第64話 覚悟
渾身の力を込めた俺の掌底――『強撃衝』は、確かにダラゴラスの胸元を捉えた。
未来の自分から一ヶ月と1週間分もの力をかけ合わせた全身全霊の一撃。
ズンッ、と。
腹の底に響くような、鈍い衝撃音。
確かな手応え。硬質ながらも沈み込むような感触。
ダラゴラスの身体が、僅かながらも後方へよろめいたのを、俺の目は確かに捉えていた。
だが、
「――面白い」
よろめいたダラゴラスの身体が、次の瞬間にはピタリと静止し、その貌には先ほどまでの愉悦とは異なる、どこか獰猛な、しかし底知れない余裕を湛えた笑みが浮かんでいた。
漆黒の長剣を握る手に力が込められ、周囲の空気がビリビリと震えるような、圧倒的なプレッシャーが再び俺たちに襲いかかる。
まるで俺の一撃などなかったかのように。
掠り傷と呼ぶことすらおこがましいほどに。
龍人という存在、そして『セレスティアル・サーガⅡ』のラスボスたる彼の強大さは、俺の想像を、そして『前借』で得た力すらも遥かに凌駕していた。
「……お、おい、嘘だろ……」
背後から聞こえたのは、ランドのかすれた、絶望に染まった声だった。
彼もまた、目の前で繰り広げられた圧倒的な力の差を、そして俺の渾身の一撃がいとも容易く受け止められた現実を、信じられない思いで見つめているのだろう。
「はぁ……っ、はぁ……!」
俺の荒い息遣いだけが、不気味な静寂に包まれた森に虚しく響く。
あれは間違いなく最高の一撃だった。
一ヶ月と一週間分の力を『前借』し、その全てを叩き込んだ一撃。それでも、この男には――ダラゴラスには届かない。
「見事な一撃だったぞ、少年」
ダラゴラスは、その龍人の貌に浮かべた獰猛な笑みをさらに深め、まるで子供の遊びに付き合っているかのように、楽しげに言った。
「その歳で、それだけの力を瞬間的に引き出し、的確に叩き込む。並の相手であれば、今の一撃で塵芥と化していただろう」
彼の声には、紛れもない称賛の色が込められていた。
だが、それと同時に、俺の攻撃が彼にとって何ら脅威ではなかったという、絶対的な自信と余裕が滲み出ている。
「……はは、マジかよ……」
もはや笑うしかない。
人の身では決して届かぬ、絶対的な壁。
それが、今、俺の目の前に絶望という名の姿で顕現していた。
「では褒美だ、真の技というものを見せてやろう」
ダラゴラスの爬虫類を思わせる黄金の瞳が、まるで融けた金のようにギラリと光を放った。
彼は僅かに腰を落とし、右の拳を握りしめる。
「――まさか」
目の前の龍人――ダラゴラスが取った構え。
それは、まさにいま俺がつい先程放った『強撃』の型と、寸分違わぬものだった。
いや、違う。
構えそのものは同じでも、そこから放たれるプレッシャー、凝縮された力の密度は、俺のそれとは比較にすらならない。
「少年も構えると良い、君の技で私の技を相殺せしめたらなら、見逃してやらんでもない」
その提案は彼にとって遊び、一興なのだろう。
しかし試してみるまでもない。
相殺? 馬鹿を言え。
全力の一撃を胸元に叩き込んでもケロッとしているような奴だ。
そんな奴の一撃と、今の俺が同じ技で渡り合えるはずがない。
それは、紛れもない死の宣告だ。
だが、やらないこともまた死を意味する。
「……分かった」
俺の声は、自分でも驚くほど乾いて、そしてどこか遠くに聞こえた。
絶望的な戦力差。分かりきっている結末。
それでも、ここで膝を屈するわけにはいかない。俺の背後には、ソフィアとランドがいる。そして、まだ意識を取り戻さないガルドさんも。
