婚約破棄されて、家族の縁も切られた伯爵令嬢ですが、結果的に幸せになれそうです
若き侯爵クローゼ・レグラントは、社交界で「非の打ち所がない青年」と評されていた。
整った容姿、洗練された所作、淀みない弁舌。誰もが羨む理想の貴公子。
しかし──
「まったく、あの給仕は気が利かぬ。愚か者め」
「庭師の手入れも雑だ。低能ばかりが集まる」
表では柔らかく微笑み、裏では容赦なく罵る。
その陰口はやがて広まり、屋敷全体がその空気に染まっていった。
使用人たちは互いに疑心暗鬼。居心地が悪く感じ、一人、また一人と去っていく。
数ヶ月前に侯爵家へ来た若き執事ワイトは、この状況に強い危機感を抱いていた。
「クローゼ様。このままでは屋敷に残る者がいなくなります。雰囲気も日々悪化しております」
「は? 俺が悪いと言うのか!」
クローゼは机を叩く。
「悪いのは無能な連中だ。この俺が、わざわざ笑顔まで向けてやっているのだぞ。俺は正しい」
鼻で嗤う。
「それに、この俺に意見するとは……執事の分際で、ずいぶんと大きく出たものだな。身の程を弁えろ」
必死の諫言も、ことごとく退けられる。
婚約者──伯爵令嬢フィリア・タウンシェドもまた、静かに口を開いた。
「クローゼ様。あなたが他者を軽んじれば、その行いは巡り巡って、ご自身の価値を下げることになります」
「は!? 君まで俺を否定するのか? 優秀な、この俺を!」
自尊心を傷つけられ、顔がみるみる歪む。
「心底がっかりだ。婚約者たる者、将来の夫を何があっても立てるべきだろう!」
怒号が部屋に響く。
「それに――我が侯爵家に嫁ぐ身で意見するなど、思い上がりも甚だしい」
フィリアは唇を噛みしめる。
「今日は気分が悪い。帰れ」
それでも彼女は深く一礼した。
「……かしこまりました」
背筋を伸ばしたまま屋敷を後にする。
振り返ることはなかった。
◇
数日後、タウンシェド伯爵家に一通の手紙が届いた。
差出人は、クローゼ・レグラント。
内容は簡潔だった。
『フィリア・タウンシェドは侯爵家にて傲慢に振る舞い、使用人を見下し、侯爵家の名誉を傷つけた。よって、婚約を破棄する』
事実無根であった。
「……なんということだ」
伯爵の手が震える。
侯爵家との婚姻は、家の安定に直結する。
「すぐに馬車を用意しろ」
その日のうちに、伯爵は侯爵邸を訪れた。
応接間で迎えたクローゼは、以前と変わらぬ優雅な笑みを浮かべている。
「わざわざご足労いただき、恐縮です」
「クローゼ殿……娘が何をしたのですか」
「使用人の陰口を重ね、屋敷の秩序を乱しました。侯爵家に嫁ぐには、品位を欠くと判断いたしました」
嘘を、さも当然のように。
「……どうか、考え直してはいただけませぬか」
「難しいでしょう」
クローゼは肩をすくめる。
そのとき、部屋の外から可憐な声が響いた。
「お父さま」
姿を現したのは、フィリアの妹レイラだった。
伯爵には腹積もりがあった。
万が一、フィリアが叶わぬなら、レイラを――。
「クローゼ様は、何も間違っておりませんわ。だって――お優しく、聡明で、立派なお方ですもの」
うっとりとした視線。
クローゼの口元が緩む。
伯爵は、その様子を見て提案する。
「もし、フィリアと婚約破棄するのであれば……妹のレイラとの婚約を考えてはいただけませんか?」
クローゼはレイラを見る。
レイラは頬を染め、恥じらうように微笑んだ。
「わたくし、以前からクローゼ様を心より尊敬しておりましたの」
称賛の言葉。
「……悪くない提案だ。だが、条件がある……。フィリア嬢と絶縁していただきたい」
「いや、それは……」
伯爵が返答に困っていると、クローゼが告げる。
「侯爵家に嫁ぐ者の家族が傲慢だとなれば、我が侯爵家の名が汚れます」
