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異世界恋愛短編

婚約破棄されて、家族の縁も切られた伯爵令嬢ですが、結果的に幸せになれそうです

作者: 喜田 花恋
掲載日:2026/03/04

 若き侯爵クローゼ・レグラントは、社交界で「非の打ち所がない青年」と評されていた。


 整った容姿、洗練された所作、淀みない弁舌。誰もが羨む理想の貴公子。


 しかし──


「まったく、あの給仕は気が利かぬ。愚か者め」

「庭師の手入れも雑だ。低能ばかりが集まる」


 表では柔らかく微笑み、裏では容赦なく罵る。


 その陰口はやがて広まり、屋敷全体がその空気に染まっていった。


 使用人たちは互いに疑心暗鬼。居心地が悪く感じ、一人、また一人と去っていく。


 数ヶ月前に侯爵家へ来た若き執事ワイトは、この状況に強い危機感を抱いていた。


「クローゼ様。このままでは屋敷に残る者がいなくなります。雰囲気も日々悪化しております」


「は? 俺が悪いと言うのか!」


 クローゼは机を叩く。


「悪いのは無能な連中だ。この俺が、わざわざ笑顔まで向けてやっているのだぞ。俺は正しい」


 鼻で嗤う。


「それに、この俺に意見するとは……執事の分際で、ずいぶんと大きく出たものだな。身の程を弁えろ」


 必死の諫言も、ことごとく退けられる。


 婚約者──伯爵令嬢フィリア・タウンシェドもまた、静かに口を開いた。


「クローゼ様。あなたが他者を軽んじれば、その行いは巡り巡って、ご自身の価値を下げることになります」


「は!? 君まで俺を否定するのか? 優秀な、この俺を!」


 自尊心を傷つけられ、顔がみるみる歪む。


「心底がっかりだ。婚約者たる者、将来の夫を何があっても立てるべきだろう!」


 怒号が部屋に響く。


「それに――我が侯爵家に嫁ぐ身で意見するなど、思い上がりも甚だしい」


 フィリアは唇を噛みしめる。


「今日は気分が悪い。帰れ」


 それでも彼女は深く一礼した。


「……かしこまりました」


 背筋を伸ばしたまま屋敷を後にする。

 振り返ることはなかった。



 数日後、タウンシェド伯爵家に一通の手紙が届いた。


 差出人は、クローゼ・レグラント。


 内容は簡潔だった。


『フィリア・タウンシェドは侯爵家にて傲慢に振る舞い、使用人を見下し、侯爵家の名誉を傷つけた。よって、婚約を破棄する』


 事実無根であった。


「……なんということだ」


 伯爵の手が震える。


 侯爵家との婚姻は、家の安定に直結する。


「すぐに馬車を用意しろ」


 その日のうちに、伯爵は侯爵邸を訪れた。


 応接間で迎えたクローゼは、以前と変わらぬ優雅な笑みを浮かべている。


「わざわざご足労いただき、恐縮です」


「クローゼ殿……娘が何をしたのですか」


「使用人の陰口を重ね、屋敷の秩序を乱しました。侯爵家に嫁ぐには、品位を欠くと判断いたしました」


 嘘を、さも当然のように。


「……どうか、考え直してはいただけませぬか」


「難しいでしょう」


 クローゼは肩をすくめる。


 そのとき、部屋の外から可憐な声が響いた。


「お父さま」


 姿を現したのは、フィリアの妹レイラだった。


 伯爵には腹積もりがあった。

 万が一、フィリアが叶わぬなら、レイラを――。


「クローゼ様は、何も間違っておりませんわ。だって――お優しく、聡明で、立派なお方ですもの」


 うっとりとした視線。


 クローゼの口元が緩む。


 伯爵は、その様子を見て提案する。