俺はゆっくりと右拳を握りしめ、ダラゴラスと同じように『強撃』の構えを取る。
身体の奥底に残る『前借』の力は、まだ残っている。
「無茶です!」
ソフィアの悲痛な声が背後から聞こえた。
彼女の黄金色の右目が、俺とダラゴラスの絶望的なまでの力の差を、正確に捉えているのだろう。
「分かってる」
俺の声は、自分でも驚くほど乾いて、そしてどこか遠くに聞こえた。
絶望的な戦力差。分かりきっている結末。
でもやらなければならない。
「――いくぞ、ダラゴラスッ!!」
腹の底から絞り出した雄叫びと共に、俺は大地を蹴った。
右拳に、ありったけの力と、この理不尽な運命への怒り、そして仲間たちを守りたいという切なる願いを込める。
踏み込み、腰の回転、体重移動。ガルドさんから叩き込まれた基礎。そして、『前借』によって極限まで高められた身体能力。
その全てが、一点に収束していく。
対するダラゴラスもまた、その龍人の貌に浮かべた獰猛な笑みを崩さず、静かに、しかし圧倒的なプレッシャーを放ちながら、右の拳を俺へと向けていた。
時間が、引き伸ばされたかのようにゆっくりと流れる。
互いの拳が、空気を切り裂き、衝突の瞬間へと迫っていく。
「強撃ッ!!」
俺の叫び。
そして、
「――崩撃」
死の宣告だった。
俺が放った『強撃』とは明らかに次元の異なる、絶対的な破壊の意志を宿した言霊。
拳が迫る。
もはや止めることはできない。
死を覚悟した。ソフィアやランド、ガルドさんの顔が脳裏をよぎる。
こんな結末は、あまりにも――。
「――うおおおおおおおッ!!」
絶望的な衝突の瞬間、俺の横から、まるで猛獣のような咆哮と共に、一つの影が飛び込んできた。
赤髪。ランド・ガリオンだ。
彼は雄叫びを上げながら、俺とダラゴラスの拳がまさに激突せんとする、その僅かな一点へと、捨て身の覚悟で『何か』を勢いよく投げ込んだ。
それは、俺がラーム村を発つ前に彼に託した、あの古びた木彫りの――『魔除けの護符』。
投げ込まれた護符が、俺の『強撃』とダラゴラスの『崩撃』、二つの圧倒的な力の奔流に挟まれ、衝突する――その瞬間。
――キィィィィィンッ!!
耳をつんざくような甲高い金属音とは異なる、もっと純粋な、しかし鼓膜を破らんばかりの衝撃音が炸裂した。
同時に、護符から眩いばかりの黄金色の光が迸り、俺とダラゴラス、そしてランドの視界を白く染め上げる。
「ぐっ……!?」
「む……」
俺とダラゴラスの声が重なる。
黄金色の光は一瞬にして爆発的な衝撃波へと変わり、俺とランドの身体を木の葉のように軽々と吹き飛ばした。ダラゴラスもまた、その巨体を僅かに後退させ、漆黒の長剣を咄嗟に顔の前に構えて衝撃に備えている。
「けほっ、ごほっ!」
地面に叩きつけられ、肺から空気が無理やり押し出される。
全身を打撲する激痛。視界は明滅し、意識が遠のきかける。
だが、それだけだった。
ダラゴラスの『崩撃』の、肉体を破壊しかねないほどの絶対的な威力は、どこにも感じられない。
ランドが投げ込んだあの護符が、奇跡的にその威力を軽減したのだ。
「……っ、げほ……死ぬか、と……思った……」
隣でランドは、荒い息と共に、姿を表す。
その赤い髪は土埃にまみれ、擦り傷がいくつか見えるが、幸いにも大きな怪我はないようだ。
まさかあのような打開策があるとは。決して意図したものではなかったのだろうが、結果として彼の大胆さに救われた。
「……お前にまた助けられてたまるかよ」
土埃に塗れ、肩で荒い息を繰り返しながらも、ランドは憎まれ口を叩いた。
「……ああ、悪かったな。マジで助かった」
