第63話 圧倒的な力
「ごめん、ソフィア」
俺は一言隣に立つソフィアに謝罪の言葉を告げる。
こうなったのは俺のせいだ。そしてそれに巻き込まれることになったソフィアとランド、そしてガルドさんには申し訳が立たない。
ソフィアならもう少し穏便にことを運べただろうか。
「いえ……元より見逃すつもりはなかったはずです」
ソフィアの声は、震えを押し殺したように静かだった。
彼女の黄金色の右目は、目の前の龍人――ダラゴラスの姿を捉えたまま、一切の動揺も見せまいと固く閉じられている。だが、その白い指先からは震えが隠しきれていない。
「……ちなみに勝てると思うか?」
ほぼ分かりきっている問いをソフィアに投げる。
果たして彼女の天眼は彼をどう見ているのだろうか。
ソフィアは一度、ごくりと息を呑み、そしてゆっくりと俺へと視線を向けた。
その黄金色の瞳には、今までに見たことのないほどの深い絶望と、それでもなお燃え尽きない闘志の残滓のようなものが揺らめいていた。
「……私の『天眼』が捉える情報は、あまりにも……絶望的です。彼の魔力、身体能力、そして何よりその存在そのものが、私たちがこれまで対峙してきたどんな魔物とも比較になりません」
ソフィアの声は、まるで深淵を覗き込んだかのように、暗く、重い響きを帯びていた。
「まあ、そうだよな」
ソフィアの絶望的な分析は、俺が薄々感じていた現実を、容赦なく突きつけるものだった。
ゲームのラスボス級。今の俺たちが、どう足掻こうと勝てる相手ではない。
『前借』で力を得たところで、焼け石に水、いや、大海の一滴にすらならないだろう。
だが――。
「それでも、やるしかない」
俺は、ソフィアの震える肩にそっと手を置いた。
彼女の黄金色の瞳が、驚いたように俺を見上げる。その瞳の奥には、まだ深い絶望の色が宿っているが、同時に、俺の言葉に対する僅かな問いかけのようなものも感じられた。
「俺の知る『物語』でも、こいつはとんでもなく強かった。何度も何度も、あと一歩のところで打ちのめされて……それでも、最後には」
ゲームの主人公たちは、決して諦めなかった。
絶望的な戦力差、仲間たちの犠牲、それでも彼らは立ち上がり、未来を掴み取った。
もちろん俺は、主人公じゃない。
むしろ、本来なら最初に脱落する悪役だ。
だが、今の俺には、ソフィアがいる。ガルドさんがいる。そして、ランドだっている。
「……アラン様」
ソフィアの声から、震えが少しだけ消えていた。
俺の言葉が、彼女の心の奥底に眠っていた闘志の火種に、ほんの少しだけ酸素を送り込んだのかもしれない。
「そうですね……貴方を信じると決めたのですから、最後まで付き合います」
ソフィアは、震えを押し殺した声で、しかし確かな意志を込めて言った。その黄金色の瞳には、絶望を乗り越えようとする強い光が再び宿り始めている。
「――さて、相談は終わりかな?」
ダラゴラスの、嘲るような、しかしどこか楽しげな声が、俺たちの覚悟を打ち砕くように響き渡った。
漆黒の長剣が、まるで生きているかのように、彼の手に吸い付いている。その切っ先が、ゆっくりと俺たちへと向けられた。
俺はソフィアの前に立つ。
「指示は頼んだ」
そう一言告げ、ダラゴラスを睨みつけた。
漲る力は、まだ俺の身体に宿っている。
ソフィアの天眼とこの力がある限り、可能性は決してゼロではない。
「……分かりました。ご武運を」
ソフィアは諦観と希望が入り混じったような声で答えた。
次の瞬間、俺は大地を蹴っていた。
恐らく今の俺には一週間分の『前借』の力がある。
返済状態での借入はやったことなかったが、どうやら先に返済に当てられ、残った分が与えられるようだ。
こんな危機的状況でもなければ恐ろしくて実験もできなかった。
さて、狙うは、ダラゴラスの懐。一撃でもいい、あの顔に一発叩き込む!
「――甘いな」
俺の動きは、ダラゴラスにとって赤子の手をひねるようなものだったのだろう。
漆黒の長剣が、まるで意思を持ったかのように滑らかな軌跡を描き、俺の右肩を的確に捉えようとする。
「右です!」
ソフィアの鋭い警告が飛ぶ。
俺は咄嗟に身を翻し、長剣の切っ先を紙一重で回避する。頬を掠める風圧だけで、肌が粟立つ。
一瞬の隙。
俺は無理やり体勢を立て直し、ダラゴラスの脇腹目掛けて拳を叩き込もうとする。だが、それよりも早く、彼の空いていた左手が、まるで鉄の万力のように俺の腕を掴んだ。
「ぐっ……!?」
凄まじい握力。骨が軋む音が聞こえる。
『前借』で強化されたはずの俺の力が、いとも簡単に封じ込められた。
「――奔流する青の飛沫、万物を映す水の鏡、形なきより形を成す潮の力よ、吾が掌に集いて渦巻け、水球!」
ソフィアの詠唱が完了し、圧縮された水の塊がダラゴラスへと放たれる。
しかし、ダラゴラスは水球を一瞥だにせず、迫りくるそれを左手で、まるで邪魔な虫でも払うかのように、いとも簡単に弾き飛ばした。水球はあらぬ方向へと飛び、木立に激突して霧散する。
「なっ……!?」
ソフィアの顔に驚愕の色が浮かぶ。詠唱を伴う魔法を、素手で、しかも何のダメージも受けずに弾くなど、常識では考えられない。
その一瞬の隙を、ダラゴラスが見逃すはずもなかった。
彼の姿が陽炎のように揺らめいたかと思うと、俺の目の前から消え、次の瞬間にはソフィアの背後に回り込んでいた。
「――やはり、その瞳から頂いておくべきか」
ダラゴラスの冷徹な声が、ソフィアの背後から響いた。
ダラゴラスの冷徹な声が、ソフィアの背後から響いた。
漆黒の長剣が、ソフィアの黄金色に輝く右目を抉らんと、無慈悲な軌道を描く。
「ソフィアッ!」
すぐさま体勢を翻し、ソフィアの元へ駆け出す。
しかし――間に合わない!