「もし、フィリアと婚約破棄するのであれば……妹のレイラとの婚約を考えてはいただけませんか?」


 クローゼはレイラを見る。


 レイラは頬を染め、恥じらうように微笑んだ。


「わたくし、以前からクローゼ様を心より尊敬しておりましたの」


 称賛の言葉。


「……悪くない提案だ。だが、条件がある……。フィリア嬢と絶縁していただきたい」


「いや、それは……」


 伯爵が返答に困っていると、クローゼが告げる。


「侯爵家に嫁ぐ者の家族が傲慢だとなれば、我が侯爵家の名が汚れます」


「……わ、分かりました……」


 その瞬間、婚約は決まった。



 その夜。


 フィリアは父からすべてを告げられた。


「……そうですか」


 静かな声。


「すまない。家のためだ」


 父は目を逸らす。


 そのとき、部屋の扉が開く。


「お姉さま」


 レイラだった。


「もうお決まりになったの?」


 フィリアは妹を見つめる。


 レイラは、無邪気な笑みを浮かべた。


「お姉さまが出ていけば、みんな幸せになりますわ。クローゼ様も、お父さまも、わたくしも」


 少しだけ身を乗り出し、囁く。


「お姉さまは真面目すぎるのですわ。正義感ばかりでは、殿方のお心は掴めませんもの」


 フィリアは、ゆっくりと息を吐いた。


 怒りも、悲しみも、込み上げる。

 だが、それ以上に理解してしまった。


 ――ここに、自分の居場所はない。


「……分かりました」


 フィリアは決断する。

 伯爵家を出ると。


 そしてすぐに、遠縁にあたる辺境伯の養女となることが決まる。


 フィリアが伯爵家を出る日。


「本当にすまない……」


 父の言葉に、フィリアは微笑む。


「いいのです。これで皆が幸せになるのなら」


 馬車が伯爵家を離れる。

 窓の外、屋敷は次第に小さくなる。


 振り返ることはなかった。



 北方を治める辺境伯。


 フィリアが養女となって半年。


 使用人や領民を真摯に思いやる彼女の姿勢を認め、辺境伯は執務の一端を任せるようになっていた。


 ある日、執務室に来客の報せが入った。


「元レグラント侯爵家執事、ワイトと名乗る者が」


 フィリアの手が、わずかに止まる。


「……お通しして」


 応接室。


 そこにいたのは、見慣れた端正な青年。

 だが以前の執事服ではなく、格式ある黒の礼装を身に纏っている。


「お久しぶりです、フィリア様」


「ワイト様……?」


「はい。本日は、一個人として参りました」


 静かな声。

 辺境伯が同席する中、ワイトは告げる。


「まずはお詫びを。私はレグラント侯爵家を解雇されました」


「解雇……?」


「はい。クローゼ様の素行を諫め続けた結果、“不忠”と判断されました」


 辺境伯が腕を組む。


「それだけではあるまい」


 ワイトは、わずかに息を整えた。


「はい……私は、アシュフォード公爵家次男、ワイト・アシュフォードにございます」


「え……!?」


「王の密命により、レグラント侯爵家の実情を調査しておりました」


「国王の……」


「はい。使用人の入れ替わりの激しさ、領民からの訴え、そしてクローゼ様の資質」


 フィリアは、静かにワイトを見る。


「……では、最初から予定通りの解雇だったのですね」


「はい。しかし──あなたに出会ったことは、予定通りではございませんでした」


 沈黙。

 北風が窓を叩く音だけが響く。


「侯爵家において、あなたは一人、正しいことを口にされていました」


「ですが……結果は、ご覧の通りです」


「いいえ、正しさは必ず報われます」


