はい」


「馬車を出して」


「どちらへ」


「王宮の婚姻法務司よ。誓約書を持って」


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 馬車は静かに走った。


 膝の上に革表紙の冊子を置いて、わたくしは窓の外を見ていた。春の都はうららかで、街路樹の若葉が朝の光を散らしていた。誓約書を破棄しに行く朝の空気が、こんなに穏やかだとは思っていなかった。


 ――もう少し、雷雨か何かであってくれてもよかったのに。


 そういう劇的な天候は、たぶん物語の中だけのものなのだろう。現実の婚約破棄は、晴天の朝に、紅茶の冷めた残り香と一緒にやってくる。


「お嬢様」


 アンナが向かい側の座席から声をかけた。


「お顔の色が、いつもと違いますわ」


「青い?」


「いえ、まったく逆で。どちらかと申しますと、爽快、と申し上げるのが近うございます」


 わたくしは少し笑ってしまった。


「悪役令嬢みたいな顔をしている、と」


「お嬢様は悪役にはなれません。性格的に」


「あら、それは残念」


「わたくしが代わりに、お悪い女中を演じて差し上げます」


「頼もしいわ」


 そんな会話をしているうちに、馬車は王宮の北門に着いた。婚姻法務司の建物は、王宮の本殿ではなく、その奥の文官区画にある。


 受付で、わたくしは誓約書を出した。


「リーデル子爵家のエルセでございます。婚姻誓約第7921号につきまして、第12条に基づく片務解除の申し立てを行いに参りました」


 受付の文官は、一瞬目を見開いた。それから、すぐに表情を引き締めた。


「片務解除でございますね。承知いたしました。立会人3名の証言が必要となりますが、お手配は」


「立会人欄の王宮側立会人に、ご連絡いただけますか」


「と申しますと」


「ライハルト・フォン・ヴァルトハイム公爵閣下に」


 文官の手が止まった。


「閣下は……お嬢様、閣下は本日、こちらの執務室にいらっしゃいます」


「左様でございますか。では、お取次ぎを」


 文官は奥へ消えた。少しの間、わたくしは廊下のベンチに座っていた。アンナがわたくしの隣で、誓約書を膝の上に乗せて見張りをしていた。


「お嬢様」


「なに」


「ご決心は固うございますね」


「ええ」


「途中で、来年こそはと言われても、お引き返しにはなりませんね」


「ならない」


「左様でございますか」


 アンナは少しだけ、口元を緩めた。それから、わたくしの肩のリボンをそっと結び直した。朝に一度結んでくれたものを、もう一度結び直してくれた。何か言いそうにして、結局は言わなかった。


 ――主家の使用人とは、こういうものだ。


 奥から、足音が聞こえた。


 文官のものではない。重く、規則正しく、廊下の石床を踏む音。一歩、二歩、三歩。歩幅は変わらない。途中で止まることもない。12歩で、足音はわたくしの正面で止まった。


 わたくしは立ち上がった。


「リーデル嬢」


 低く澄んだ声だった。


 ライハルト・フォン・ヴァルトハイム公爵が、廊下の角から現れた。藍色の文官礼服。腰の剣帯はなく、代わりに王宮婚姻法務監察使の銀章が左胸で光っていた。年齢の割に深い目元の方だった。穏やかで、けれど芯の通った、何かを長く待っていた人の目だった。


