名前のない骨に、砂糖をかけて
天井沙羅という名前は、彼女の口から語られるよりも先に、僕の中にあった。
出会った瞬間に理解した――というと語弊があるかもしれないが、それでも、あれは出会いではなく「合流」だったとしか言いようがない。僕の世界の断片が、ようやく人の形をとった。そんな感じだ。
人は、覚えていないものを夢に見る。逆もまた然りだ。
その夜、僕は夢を見ていたのだろうか。音と光と、甘ったるい煙の中で、誰かが僕の名を呼んだ気がする。耳ではなく、鼓膜の奥、脳の中に直接響くような声だった。
視線を上げた先に、彼女がいた。
クラブの光が彼女の輪郭を縁取り、すべてが逆光だったにもかかわらず、僕はその瞳の色までをはっきりと記憶している。そんなはずはないのに、脳はそれを当然のこととして処理した。まるで再会でもしたかのように。
沙羅は、静かに笑っていた。
あれは、世界が僕に向かって初めて微笑んだ瞬間だったと思う。
“ようやく見つけた”のは、たぶん僕の方じゃなくて、彼女の方だった。
当時の僕は、誰かに見つけてもらえるような存在ではなかった。
平凡以下、地味以下、影の一部。名指しされることのない人生に慣れ切っていた。
それなのに、彼女は迷わず僕の名前を呼んだ。
――真木透、でしょ?
聞かれてもいないのに、知っていた。あるいは、僕の脳がそう都合よく補完しただけなのかもしれない。でもそれでいい。そんな些細な論理なんて、沙羅の存在の前では意味を持たない。
だって、彼女は「現実」よりも本物だったから。
***
正直、彼の名前は知らない。いや、聞いたことはあったかもしれないが、覚えるほどの価値がなかったというだけだ。
同じゼミにいて、何度か同じグループになったこともある。でもそれだけ。深く関わる理由もないし、関わりたいとも思わなかった。
ああいうタイプはどこにでもいる。ノリだけで生きていて、笑ってればなんとかなると思っている軽い人間。誰とでも話せることを長所と勘違いしている浅さ。無害だが、つまらない。
その日、ゼミの講義が終わって廊下に出たとき、僕はたまたま彼と隣になった。避けるほどでもないし、話しかけられるのも面倒だったから、黙って歩いた。
すると、彼が言った。
「今夜ヒマ? クラブ行かない?」
唐突だった。まるで天気の話をするような気軽さだった。
僕は一瞬だけ、彼の顔を見た。相変わらず、笑っていた。
「……なんで俺?」
「え? いや、なんとなく。ヒマそうだったから」
そしてまた笑った。自分のノリと誘いに一ミリの責任も感じていない、軽薄な笑いだった。
普通なら断っていたと思う。僕はそういう場には興味がなかったし、彼と一緒に時間を過ごしたいと思ったことも一度もない。
だけどその日は、何かが違った。
断るのが面倒だった。というのもある。
けれどそれ以上に、「自分とは何の関係もない世界」に足を踏み入れてみるのも悪くないかもしれない、と思ったのだ。
僕は、いつだって部外者だった。誰の輪にも入らず、誰にも深入りせず、観察者としてのポジションを保っていた。
だけど人間というのは不思議なもので、疎外され続けると、ほんの少しだけ“例外”を欲するようになる。
だから、僕はうなずいた。
「別にいいけど」
彼は「マジ? ナイス」と言って、にやけた顔で親指を立てた。
「友達の店なんだ。人、集めたくてさ。今夜、ヤバいDJ来るんだよ」
なるほど、僕は“客寄せの頭数”として誘われたらしい。
だが、それでも構わなかった。そういう役割なら、僕には慣れがある。