「……わ、分かりました……」
その瞬間、婚約は決まった。
◇
その夜。
フィリアは父からすべてを告げられた。
「……そうですか」
静かな声。
「すまない。家のためだ」
父は目を逸らす。
そのとき、部屋の扉が開く。
「お姉さま」
レイラだった。
「もうお決まりになったの?」
フィリアは妹を見つめる。
レイラは、無邪気な笑みを浮かべた。
「お姉さまが出ていけば、みんな幸せになりますわ。クローゼ様も、お父さまも、わたくしも」
少しだけ身を乗り出し、囁く。
「お姉さまは真面目すぎるのですわ。正義感ばかりでは、殿方のお心は掴めませんもの」
フィリアは、ゆっくりと息を吐いた。
怒りも、悲しみも、込み上げる。
だが、それ以上に理解してしまった。
――ここに、自分の居場所はない。
「……分かりました」
フィリアは決断する。
伯爵家を出ると。
そしてすぐに、遠縁にあたる辺境伯の養女となることが決まる。
フィリアが伯爵家を出る日。
「本当にすまない……」
父の言葉に、フィリアは微笑む。
「いいのです。これで皆が幸せになるのなら」
馬車が伯爵家を離れる。
窓の外、屋敷は次第に小さくなる。
振り返ることはなかった。
◇
北方を治める辺境伯。
フィリアが養女となって半年。
使用人や領民を真摯に思いやる彼女の姿勢を認め、辺境伯は執務の一端を任せるようになっていた。
ある日、執務室に来客の報せが入った。
「元レグラント侯爵家執事、ワイトと名乗る者が」
フィリアの手が、わずかに止まる。
「……お通しして」
応接室。
そこにいたのは、見慣れた端正な青年。
だが以前の執事服ではなく、格式ある黒の礼装を身に纏っている。
「お久しぶりです、フィリア様」
「ワイト様……?」
「はい。本日は、一個人として参りました」
静かな声。
辺境伯が同席する中、ワイトは告げる。
「まずはお詫びを。私はレグラント侯爵家を解雇されました」
「解雇……?」
「はい。クローゼ様の素行を諫め続けた結果、“不忠”と判断されました」
辺境伯が腕を組む。
「それだけではあるまい」
ワイトは、わずかに息を整えた。
「はい……私は、アシュフォード公爵家次男、ワイト・アシュフォードにございます」
「え……!?」
「王の密命により、レグラント侯爵家の実情を調査しておりました」
「国王の……」
「はい。使用人の入れ替わりの激しさ、領民からの訴え、そしてクローゼ様の資質」
フィリアは、静かにワイトを見る。
「……では、最初から予定通りの解雇だったのですね」
「はい。しかし──あなたに出会ったことは、予定通りではございませんでした」
沈黙。
北風が窓を叩く音だけが響く。
「侯爵家において、あなたは一人、正しいことを口にされていました」
「ですが……結果は、ご覧の通りです」
「いいえ、正しさは必ず報われます」
ワイトの声は、静かだが揺るがない。
「私は、あなたの在り方に心を打たれました」
深く息を吸い、そして膝をつく。
「フィリア様。どうか、私との婚約をご検討いただきたい」
フィリアを見つめる。
その瞳には、誠実さしかない。
「私は、あなたを一人の女性として敬愛しております」
フィリアは、言葉を失う。
辺境伯が口を開く。
「フィリア。お前はどうしたい」
長い沈黙ののち。
フィリアは、まっすぐワイトを見る。
「……すぐにお返事はできません。ですが──あなたの言葉は、確かに受け取りました」
ワイトは微笑み、再び深く頭を下げた。
「良い返事をお待ちしています」
◇
レグラント侯爵家では、執事ワイトが去って以降、屋敷の統制は目に見えて乱れた。
「さすがはクローゼ様」
甘言だけが応接間に響く。