 わたくしは膝を折って礼をした。


「ヴァルトハイム公爵閣下。本日は突然のお運び、ご無礼を――」


「無礼ではない」


 殿下は短くそう仰って、わたくしの方へ二歩近づかれた。


「片務解除のお申し立て、と伺った」


「左様でございます」


「附則条項第12条に基づき、4度目の延期から既に2年。被延期側のリーデル子爵家には、いつでも解除権の行使が認められている。立会人3名の証言が必要だが――」


 殿下はそこで、わずかに目を細められた。


「私と、私が連れてきた公証官2名で、本日この場にて手続きを完了することができる」


 わたくしは、しばし殿下のお顔を見ていた。


「殿下」


「うん」


「公証官は、本日、なぜこちらに――」


「私が、2週間前に手配した」


「2週間前」


「侯爵家から、秋の打ち合わせ儀礼を延期する旨の打診が、ひそかに王宮の婚姻法務司に届いていた。私はそれを見て、貴女が今度こそ動かれるだろうと判断した」


 ――いえ、待ってくださいませ。


「殿下。畏れながら――」


「責めているのか」


「いえ。ただ……わたくしのお顔は、そんなに分かりやすうございますか」


 殿下は、初めて表情を緩めて笑われた。


「いや。貴女の顔ではない。貴女の沈黙だ」


「沈黙」


「うむ」


 殿下は少し言葉を選ばれてから、続けられた。


「4度目の延期の場で、貴女は何も言わなかった。5度目でも、6度目でも、何も言わなかった。だが、2度目までは違ったはずだ。2度目の延期で、貴女は侯爵子息に向かって『次は必ず、と仰ってくださいまし』と一言だけ仰った。それが最後だった」


 ――よく覚えていらっしゃる。


「貴女は怒っていなかったわけではない。諦めていたわけでもない。ただ、相手にこれ以上の期待を許す言葉を与えないように、沈黙していた。あの沈黙の質を、私は他の婚姻誓約の場で、見たことがない」


 殿下は一拍置かれた。


「あの沈黙が、いつか必ず動くことを、私は確信していた」


 廊下の窓から差し込む春の光が、殿下の銀章を照らしていた。


「殿下」


「うん」


「立会人欄に閣下のお名前が入っているのは、どなたかのご指示でございますか」


「私の希望だ」


「左様でございますか」


「最初の婚姻誓約の段階では、貴女と侯爵子息の組み合わせは、王宮の文官区画では『片寄りすぎている』と評されていた。子爵家の財政状態を考慮して、侯爵家側に優位が傾きすぎる、と。私は王宮側立会人として、その均衡を見守る立場で名乗りを上げた」


「侯爵家を疑っておられた?」


「疑ってはいない。だが、不安ではあった。侯爵子息の婚姻歴を、私は知っていた」


 ――婚姻歴。


「ヘルムート様には、わたくしとの婚約以前にも、婚姻誓約のご経験が?」


 殿下は、初めてわずかに声を落とされた。


「過去に2件。いずれも、第7段階の打ち合わせ儀礼まで進んだ後、相手側からの片務解除を受けて消滅している」


 わたくしは、誓約書の表紙をぎゅっと握った。


「……それは」


「貴女には伝わっていなかったか」


「初耳でございます」


「申し訳ない。本来であれば、婚約誓約の前に貴女に伝えるべき情報だった。だが、私は王宮側立会人としての立場上、そこまで踏み込めなかった」


「いえ。閣下のお立場は理解しております」


 そして、わたくしはようやく腑に落ちた。


 ヘルムート様は、わたくしを含めて3度、婚姻直前で逃げている方だったのだ。そして毎回、相手側からの片務解除で「向こう3年の婚姻禁止」を受けてきた方だったのだ。それを承知の上で、侯爵家は彼を「いずれは結婚させる嫡男」として育て、わたくしを含めた令嬢たちを婚約者として宛がってきた。


 殿下は、その3度目の繰り返しを、ずっと立会人として見ておられた。


「殿下」


「うん」


「本日、わたくしが片務解除を申し立てましたら、ヘルムート様は通算3度目の解除を受けることになります」


「左様だ」


「ということは――」


 わたくしは、自分でも驚くほど、静かな声で続けた。


「ヘルムート様は、もう、王国内のどの貴族令嬢とも、婚姻誓約を結ばれることが、できなくなる」


「左様だ」


 殿下は短く頷かれた。


「婚姻法第21条。3度の片務解除を受けた者は、終生、王国内における婚姻誓約の締結権を失う」


 ――ああ。


 それは、『ざまぁ』というような甘い言葉では足りない結末だった。ヘルムート様は、これから先、侯爵家の嫡男としての立場こそ保つだろうが、家督を継ぐ条件である「正式な婚姻」を生涯果たせなくなる。つまり、家督は弟か甥に渡る。アスフェルト侯爵家にとって、これは爵位継承の根幹を揺るがす事態だ。