渋谷の駅を出て、人混みを抜け、雑居ビルの間を縫って歩く。
彼の後ろをついていくうちに、壁の向こうから低音が鳴り始めた。床が微かに振動していた。音の波に押されるように、僕はクラブの入り口へと足を運んでいた。
“ヤバいDJ”とは何か。それは知らない。
でも、あの夜が“ヤバい夜”になることだけは、僕にもわかっていた。
***
クラブに入った瞬間、音が身体を殴ってきた。
耳じゃない。肺の奥が揺れる。横隔膜が脈打つ。心臓の鼓動と重なるようなリズムが、空気という形をとって空間を満たしていた。
目を細めると、照明がスモークを裂きながら流れているのが見えた。青、紫、赤、金。色の洪水。すべてが人工的で、猥雑で、非日常的だった。
僕はその空間に合っていなかった。明らかに異物だった。
まわりの人間たちは酒を片手に、意味のない会話を叫びながら笑っている。踊っているのか、ただ揺れているのか。
すべてが滑稽に見えた。
自分を“ノッてる側”に置くことでしか、現実から逃げられない連中。
僕は軽く酔っていた。
さっき飲まされたテキーラという酒が喉を焼き、その熱が胃に落ちきらないうちに別のグラスが渡され、断る間もなく次が注がれていた。
「ほら、飲めば楽になるって」
彼――ゼミのあいつはそう言った。誰にでも言っているのだろう。あのノリのよさは、優しさではなくテンプレートだ。
照明が一段強くなり、音が跳ねた。誰かの歓声。
その瞬間、僕の視界がぐにゃりと歪んだ。
身体が軽くなったような錯覚。立っているのか沈んでいるのか、距離感がずれた。
少し、気分がよかった。
酒のせいなのか、音のせいなのか、それともこの空間自体が現実を狂わせているのか。
あるいは、最初から“現実”なんてものは僕にはなかったのかもしれない。
視界の奥――フロアの向こう側で、誰かがこちらを見ていた。
あまりにも自然すぎて、最初は気づかなかった。
けれど、視線が合ったとわかった瞬間、時間が止まったような錯覚があった。
彼女は、そこにいた。
壁にもたれ、ひとり、笑っていた。
スモークの向こうで、光に溶けるような髪を揺らし、口元にグラスを当てて、
――僕を、見ていた。
***
彼女が誰なのかなんて、最初から知っていた。
その名を名乗られるよりも早く、僕の中にはそれが“天井沙羅”だという確信があった。理由はない。ただ、わかってしまったのだ。
彼女はこちらへ歩いてきた。踊る人々の隙間を、滑るように。
誰も彼女には触れなかった。誰も彼女を見ていなかった。なのに、彼女だけは、まっすぐに僕の方を向いていた。
距離が縮まるたびに、僕の呼吸が浅くなる。心臓が鼓膜の裏で鳴っているようだった。
「ねえ、君って名前、なんて言うの?」
その声は、音楽の爆音の中でも、はっきりと聞こえた。
耳に届いたというより、頭の中に響いたという方が正確だ。柔らかく、湿度のある声。掠れたような、深夜のラジオみたいなトーンだった。
「……真木。真木透」
名乗った瞬間、彼女の唇が緩やかに動いた。
「知ってるよ」
僕は、何も言えなかった。目を逸らすこともできなかった。
彼女の瞳は、焦点が合っていないようで、まっすぐすぎるようでもあった。
何かを映しているというより、すべてを透かしている目。
その目に見つめられて、僕は初めて“存在”というものを自覚したのかもしれない。
「君、迷ってるでしょ。来てよかったのか、帰った方がよかったのか」
「……まあ、うん」
「でも、来てくれて、正解だったよ」
彼女が手を伸ばした。指が、僕の袖に触れる。
その瞬間、背筋を風が走ったような感覚があった。