その裏で帳簿は歪み、税の徴収は強まり、領民の不満は着実に膨れ上がっていった。
クローゼは気づかない。いや、気づこうとしなかった。
「収穫量が落ちたのは天候のせいだ」
「商人が減ったのは流行病の影響だ」
都合の悪い報告は退け、耳に心地よい言葉だけを信じる。
やがて、不満は爆発した。
農民は税の軽減を求めて蜂起し、商人は次々と他領へ移る。大規模な暴動は侯爵家の手に負えず、クローゼはついに王へ救援を求めた。
国王軍によって鎮圧されたその日、すでに結論は出ていた。
レグラント侯爵家、領地没収。
当主クローゼ・レグラント、爵位剥奪。
「こんなはずでは……」
クローゼは呟く。
「俺は正しい……俺は、優れている……」
答える者はいない。
甘言を並べていた者たちは、すでに去っていた。
レイラは淡々と告げる。
「クローゼ様……残念ですが、婚約は破棄させていただきますわ」
タウンシェド伯爵もまた、利のない縁談に価値はないと判断し、距離を置いた。
婚姻は白紙。
縁は、あまりにあっさりと断ち切られた。
旧レグラント領は新たな統治官のもとで再建が始まる。
皮肉にも、その再建案の基礎となった報告書を書いたのは――ワイトであった。
◇
数日後。
レイラは公爵家の夜会に姿を現した。
華やかなドレス。
計算された笑顔。
そして、目的の人物を見つける。
「ワイト様」
振り向いた彼は、以前と変わらぬ静かな瞳をしていた。
「……レイラ様」
「ご無沙汰しておりますわ。まさか、あの執事様が公爵家の次男だったなんて……驚きました」
「事情がありましたので」
簡潔な返答。
レイラは一歩近づく。
「わたくし、以前から思っておりましたの。ワイト様は、あの侯爵家には相応しくないと」
「……」
「本当は、もっと高みに立つお方だと」
甘く、柔らかな声音。
「今のわたくしは、自由の身ですわ。レグラント家との縁もございません」
視線を絡める。
「もしよろしければ、わたくしが……お側に」
その瞬間。
ワイトの目付きが鋭くなる。
「お言葉ですが」
低く、はっきりと。
「私は、あなたの欲望を満たす“道具”ではありません」
レイラの笑みが固まる。
「道具、ですって……?」
「あなたが今求めているのは、私自身ではない」
静かな声。だが一切の揺らぎがない。
「私の婚約者という肩書きを、手に入れたいのでしょう」
レイラの頬が強張る。
「そ、そんなこと……」
「私は、フィリア様の在り方に敬意を抱き、心を寄せました」
まっすぐに告げる。
「他者を貶めず、責任から逃げず、正しさを貫くその姿勢に」
一歩、距離を取る。
「あなたの言葉は、かつてクローゼ様に向けられていたものと同じです」
甘い称賛。
「私が求める伴侶は、耳に心地よい言葉を並べる方ではない」
完全な拒絶。
「……っ」
レイラは唇を震わせる。
「お姉さまが、あなたを選ぶとは限りませんわ!」
思わず吐き出した言葉。
ワイトは静かに微笑む。
「ええ。たとえフィリア様が私をお選びにならなかったとしても、私があなたを選ぶことはございません」
最後に、丁寧に一礼する。
レイラは、何も言えなかった。
そして初めて理解する。
姉が持っていたものは、地位でも婚約者でもない。
――信頼。
それだけは、奪えなかった。
◇
辺境伯邸の応接室。
フィリアは静かに立っていた。
向かいにいるのは、やつれた顔のクローゼ。
かつて「非の打ち所がない」と讃えられた青年は、今やその面影すら薄い。
「……助けてくれ」
掠れた声。
「爵位も、領地も奪われた……」
震える言葉が、広い室内に虚しく落ちる。
「王家の処分は重すぎる。あれは誰かの讒言だ。そうに違いない」
なおも他人のせいにしながら、彼は一歩、また一歩と近づいた。