 わたくしが手を下したわけではない。


 ヘルムート様自身が、自分で3度、約束を破った結果だった。


「殿下」


「うん」


「申し立て、お願いいたします」


 殿下は深く頷かれて、奥へ目配せをなさった。公証官2名が、すでに長机を整えて待っていた。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 手続きは、思ったよりずっと早く済んだ。


 誓約書の最終頁に、わたくしは新しい署名をした。「片務解除申立 リーデル子爵令嬢エルセ」と。次に、立会人欄に殿下と公証官2名の署名と封蝋が並んだ。封蝋の蝋を流す匂いが、書斎中に静かに広がった。


 その匂いを、わたくしは長く忘れないだろうと思った。


 ――決着というのは、こういう匂いがするのだ。


 すべての手続きを終えて、誓約書を閉じたのは、正午前だった。


 殿下が公証官2名を退室させてから、わたくしの方に向き直られた。


「リーデル嬢」


「はい」


「侯爵家への通知は、本日の夕刻に王宮の伝令を介して送られる。早ければ夕食の頃、遅くとも明日の朝までには、侯爵家に届く」


「承知いたしました」


「そして――」


 殿下は少し、躊躇われた。


「貴女には、もう一つ、お知らせしておきたいことがある」


「はい」


「今夜、王宮春季夜会が開かれる。リーデル子爵家には招待状が届いているはずだ」


「左様でございます。ですが、本日のことがございましたゆえ、欠席を――」


「いや。出席していただきたい」


「殿下」


「私が、貴女を迎えに行く」


 ――え、と声が出かかった。


「貴女を、私のエスコートで夜会に連れて行きたい。そして、夜会の席で、王弟ヴァルトハイム公爵家からリーデル子爵家への、新たな婚姻誓約の打診を、公に発表したい」


 殿下のお声は、いつもの低く澄んだ声のままだった。けれどその下に、何かを長く堪えていた人の、わずかな震えが含まれていた。


 わたくしは、何も言えなかった。


 殿下の銀章が、春の光の中で揺れていた。


「驚かせて、申し訳ない」


 殿下が静かに言われた。


「だが、私は6年間、貴女が侯爵子息に約束を破られ続けるのを、立会人として見てきた。そして、貴女が一度も声を荒げず、一度も誰かのせいにせず、ただ静かに沈黙していたことを、見てきた。あの沈黙は、私には、貴女が誰よりも誠実に、最後の一線まで誠実であろうとした証だった」


 ――閣下。


「貴女が片務解除を申し立てられる日を、私は2年待った。今日、貴女が来てくださった。私は本日この場で、貴女の片務解除の立会人を務めた。これで私の王宮側立会人としての職務は終わった。ここから先は、私個人として、申し上げる」


 殿下は一歩、わたくしの方に近づかれた。けれど手は握られなかった。肩にも触れられなかった。


「リーデル嬢。私と、新たな婚姻誓約を結んでいただけないだろうか」


 わたくしは、誓約書を胸に抱いていた手を、ゆっくり下ろした。


「殿下」


「うん」


「お一つ、伺ってもよろしゅうございますか」


「何でも」


「……7度の延期に、すべて立ち会われていたのは、わたくしのためでございますか」


 殿下は、しばし答えられなかった。それから、ゆっくりと言われた。


「最初は、職務として立ち会った。だが、4度目以降は――」


「4度目以降は」


 殿下は、最後の一言は仰らなかった。代わりに、わたくしの目をまっすぐに見ておられた。


 廊下の窓から、春の光が一筋差し込んでいた。殿下の銀章ではなく、誓約書の革表紙の上に。


 わたくしは、殿下のお顔を見たまま、ゆっくりと頷いた。


 殿下は、それ以上は何も仰らなかった。手も握らず、肩にも触れず、ただ、わたくしを見ておられた。


 その目が、最後に少しだけ、笑っているように見えた。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 夜会は王宮大広間で行われた。