熱ではなく、冷たい方の震え。けれどそれは不快ではなく、むしろ――快感だった。
「この世界、うるさいよね」
「……うん、うるさい」
「でも、ふたりなら、大丈夫かもね」
沙羅はそう言って、笑った。
音楽が遠ざかったように感じた。光が淡くなったようにも思えた。
彼女の声と表情だけが、世界の中心に残されていた。
***
彼女と並んで、フロアの隅に腰を下ろした。
誰かが踊っている。誰かが叫んでいる。誰かがキスしている。
けれど僕たちだけは、世界の外側にいるような静けさに包まれていた。
「クラブってさ、夢と似てると思わない?」
沙羅がそう言ったとき、彼女は足を抱えて、顎を膝にのせていた。
まるで子どものような姿勢だったが、その横顔にはどこか儚いものが漂っていた。
「夢?」
「うん。現実みたいで、現実じゃなくて。起きたときには全部忘れてる」
「……でも、君のことは忘れないと思う」
思わず口に出た言葉だった。酒のせいではないと思いたい。
彼女は何も言わず、ただ目を細めて微笑んだ。
時間がどれくらい経ったのかはわからない。
気づけばフロアの音は遠のき、照明は落ち着き、人の数もまばらになっていた。
「ゼミのあいつ」はどこかへ消えていた。最初からいなかったのではないかと思うほど、痕跡がなかった。
沙羅が立ち上がり、手を差し伸べた。
「歩こうか。夜、まだ長いし」
僕はその手を取った。指が冷たくて、少しだけ震えていた。
外に出ると、空は灰色だった。
ビルの隙間から見える空は、夜とも朝ともつかない色をしていた。
空気が肌にまとわりつくような蒸し暑さで、でもそれすらも現実感がなかった。
彼女と並んで歩いた。言葉は交わさなかった。
ただ、歩いた。黙って、ゆっくりと。
このとき、ふと思ったのだ。
“これは始まりじゃない。たぶん、もう始まっていたんだ”
僕の中の何かが、すでに崩れ始めていた。
けれどそれを止めようとは思わなかった。
彼女がいるなら、それでよかった。
***
朝が来るのが、嫌になった。
学校へ行く理由も、家に帰る理由も、僕にはなかった。
沙羅と一緒にいられるなら、それでよかった。
彼女は、暗い場所にだけ現れた。
クラブの控え室、仲間うちの溜まり場、安ホテルの薄汚れたベッドの上。
ネオンと煙の隙間で、彼女は僕を待っていた。
「会いたい」と思ったとき、彼女はそこにいた。
まるで、最初から僕の幻だったみたいに。
大学へは行かなくなった。
別に意味はない。沙羅といた方が、世界はずっとまともに思えた。
講義もゼミも、形式だけのやり取りでしかなかった。
どうせ、あいつらは僕のことなんて覚えていない。
母からLINEが来ていた。
【最近どうしてるの? お父さん心配してるよ】
未読のまま通知を消した。母は優しいが、いつも何もできなかった。
父は“正しさ”で人を殴るだけの人間だった。
沙羅は、そんな話も黙って聞いてくれた。
たとえば、クラブのトイレで、ソファの背もたれで、誰かの家の玄関のタイルに背を預けて。
僕が話すと、彼女は黙って隣にいて、指先だけで僕の髪を撫でた。
「……それって、きっと、透が優しいからだよ」
言葉は少なかった。でも、伝わっていた。
彼女の手が、僕の輪郭をなぞるたびに、僕の世界は滑らかになっていった。
まるで、すべてが許されたような感覚。
許されるために、僕は生きていたのかもしれないとすら、思った。
***
沙羅と一緒にいた時間を、誰かに話そうとしたことがある。
たとえば、ゼミのあいつ。
クラブに僕を連れていった張本人。