「フィリア……お前しかいない」
そこに、かつての威厳はない。
「公爵家と縁があると聞いた。お前が口添えしてくれれば、きっと……」
フィリアは静かに首を振る。
「わたくしに、そのような力はございません」
「ある! あるはずだ!」
声が裏返る。
「俺は間違っていない! あいつらが無能だったから――」
「“口は災いのもと”。あの時、わたくしは申し上げたはずです。『他者を軽んじれば、自らの価値をも下げる』と」
フィリアは、彼の言葉を静かに遮った。
クローゼの瞳から涙がこぼれ落ちる。
「……フィリア……助けてくれ……」
縋る声。
フィリアはただ、まっすぐに見つめ返す。
「……そうだ……!」
唐突に顔を上げる。
「婚約を復活させればいい。王家だって、俺を簡単には切れまい。お前は俺に相応しい。レイラなどより、ずっと……」
嗚咽が混じる。
「……頼む……見捨てないでくれ」
ついに膝をつき、床に額を押しつける。
かつて周囲を見下していた男が、涙ながらに頭を下げていた。
そのとき──
「――見苦しい」
低く、冷ややかな声が響いた。
扉が開く。
入ってきたのは、黒の礼装に身を包んだワイト。その立ち姿は、もはや一介の執事ではない。威厳と、揺るぎない自信。
クローゼが顔を上げる。
「……お前は」
「久しぶりですね、クローゼ様」
「なぜここにいる……!」
ワイトはフィリアの隣に立つ。
「私は王命により、レグラント侯爵家を調査していました」
「……なに?」
「使用人の大量離職、不当な解雇、虚偽報告、資金の私的流用。すべて報告済みです」
クローゼの顔が青ざめる。
「私は公爵家次男。国王の信任を受けて動いていました」
「な……そんな、馬鹿な……」
膝をついたまま、呆然とする。
「あなたが“無能”と切り捨てた執事が、国王の監察だったというわけです」
淡々とした宣告。
「処分は妥当」
クローゼの呼吸が荒くなる。
「……じゃあ、最初から……」
「そうです。あなたに打つ手はありません」
クローゼの肩が、がくりと落ちる。
そして、ゆっくりとフィリアを見る。
その隣に立つワイト。
ようやく理解する。
「……そうか……は、はは……はは……」
かすれた笑い。
「……俺は、もう侯爵ではない……。選ばれる立場ですらなかったのか」
フィリアは何も言わず、ただ静かに見つめる。
「俺は……全部、自分で壊したのか」
クローゼは、ふらりと立ち上がる。
背中は、かつての誇り高き貴公子とは似ても似つかぬほど、小さかった。
◇
応接室の扉が閉まり静寂が訪れる。
ワイトがそっとフィリアを見た。
「お怪我は?」
「ございません」
フィリアは微笑む。
そして、ゆっくりとワイトを見上げた。
「……以前のお返事ですが」
その言葉に、ワイトの喉がわずかに鳴る。
数々の交渉をこなしてきた彼が、今はただ一人の女性の返答に胸を高鳴らせていた。
フィリアは微笑む。
「お受けいたします。どうか、わたくしと共に歩んでくださいませ」
「……本当ですか?」
「はい」
次の瞬間──
彼は思わずフィリアを抱きしめていた。
はっと我に返る。
「も、申し訳ありません……!」
だが腕は離れない。
心臓が早鐘のように打っている。
「ずっと……不安だったのです。断られたらどうしようと」
フィリアはそっと彼の背に手を回す。
「わたくしも怖かったのです。けれど――あなたとなら」
その言葉に、ワイトはさらに強く抱きしめる。
今度は、ためらわずに。
「必ず幸せにします」
「はい」
窓から射し込む光が、抱き合う二人をやさしく包み込み、その先に待つ幸せな日々を予感させていた。
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