 わたくしは深い藍色の夜会服を選んだ。リーデル子爵家の色である、控えめな藤色を、本日は意図的に外した。アンナが「お嬢様。これは宣戦布告のお色でございますね」と頷いて、髪に同じ色の絹のリボンを編み込んでくれた。


「宣戦布告ではないわ。ご挨拶よ」


「左様でございますか。では、お挨拶のお色、ということで」


 馬車を降りると、王宮の階段の下に、ヴァルトハイム公爵閣下が立っておられた。藍色の正装。わたくしの夜会服と、ほとんど同じ色合い。


 ――偶然、ではないようだ。


「リーデル嬢」


 殿下はわたくしに腕を差し出された。


「閣下」


 わたくしは膝を折って礼をしてから、その腕に手を添えた。


 大広間に入る瞬間、いつもの軽い喧騒が、一拍遅れて止まった。誰かが手にしていたグラスの脚が、銀盆に小さく当たる音が、わたくしの右後方で一度だけ鳴った。それきり、誰も話さなかった。


 ――ヴァルトハイム公爵閣下が、リーデル子爵令嬢を、エスコートしておいでだ。


 そういう囁きが、波のように広がっていったわけではない。広がったのは、もっと薄く、もっと冷たいものだった。誰もが、こちらを見ていて、こちらを見ていないふりをしていた。


 奥の方で、見覚えのある後ろ姿が振り返った。アスフェルト侯爵子息ヘルムート様。彼は、こちらをご覧になって、しばし固まっておられた。


「リーデル嬢」


 殿下が、わたくしの耳元で短く仰った。


「あの方が、何か仰っても、貴女は答えなくてよい。私が答える」


「承知いたしました」


 ヘルムート様が、人を掻き分けて、こちらに早足で来られた。


「エルセ嬢。これは――」


 ヘルムート様は、わたくしと殿下を交互に見て、声を強張らせた。


「これはどういうことだ。本日の朝、私は秋の儀礼の延期通知を送った。それは届いたはずだ」


 殿下が、静かに前へ出られた。


「アスフェルト侯爵子息」


「閣下」


「本日午前、リーデル子爵令嬢から、婚姻誓約第7921号の片務解除の申し立てが、王宮婚姻法務司に行われた。申し立ては受理され、私が立会人として手続きを完了した。詳細は、本日夕刻に貴家に送付された通知書をご確認いただきたい」


 ヘルムート様の顔から、一気に血の気が引いた。


「片務解除……」


「左様」


「待ってくれ。私は、来春には必ず――」


 わたくしは、その「来春」という言葉に、何も返さなかった。


 代わりに、殿下の腕に添えていた手を、ほんの少しだけ、握り直した。指先が殿下の袖の生地を一度だけ掴んで、すぐに緩んだ。


 それだけだった。


 ヘルムート様は、わたくしのその一動作を見ておられた。それから、わたくしの顔ではなく、わたくしの足元を見ておられた。それから、もう何も仰らなかった。


 殿下が一歩、前へ進まれた。わたくしも一歩、前へ進んだ。ヘルムート様の横を通り過ぎた。振り返らなかった。


 背中で、ヘルムート様の靴音が、一歩、半歩、止まった。それから、後ろへ二歩下がる音がした。三歩は下がらなかった。三歩下がる前に、誰かがヘルムート様を呼んだのだろう。あるいは、誰も呼ばなかったのかもしれない。わたくしは振り返らなかったので、知らない。


 大広間の奥、楽団が次の曲を奏で始めた。


 殿下が、楽団の方に短く目配せをされた。曲が止まった。


 殿下のお声が、大広間の高い天井に響いた。


「皆様。お楽しみのところ、しばしのお時間を頂戴したく存じます。本日、王宮婚姻法務司にて、リーデル子爵令嬢エルセ嬢とアスフェルト侯爵子息ヘルムート殿との婚姻誓約は、第12条に基づき正式に解除されました。同時に、私ライハルト・フォン・ヴァルトハイムから、リーデル子爵家に対し、新たな婚姻誓約の打診を、本席にて公に申し上げます」