ある日、偶然構内で見かけて、何となく声をかけた。話すのは久しぶりだった。
「先月行ったクラブさ。あそこ、また行った?」
「ああ? どこ?」
彼は眉をひそめて笑った。酔った夜の記憶なんて残っていないのか、あるいは、最初から僕と一緒にいたことさえ忘れているのか。
それとも、ただ面倒だっただけか。
「奥のソファのとこでさ。明かり、ちょっと暗いところ。沙羅って子に会ったんだけど──」
その瞬間、彼の顔がふっと真顔になったのが、なぜか印象に残った。
「……へえ、女、できたんだ。よかったじゃん」
それだけ言って、彼はスマホに視線を戻した。
そこで話は終わった。話す気も失せた。
僕のスマホには、彼女との写真がなかった。
何枚も撮ったはずだった。
クラブのバーカウンター、ホテルの鏡前、朝焼けの屋上。
指を何度スクロールしても、それらは出てこなかった。
保存し忘れたのだろうか。あるいは、誤って消したのか。
そう思ってフォルダを探すと、そこにあったのは、ピンぼけの夜景と、誰かの背中ばかりだった。
おかしいと思った。だが、それ以上考えたくなかった。
なぜなら、彼女はいつも僕のそばにいたからだ。
「透って、ちょっと変わってるよね」
そう沙羅が言ったのは、ホテルのベッドの上だった。
カーテンの隙間から射す夕方の光が、彼女の頬を柔らかく照らしていた。
「人を嫌うのが上手。だけど、自分のことはちゃんと好きなんだ」
「……自分のこと、好きかな」
「うん。だって、自分が正しいと思ってるもん」
否定しようとして、やめた。
沙羅の言葉は、ときどき妙に鋭かった。
彼女の視線に晒されると、自分の薄皮の下の生っぽい部分を、剥かれてしまうような感覚があった。
「でも、私、それ嫌いじゃないよ」
そう言って、彼女は僕の指を絡めた。
その指先はいつも少しだけ冷たかった。だけど、不思議と体温を感じさせた。
彼女がいると、僕は自分を肯定できた。
家族がどんなに僕を失望させても、大学に居場所がなくても、沙羅が笑ってくれれば、それでよかった。
それだけで、世界は静かになった。
***
彼女の名前は、高嶋結衣。
同じゼミにいる。たしか、教育系の志望だった気がする。
正直、あまり関わったことはなかった。
いつもノートを丁寧に取っていて、発表資料もちゃんと仕上げてくるようなタイプ。
僕みたいに出席もまばらで、他人に興味のない人間からすれば、別の世界の人間のようだった。
なのに、なぜか彼女は僕に声をかけてきた。
「最近、ゼミ来てないけど、大丈夫?」
廊下の端。夕方。たまたま通りかかった僕を、彼女は呼び止めた。
数秒、声の主が誰か分からず立ち止まった。
それくらい、僕の中で彼女は「背景の人間」だった。
「……別に、用ないだけ」
素っ気なく答えたのに、彼女は笑った。
「そっか。でも、資料の配布とかあるから、来られそうなら来た方がいいよ」
声に棘はなかった。むしろ気遣っているのが分かった。
それが、なんとなく、苛立たしかった。
「……君に関係ないだろ」
口に出してから、しまったと思った。
彼女は少し驚いた顔をしたが、それでもすぐに表情を戻して、柔らかく笑った。
「うん、そうだね。ごめん。気になっちゃって」
気になる必要なんてない。
僕の人生に、君は関係ない。
それなのに、どうして関わろうとするのか。
他人の人生に足を踏み入れることを、どうしてそんなに軽く考えられるのか。
その日、家に帰ってから、沙羅に話した。
「今日さ、ゼミの女が話しかけてきた」
僕がそう言うと、沙羅はカーテンの向こうで煙草に火をつけた。