ダラゴラスの漆黒の長剣が、ソフィアの黄金色の右目を抉らんと迫る。
間に合わない――その絶望的な認識が、俺の脳裏を灼き尽くす。
ダメだ、止めてくれ、それだけは……!
「――前借ッ!」
絶対に助ける。
絶対に守る。
何でも良いから、力を寄越せ!
「契約、一ヶ月!」
叫びと同時に、俺の身体を先ほどとは比較にならないほどの激流が貫いた。
脳髄が沸騰し、全身の血管が破裂しそうなほどの圧倒的なエネルギー。視界は白く染まり、あらゆる感覚が極限まで研ぎ澄まされる。
一ヶ月分の「前借」を上乗せ――合計一ヶ月と一週間分。
今の俺は、本来の自分では決して到達し得ない、遥か高みの力を手にしている。
代償など、今は知ったことか。
思考するよりも早く、俺の身体は動いていた。
ダラゴラスの漆黒の長剣がソフィアの右目を抉る――その刹那、俺は二人の間に滑り込み、ソフィアの身体を突き飛ばしていた。
ドスッ、という鈍い音と共に、俺の左肩に凄まじい衝撃が走る。
「――アラン様っ!」
ソフィアの悲鳴に近い声が、激痛に霞む俺の鼓膜を震わせた。
左肩に突き刺さったダラゴラスの剣は、骨を砕き、肉を抉るような、生々しい熱と痛みを俺の全身へと送り込んでくる。
血飛沫が舞い、視界が赤く染まったような錯覚。
「……ぐ……ぅ……っ!」
奥歯を噛み締め、溢れ出しそうになる絶叫を無理やり飲み込む。
「――ふむ」
目の前の龍人――ダラゴラスが、その爬虫類を思わせる黄金の瞳を愉悦に細め、俺の顔を覗き込むように呟いた。
その声は、地獄の底から響いてくるかのように重く、そして俺の覚悟すらも弄ぶかのような、絶対者の余裕に満ちている。
「仲間を庇い、自ら死地に飛び込むか。先ほどは犠牲は好まないという話ではなかったか、少年?」
ダラゴラスの爬虫類を思わせる黄金の瞳が、愉悦の色を湛えて俺を見下ろす。
「うる、せえっ」
血反吐と共に、俺の口から絞り出されたのは、怒りと、そしてほとんど反射的な拒絶の言葉だった。
左肩に突き刺さった漆黒の長剣が、まるで生きているかのように脈動し、俺の生命力そのものを吸い上げているかのような錯覚に陥る。
――ああ、そうだった。
これは『魂喰らいの魔剣』。
斬りつけた相手の体力を奪い、自身の力へと変える呪われた魔剣だ。
このまま切り結んでしまえば、ただでさえ歴然な力の差が更に開くことになってしまう。
――だが、強力であるがゆえに弱点もあった。それはすなわち。
「――空白を満たす光の欠片よ吾が意思に従い形を成せ――光球」
俺の呟いた詠唱と共に光が弾ける。
「む」
ダラゴラスは怪訝な表情をして剣を見る。
同時に、俺の左肩を苛んでいた、生命力を吸い上げるような不快な感覚和らいだ。
やはりその仕様もゲームのままだった。
『魂喰らいの魔剣』は、呪われた武器というカテゴリーにあるものだ。
そのカテゴリーにある武器はどれもが強力な力を持つが、それと同時に光や聖なる力に触れると暴走するという明確な弱点があった。
ここで言う暴走とは、力の反転。
本来敵の力を奪うはずの剣が、持ち主である力を奪う剣に変わることを意味している。
「――面白い」
ダラゴラスは嗤った。
彼にとっては些細なこと。
想定外のことが起きて、純粋に楽しんでいるのだろう。
だがその油断こそが好機。
俺は奴の動きが鈍ったその隙を逃すことなく、全力で懐に入り込んだ。
左肩の激痛は無視する。今、俺の身体は「前借」の力で限界を超えている。この一瞬に全てを賭ける!
「ダラゴラスゥッ!」
右拳に、ありったけの力と、この理不尽な運命への怒りを込める。
狙うはただ一点、ダラゴラスの胸元。
「強撃――衝!!」