それだけ告げ、視線を上げる。
舞い上がっていた土煙がゆっくりと晴れ、森の木立が再びその姿を現す。
周囲には、衝撃波によってへし折られた枝や、抉れた地面が痛々しく広がっていた。あの衝突の凄まじさを物語っている。
そして、その中心に――ダラゴラスは立っていた。
俺とランドを吹き飛ばしたあの爆発的なエネルギーの中心にいながら、彼の龍人の貌には、驚くべきことに傷一つ見当たらない。着ている黒衣のフードが僅かに乱れている程度だ。
「これには少しばかり驚かされたぞ、少年たちよ」
やがて、ダラゴラスは静かに、しかしその声に抑えきれない興味を滲ませて呟いた。
「よもやそのような切り札を持っていようとは。我が力をも凌ぐとは……古の『魔除け』か」
ダラゴラスの呟きが、粉塵舞う森の静寂に重く響いた。
彼が浮かべる表情は、怒りでも、屈辱でもない。
むしろ、予期せぬ玩具の新たな一面を発見した子供のような、純粋な好奇と、そしてどこか愉悦の色さえ含んでいた。
「しかし一度きりの奇跡のようだったようだ」
その視線の先には、砕け散った護符の欠片。
ゴブリン襲来の時に俺達を救ったそれは、もはやその役目を終えていた。
「――さて」
ダラゴラスは、砕け散った護符の木片を、まるで珍しい骨董品でも眺めるかのように一瞥すると、その龍人の貌に再びあの底知れない笑みを浮かべた。
「……お前の技は凌いだぞ」
ダラゴラスの目を真っ直ぐ見据え、言うだけ言ってみる。
彼が口にした約束――「私の技を相殺せしめたらなら、見逃してやらんでもない」その言葉を、違えるな、と。
「ふむ、なるほど」
ダラゴラスは、俺の言葉を聞いて、最初は微かに、そしてやがて堪えきれないといった様子で喉を鳴らして笑い始めた。その笑い声は、森の木々を震わせるように重く、そしてどこまでも愉悦に満ちている。
「ククク、面白い提言だが、少年。少し言葉遊びがすぎるようだ」
ダラゴラスの言葉は、森の静寂を切り裂く鋭利な刃のように、俺の鼓膜に突き刺さった。
「私はこう言ったはずだ。『君の技で私の技を相殺せしめたらなら』と」
やはりダメだったか。
というより、そもそも見逃すつもりはないのだろう。
「さて、戯れはここまでだ」
ダラゴラスの口調から、先ほどまでの愉悦の色が消え、代わりに氷のような冷徹さが滲み出る。
「クソッ」
隣でランドが悪態をつく。
「……ランド、ソフィアとガルドさんを頼んでいいか」
そんな俺の提言にランド・ガリオンは、俺の言葉の意味を測りかねるように、その鋭い瞳を戸惑わせている。
「は? お前、何を……」
「俺があいつを倒す」
俺の言葉に、ランドの顔が不振に歪んだ。
そして傍まで寄ってきていたソフィアの顔には驚きの声が浮かぶ。
「アラン様……まさか」
「悪い、ソフィア。後は任せる」
これからのソフィアの苦労を想像し、謝罪を告げる。
「待って下さいっ……!」
俺は、ソフィアの制止の言葉を待たずに、再びダラゴラスへと向き直った。
「ふむ、何をする気だ少年? これ以上の奥の手があるとでも?」
ダラゴラスの声は、もはや嘲笑すら含まない、純粋な好奇。
あるいは、死を目前にした小動物が見せる最後の抵抗を観察するような、冷徹な観察者のそれに近かった。
「奥の手か……」
俺は呟く。
今の状況はレベル1でラスボスに挑むようなもの。
攻略、バグ技、全てを踏まえても、本作においてそれを覆すことのできる手段は存在しない。
だがそれでも奥の手はある。
「――前借ッ!!」
叫ぶ。
「契約――俺の、十年だッ!!」
これが悪役貴族アラン・フォルテスの奥の手だ。