「ふうん」
「なんか“気になった”とか言ってさ。意味わかんない」
沙羅は何も言わなかった。ただ、煙だけが部屋に広がっていく。
「……誰も、何も知らないくせに」
沙羅の背中越しに言ったその言葉に、自分でも驚いた。
なぜ、あんなに腹が立ったのか分からなかった。
沙羅は、煙の奥でうっすら笑っていた気がする。
-
翌週、再び結衣に話しかけられた。
場所は大学の購買前。
僕はノートも持たずにうろついていたところで、彼女と鉢合わせた。
「透くんだよね。これ、レジュメのコピー。先生が配っておいてって」
差し出された紙を、僕は一瞥した。
「……別にいらないけど」
「一応、念のため。成績に関係あるって言ってたし」
相変わらず、声は柔らかかった。
敵意も、下心もなかった。
ただ、”何かを確認しようとしている”ような目だった。
僕は仕方なく受け取って、そのままバッグに突っ込んだ。
見もしなかった。レジュメなんて、もうどうでもいい。
「そういえば、クラブ……行ってるって聞いた」
その一言に、体がほんの少しだけ硬直した。
「……誰から?」
「ゼミの子。なんか、最近よく遊んでるって噂になってて」
僕は口を開かずに彼女を睨んだ。
彼女はそれにも動じず、少しだけ視線を逸らして言った。
「……私、心配してるだけ。別に、止めたいとかじゃないよ」
心配。
ああ、またその言葉だ。
勝手に測って、勝手に判断して、勝手に心配する。
彼女の瞳は澄んでいた。だからこそ、不快だった。
なぜ、そんな顔ができるんだ。
なぜ、僕の知らない“正しさ”の中で、君は生きているんだ。
──沙羅なら、そんな目はしなかった。
その夜、誰かのマンションで開かれたパーティにいた。
スピーカーから音が溢れ、リビングには知らない奴らが転がっていた。
誰が主催かも知らない。ただ、沙羅がいると聞いて、僕は来た。
彼女は薄いシャツだけを羽織って、キッチンにいた。
ワインのボトルを片手に、僕を見てふっと笑った。
「ねえ、さっきの子……見てたよ。遠くから」
最初は意味がわからなかった。
「……誰?」
「透のこと見てた。じーって。盗み見るみたいに」
ぞわり、と背筋が冷えた。
冗談じゃない。何で、あいつが。
何のつもりで、僕を――沙羅を――見てるんだ。
「ねえ、透は……その子のこと、どう思ってるの?」
沙羅が聞いた。軽い声だったが、どこか突き刺さるものがあった。
「興味ない」
「ふうん、じゃあ、いいよ」
それだけ言って、沙羅は僕の首に腕を回した。
冷えた指先が、首筋に触れる。
「私のことだけ、見てればいいんだよ」
その言葉は、確かに甘くて、そしてどこか、強い毒を含んでいた。
***
沙羅は、いつも唐突に現れた。
約束をしていたわけじゃない。連絡手段もなかった。
だけど、僕が夜の街を彷徨えば、どこかに彼女がいた。
ドアの向こう、照明の落ちたフロア、誰かの部屋の壁にもたれて。
会おうと決めたとき、彼女はそこにいた。まるで僕を待っていたかのように。
その日も、そうだった。
クラブの地下フロアで煙草の匂いに酔いながら、奥へ奥へと進む。
ベース音が皮膚に貼りつくような騒音のなか、ふとブースの隙間に、見慣れた白いスニーカーが見えた。
彼女だった。沙羅は壁に背を預け、カウンターの空きグラスを手に持っていた。
僕が声をかける前に、彼女の視線がこちらを向いた。
「来ると思ってた」
その言葉に違和感はなかった。
だけど――どうして、分かったんだろう。僕は、ここに来るなんて言ってないのに。