 しんとした。


 それから、誰かが手袋の指先で、もう片方の掌を一度叩いた。乾いた、静かな音だった。続いて、もう一人が叩いた。それから、何人かが叩いた。拍手と呼ぶには、まだ薄いものだった。けれど、止まなかった。


 わたくしは、殿下の隣で、静かに頭を下げた。


 ヘルムート様の姿は、いつの間にか、人の波の向こうに消えていた。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 夜会が終わって、馬車に戻る頃には、もう深夜だった。


 殿下が、リーデル邸まで送ってくださった。馬車の窓から、春の夜風が入ってきた。昼間とは違う、少し冷たい風だった。


「リーデル嬢」


 殿下が静かに仰った。


「本日、お疲れさまでした」


「殿下も」


「明日から、貴女の側にも、いろいろな動きがあるだろう。リーデル子爵家への問い合わせ、社交界からの噂、アスフェルト侯爵家からの抗議。王宮の方からも、私から正式に支援の手配をする」


「ご手配、痛み入ります」


「だが、本日この夜だけは――」


 殿下は少し、お声を落とされた。


「本日この夜だけは、貴女には何もせずに、ゆっくり休んでいただきたい」


 わたくしは少し笑ってしまった。


「殿下。わたくし、本日は朝から、誓約書を持って王宮に参り、片務解除を行い、夜会で公の婚約宣言を受けたばかりでございます。本日この夜だけ、と仰いますが、本日この夜は、わたくしの人生で、もっとも何かをした夜でございますわ」


「……それもそうだな」


 殿下も、少し笑われた。


「では、明日の朝だけは、ゆっくり休んでいただきたい」


「明日の朝だけは、お言葉に甘えます」


 馬車がリーデル邸の門前に着いた。アンナが先に降りて、わたくしの手を取った。


 殿下は、馬車の中から、わたくしを見ておられた。


「リーデル嬢」


「はい」


「明日の午後、お伺いしてもよろしいか」


「お待ちしております」


 殿下は短く頷かれた。


 馬車が走り去るのを、わたくしは門前で見送った。


 書斎に戻ると、机の上に、本日まで使っていた古い誓約書が置いてあった。革表紙の冊子。表紙には金箔押しで『婚姻誓約書 第7921号 リーデル=アスフェルト』。


 わたくしはそれを手に取って、最後の頁を開いた。


 片務解除の署名と、立会人欄の署名と、封蝋。


 封蝋の蝋は、もう冷えて、固まっていた。指でなぞると、わずかに凹凸があった。今日の昼に流された蝋の、わずかなかすれ。誰かが急いだ手で押した印の、微かな傾き。それを指の腹で何度かなぞった。


 ――朝には、この冊子を、書斎の保管庫の一番奥に仕舞おう。


 そう思って、冊子を閉じなかった。閉じる前に、もう一度、最終頁の封蝋を指でなぞった。3度なぞって、ようやく閉じた。


 机の上に置いた。


 書斎の窓から、春の月が差し込んでいた。月の光は、革表紙の冊子の上ではなく、その横の、何もない机の木目の上に落ちていた。


 明日の午後、殿下がいらっしゃる。


 何を持っていらっしゃるかは、伺っていない。新しい誓約書かもしれないし、ただ手ぶらでいらっしゃるのかもしれない。たぶん、どちらでもよかった。


 わたくしは、机の前に立ったまま、しばらく窓の外を見ていた。月は動かなかった。アンナは廊下の向こうで、わたくしを呼ばずに、ただ控えていた。朝にリボンを結び直してくれた手で、たぶん、もう一杯、紅茶を淹れる準備をしていた。淹れずに、ただ準備だけして、待っていた。


 ――主家の使用人とは、こういうものだ。


 わたくしは、机の上の革表紙には、もう触れなかった。


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