 ワイトの声は、静かだが揺るがない。


「私は、あなたの在り方に心を打たれました」


 深く息を吸い、そして膝をつく。


「フィリア様。どうか、私との婚約をご検討いただきたい」


 フィリアを見つめる。

 その瞳には、誠実さしかない。


「私は、あなたを一人の女性として敬愛しております」


 フィリアは、言葉を失う。


 辺境伯が口を開く。


「フィリア。お前はどうしたい」


 長い沈黙ののち。


 フィリアは、まっすぐワイトを見る。


「……すぐにお返事はできません。ですが──あなたの言葉は、確かに受け取りました」


 ワイトは微笑み、再び深く頭を下げた。


「良い返事をお待ちしています」



 レグラント侯爵家では、執事ワイトが去って以降、屋敷の統制は目に見えて乱れた。


「さすがはクローゼ様」


 甘言だけが応接間に響く。


 その裏で帳簿は歪み、税の徴収は強まり、領民の不満は着実に膨れ上がっていった。


 クローゼは気づかない。いや、気づこうとしなかった。


「収穫量が落ちたのは天候のせいだ」

「商人が減ったのは流行病の影響だ」


 都合の悪い報告は退け、耳に心地よい言葉だけを信じる。


 やがて、不満は爆発した。


 農民は税の軽減を求めて蜂起し、商人は次々と他領へ移る。大規模な暴動は侯爵家の手に負えず、クローゼはついに王へ救援を求めた。


 国王軍によって鎮圧されたその日、すでに結論は出ていた。


 レグラント侯爵家、領地没収。

 当主クローゼ・レグラント、爵位剥奪。


「こんなはずでは……」


 クローゼは呟く。


「俺は正しい……俺は、優れている……」


 答える者はいない。

 甘言を並べていた者たちは、すでに去っていた。


 レイラは淡々と告げる。


「クローゼ様……残念ですが、婚約は破棄させていただきますわ」


 タウンシェド伯爵もまた、利のない縁談に価値はないと判断し、距離を置いた。


 婚姻は白紙。

 縁は、あまりにあっさりと断ち切られた。


 旧レグラント領は新たな統治官のもとで再建が始まる。


 皮肉にも、その再建案の基礎となった報告書を書いたのは――ワイトであった。



 数日後。


 レイラは公爵家の夜会に姿を現した。


 華やかなドレス。

 計算された笑顔。


 そして、目的の人物を見つける。


「ワイト様」


 振り向いた彼は、以前と変わらぬ静かな瞳をしていた。


「……レイラ様」


「ご無沙汰しておりますわ。まさか、あの執事様が公爵家の次男だったなんて……驚きました」


「事情がありましたので」


 簡潔な返答。


 レイラは一歩近づく。


「わたくし、以前から思っておりましたの。ワイト様は、あの侯爵家には相応しくないと」


「……」


「本当は、もっと高みに立つお方だと」


 甘く、柔らかな声音。


「今のわたくしは、自由の身ですわ。レグラント家との縁もございません」


 視線を絡める。


「もしよろしければ、わたくしが……お側に」


 その瞬間。


 ワイトの目付きが鋭くなる。


「お言葉ですが」


 低く、はっきりと。


「私は、あなたの欲望を満たす“道具”ではありません」


 レイラの笑みが固まる。


「道具、ですって……?」


「あなたが今求めているのは、私自身ではない」


 静かな声。だが一切の揺らぎがない。


「私の婚約者という肩書きを、手に入れたいのでしょう」


 レイラの頬が強張る。


「そ、そんなこと……」


「私は、フィリア様の在り方に敬意を抱き、心を寄せました」


 まっすぐに告げる。

 