そして、あの夜を境に、奇妙なことが続いた。
***
その夜、クラブからの帰り道。
沙羅と歩いたはずの道が、妙に静かだった。
こんなにも無人だっただろうか。
さっきまでの騒がしさが嘘のように、店の明かりはすべて落ちていた。
タクシーも来ない。
自販機の明かりさえ、どこか薄暗く感じた。
気づけば、僕と沙羅以外に、誰の姿も見えなかった。
「……沙羅、さっきさ。クラブの奥で話してた子いたじゃん? なんか、見覚えある気がしたんだけど」
彼女は、何も答えなかった。
「高校の時の同級生に、ちょっと似ててさ……いや、違うか。……ん?」
横を見た。
沙羅の姿が、なかった。
走って戻った。
来た道を、辿った。
でも、彼女の姿はなかった。
影すら残っていなかった。
***
翌朝。目が覚めると、知らない天井があった。
カーテンが揺れていた。
体は、床に転がっていた。
頬に触れるカーペットのざらつきが、やけにリアルだった。
立ち上がると、部屋は誰もいなかった。
薄暗いワンルーム。
散らかった空き缶と、冷めたピザ。
空になった錠剤のシート。
何の部屋だったのか、思い出せない。
スマホを見た。
未読のLINEが山ほど溜まっていた。
母からのメッセージ。
ゼミのグループ通知。
知らない番号からの着信履歴。
けれど、沙羅からは何もなかった。
夜、またあのクラブに行ってみた。
いつものように音の波が階段を伝ってくる。中では誰かが踊っていて、喉に刺さるようなアルコールと汗の匂いが漂っていた。
なのに、僕の居場所はどこにもなかった。
バーカウンターも、奥のブースも、どこにも沙羅はいなかった。
彼女がいた痕跡もない。誰に聞いても「そんな女、知らない」と言われた。
ここが間違っているのか、僕が間違っているのか。
それすらも、分からなくなっていく。
その帰り道、マンションの裏手で座り込んでいると、スマホが鳴った。
知らない番号だった。
出ると、女の声がした。
「……真木くん?」
高嶋の声だった。
「……誰?」
「高嶋です。ゼミの。……ちょっと話せる?」
また、あいつか。
でも、声のトーンがいつもと違った。
焦っているような、どこか怯えているような。
僕の中の警報機が、鈍く鳴った。
最初はただの気のせいだと思っていた。
道を歩いていると、誰かの視線を感じることがあった。
後ろを振り返っても、誰もいなかった。
けれど、またしばらく歩くと、何かが背後に張り付いているような気がして、何度も振り返った。
それは日を追うごとに頻度を増し、確信に変わっていった。
何かがおかしい。
何かが、僕を見ている。
――そして、あの日。
高嶋からの電話で、それがすべて繋がった。
***
「どうしたの」
喫茶店の端。夕方。
彼女はガラス窓の外ばかりを見ていた。
何かに怯えているようだった。
その姿を見て、少しだけ愉快になった。
「最近、どこで誰と遊んでる?」
唐突な質問だった。
「……誰とでもないけど」
嘘だった。沙羅と会っていた。毎晩のように。
それを言う必要はなかった。言いたくもなかった。
「……この前、見たの。大学の裏の道で。誰かと歩いてるの。……あれって、女の子?」
声のトーンは変わらなかったが、何かを抑え込むような圧を感じた。
「見てたのかよ」
自然と、声が尖った。
どうして、こいつは。
どうして、僕の後をつけるような真似をする。
「……ごめん。偶然。たまたま通りかかって……でも、」
「でも?」
「その人、すごく、様子が変だった」
その言葉が、頭の中で反響した。
“様子が変だった”?
何がだ。何を見た。
「なあ……お前、俺のこと監視してんのか?」
気づけば、そう言っていた。
彼女の目が大きく見開かれる。
怯えた小動物みたいに。
「そんなつもりじゃ……!」
「じゃあなんだよ。勝手に話しかけてきて、勝手にゼミの話持ち出して、今度は俺の交友関係までチェックして。気持ち悪いんだけど」
周囲の視線が刺さるのが分かった。
それでも、止められなかった。
「もう、話しかけないで」
そう言って立ち上がり、金も払わずに店を出た。
彼女が、何か言おうとした気配があった。
けれど、もう振り返る気にはなれなかった。
夜。沙羅のいる部屋。
カーテン越しに見える月が、白く濁っていた。
「また、会ったの? あの子に」
「会ってない」
「ふーん……嘘、ついてる目だよ」
沙羅は笑った。
でも、その声は、どこか冷たかった。
「……あの子、邪魔?」
「……うん」
「消す?」
その一言に、血の温度が落ちた。
沙羅は、煙草に火をつけながら、まっすぐ僕を見ていた。
僕は笑った。
「……冗談、だろ?」
けれど、沙羅は笑わなかった。
***
数日後。
駅のロータリーで、また高嶋に声をかけられた。
無視しようと思った。けれど、彼女は真正面から僕を遮った。
「……お願い。少しだけ、時間くれない?」
表情は切迫していた。
あのとき、喫茶店で見せた怯えとは違う。
もっと深い、諦めに近いものを湛えていた。
嫌な予感がした。
でも、それ以上に――“見せてやろう”という感情が湧いた。
沙羅のことを。
お前には絶対に届かない、俺だけの世界を。
「……いいよ。少しだけな」
連れて行かれたのは、大学の裏手にある空き教室だった。
誰も使っていない研究室のようで、薄暗く、冷たい空気が漂っていた。
「ここで話すことじゃないのかも、って思ってたけど……他に場所、思いつかなくて」
彼女はバッグから一枚の紙を取り出した。
コピーされた、何かの資料。
見慣れないロゴと、化学式。
タイトルには“成分不明の化合物に関する調査報告”と書かれていた。
「……何、これ」
「この前、友達が倒れたの。クラブで。……その子が持ってたのが、これ」
僕の指先が震えた。
どこかで、見たことがあった。
でも思い出せなかった。いや、思い出したくなかった。
「……真木くん。あなた、何か使ってない?」
その一言で、すべての音が止まった気がした。
「……は?」
「ほんとに、心配してるだけ。別に責めたいわけじゃなくて……でも、もし何か使ってるなら、今すぐやめた方がいい。あなた、最近おかしいよ。見てて分かる」
まただ。
また、“心配”だ。
また、“分かる”だ。
お前に、何が分かる。
「……誰が、何を使ってるって?」
低い声が出た。
思ってもいなかったような、鋭さを帯びて。
「ごめん……でも、本当に、沙羅っていう人が……」
次の言葉は聞き取れなかった。
彼女の口が“存在してない”と動いた気がした。
---気づけば、僕は彼女の肩を強く掴んでいた。
冷たい視線を向け、言った。
「もう二度と、沙羅の名前を出すな」
高嶋は、しばらく固まったまま僕を見つめていた。
その目は、もう哀れみでも、恐れでもなかった。
ただの――諦め。
それが、なぜか一番、僕を逆上させた。
「いいよ。もう話しかけない。……何かあったら、通報するだけだから」
その言葉を最後に、彼女は教室を出ていった。
後ろ姿を見送って、僕は舌打ちした。
「勝手にしろよ……馬鹿が」
***
その夜、また沙羅に会った。
どこかの誰かの部屋。
壁には見慣れたアートポスター、灰皿には吸いかけの煙草。
沙羅は、僕の太ももに頭をのせて、くすくすと笑っていた。
「また、あの子に会ったんでしょ?」
何も答えない僕を見て、彼女は目を細めた。
「……ねえ。そろそろ決めよっか」
「……何を」
「邪魔者の始末」
その声が、やけに優しかった。
***
夜の街は、いつもより静かだった。
金曜日のはずなのに、人も車も少なかった。
灯りがやけに遠くに見えた。
すべてが、夢の中のようだった。
沙羅と、最後に会ったのは――あの部屋だった。
クラブの裏手。どこかの誰かの部屋。名前も顔も知らない、ただ暗くて狭い、あの部屋。