「他者を貶めず、責任から逃げず、正しさを貫くその姿勢に」


 一歩、距離を取る。


「あなたの言葉は、かつてクローゼ様に向けられていたものと同じです」


 甘い称賛。


「私が求める伴侶は、耳に心地よい言葉を並べる方ではない」


 完全な拒絶。


「……っ」


 レイラは唇を震わせる。


「お姉さまが、あなたを選ぶとは限りませんわ!」


 思わず吐き出した言葉。


 ワイトは静かに微笑む。


「ええ。たとえフィリア様が私をお選びにならなかったとしても、私があなたを選ぶことはございません」


 最後に、丁寧に一礼する。


 レイラは、何も言えなかった。

 そして初めて理解する。


 姉が持っていたものは、地位でも婚約者でもない。


 ――信頼。


 それだけは、奪えなかった。



 辺境伯邸の応接室。


 フィリアは静かに立っていた。


 向かいにいるのは、やつれた顔のクローゼ。

かつて「非の打ち所がない」と讃えられた青年は、今やその面影すら薄い。


「……助けてくれ」


 掠れた声。


「爵位も、領地も奪われた……」


 震える言葉が、広い室内に虚しく落ちる。


「王家の処分は重すぎる。あれは誰かの讒言だ。そうに違いない」


 なおも他人のせいにしながら、彼は一歩、また一歩と近づいた。


「フィリア……お前しかいない」


 そこに、かつての威厳はない。


「公爵家と縁があると聞いた。お前が口添えしてくれれば、きっと……」


 フィリアは静かに首を振る。


「わたくしに、そのような力はございません」


「ある! あるはずだ!」


 声が裏返る。


「俺は間違っていない! あいつらが無能だったから――」


「“口は災いのもと”。あの時、わたくしは申し上げたはずです。『他者を軽んじれば、自らの価値をも下げる』と」


 フィリアは、彼の言葉を静かに遮った。


 クローゼの瞳から涙がこぼれ落ちる。


「……フィリア……助けてくれ……」


 縋る声。


 フィリアはただ、まっすぐに見つめ返す。


「……そうだ……!」


 唐突に顔を上げる。


「婚約を復活させればいい。王家だって、俺を簡単には切れまい。お前は俺に相応しい。レイラなどより、ずっと……」


 嗚咽が混じる。


「……頼む……見捨てないでくれ」


 ついに膝をつき、床に額を押しつける。

 かつて周囲を見下していた男が、涙ながらに頭を下げていた。


 そのとき──


「――見苦しい」


 低く、冷ややかな声が響いた。


 扉が開く。

 入ってきたのは、黒の礼装に身を包んだワイト。その立ち姿は、もはや一介の執事ではない。威厳と、揺るぎない自信。


 クローゼが顔を上げる。


「……お前は」


「久しぶりですね、クローゼ様」


「なぜここにいる……!」


 ワイトはフィリアの隣に立つ。


「私は王命により、レグラント侯爵家を調査していました」


「……なに?」


「使用人の大量離職、不当な解雇、虚偽報告、資金の私的流用。すべて報告済みです」


 クローゼの顔が青ざめる。


「私は公爵家次男。国王の信任を受けて動いていました」


「な……そんな、馬鹿な……」


 膝をついたまま、呆然とする。


「あなたが“無能”と切り捨てた執事が、国王の監察だったというわけです」


 淡々とした宣告。


「処分は妥当」


 クローゼの呼吸が荒くなる。


「……じゃあ、最初から……」


「そうです。あなたに打つ手はありません」


 クローゼの肩が、がくりと落ちる。


 そして、ゆっくりとフィリアを見る。

 その隣に立つワイト。


 ようやく理解する。


「……そうか……は、はは……はは……」


 かすれた笑い。


「……俺は、もう侯爵ではない……。選ばれる立場ですらなかったのか」


 フィリアは何も言わず、ただ静かに見つめる。


「俺は……全部、自分で壊したのか」


 クローゼは、ふらりと立ち上がる。


 背中は、かつての誇り高き貴公子とは似ても似つかぬほど、小さかった。



 応接室の扉が閉まり静寂が訪れる。


 ワイトがそっとフィリアを見た。


「お怪我は?」


「ございません」


 フィリアは微笑む。

 そして、ゆっくりとワイトを見上げた。


「……以前のお返事ですが」


 その言葉に、ワイトの喉がわずかに鳴る。


 数々の交渉をこなしてきた彼が、今はただ一人の女性の返答に胸を高鳴らせていた。


 フィリアは微笑む。


「お受けいたします。どうか、わたくしと共に歩んでくださいませ」


「……本当ですか?」


「はい」


 次の瞬間──

 彼は思わずフィリアを抱きしめていた。


 はっと我に返る。


「も、申し訳ありません……!」


 だが腕は離れない。

 心臓が早鐘のように打っている。


「ずっと……不安だったのです。断られたらどうしようと」


 フィリアはそっと彼の背に手を回す。


「わたくしも怖かったのです。けれど――あなたとなら」


 その言葉に、ワイトはさらに強く抱きしめる。


 今度は、ためらわずに。


「必ず幸せにします」


「はい」


 窓から射し込む光が、抱き合う二人をやさしく包み込み、その先に待つ幸せな日々を予感させていた。

最後までお読みいただきありがとうございます。

誤字・脱字、誤用などあれば、誤字報告いただけると幸いです。

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― 新着の感想 ―
異世界恋愛で、物語も面白いのにどこか童話的なメッセージが込められているのが良いですね! 端的な文体もとても読みやすいですよっ(๑•̀ㅂ•́)و✧
喜田様の十八番ともいうべき端的な文体がますます冴えてきました。 いつにも増してとってもスラスラ読みやすいです。 妹をギャフンというヒーローの存在がいいですね。 まさか○○だったとは!のどんでん返しが…
自分を有能だと思い込んでいる、性格が悪い勘違い男と、性格が悪い女性に突き付けられた現実。
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