彼女はベッドの上で笑っていた。
頬がこけて、唇が乾いていた。
「……寒い?」
僕が訊くと、沙羅はかすかに首を振った。
「大丈夫。……透がいるから」
その声が、どこか壊れかけのスピーカーみたいに聞こえた。
音が歪んで、声が二重に響いた。
僕は頷いた。何も疑問に思わなかった。
いや、もう何も考える力がなかった。
沙羅の髪に指を這わせながら、僕はぼんやりと思った。
この人は、僕のことを見てくれている。
僕を必要としてくれている。
他の誰でもない、僕だけを。
……それだけで、良かった。
世界なんて、どうでもよかった。
***
その夜。
僕は、玄関に立つ人影に気づいた。
ドアのチェーン越しに、目が合った。
高嶋だった。
あの目を、僕は忘れない。
泣いていた。
けれど、それ以上に、怯えていた。
「お願い、話だけでも――」
「帰れ」
「警察じゃない。……ただ、あなたの家族が、心配してるの」
その言葉で、僕の中の何かが切れた。
「うるさい……なんでお前が……!」
怒鳴りながら、僕は玄関のドアを強く閉めた。
その音が、自分の鼓膜にも痛かった。
もういい。
誰も要らない。
沙羅だけいれば、僕は――
***
部屋に戻ると、そこに誰もいなかった。
さっきまでいたはずの沙羅が、いなかった。
床に、服が落ちていた。
壁に掛けたままのバッグ。
半分吸った煙草。
――おかしい。
――こんなはずじゃない。
僕は部屋中を探した。
トイレも、風呂も、ベランダも。
だけど、彼女はいなかった。
「……沙羅……?」
名前を呼んだ。返事はなかった。
そして、視界が、滲んだ。
あまりに自然に、涙が落ちた。
誰もいなかった。
最初から、ずっと。
***
夜明け前。
僕は、高嶋のマンションの前に立っていた。
気づけば足が動いていた。
頭は熱くて、指先が冷たかった。
ポケットの中で、カッターの柄が汗で滑っていた。
ドアの前に立つと、足音が近づいてきた。
チェーン越しに声がした。
「……誰?」
僕は、名乗らなかった。
ただ息を殺して、ドアノブを握った。
「……透くん?」
彼女は気づいた。
だが遅すぎた。
バン、と扉がぶつかる音。
チェーンが軋む。
何度も、何度も。
高嶋が叫ぶ声が、遠くに聞こえた。
頭の奥で、誰かが笑っていた。
----------------
----------------
気がついたら、彼女は床に倒れていた。
手には、血のついたカッターが握られていた。
僕の手なのに、自分のものじゃないみたいだった。
高嶋は、まだ微かに動いていた。
何か言おうとしていた。
けれど、その声は、僕には届かなかった。
――ざまあみろ。
――これで、邪魔は消えた。
そう思った。
そう、思いたかった。
だけど。
その瞬間、部屋の中に、沙羅がいた。
僕の全てを捧げられる笑顔で。
愛おしい声で
彼女は言った。
「--ありがとう、透」
***
「おはよう、沙羅」
彼女は、いつもの白いワンピースを着ている。
光に透ける髪が、僕の指の間で揺れる。
肌は冷たくて、心地いい。
「ねえ、今日も2人で一緒にいよう」
「……うん」
返事は、いつだって優しい。
この世界には、もう邪魔者なんていない。
誰にも文句を言われない。
誰も、僕を咎めない。
ここは、僕と沙羅だけの部屋。
***
部屋の外では、看護師が誰かと話していた。
「最近は落ち着いてるみたいですね」
「ええ。ただ、誰もいない方向に話しかけるのは……まだ、続いてます」
「『天井沙羅』……でしたっけ?」
「ええ。架空の存在。事件の報道ではその名は一切出ていませんが……本人の中では、今も“彼女”が生きているようです」
扉の向こうの声が、だんだん遠ざかる。
⸻
「ねえ、沙羅」
「なあに?」
「ずっと、ここにいてくれる?」
「……うん。どこにも行かないよ」
⸻
僕は、彼女の手を握る。
冷たい、けど確かにここにある手。
それが、僕のすべて。
⸻
ここが地獄か天国かなんて、関係ない。
この世界で、ようやく僕は愛された。
誰にも邪魔されず、
誰にも否定されず、
ようやく、“生きている”と、思えた。
⸻
だから。
これで、よかったんだ。