第60話 導く者
「――契約、一週間!」
未来の自分から、一週間分の力を「前借」する――その言葉をトリガーとした瞬間、俺の身体を凄まじい奔流が駆け巡った。
視界が、世界が、一変する。
周囲の音、空気の流れ、地面の僅かな凹凸、迫りくるゴブリンたちの筋肉の動き、その濁った瞳に宿る殺意と飢餓感――その全てが、まるでスローモーションのように、しかし恐ろしいほど鮮明に、俺の感覚器官へと叩きつけられた。
これが、天恵『前借』。未来の自分から借り受けた、本来の俺では到底到達し得ない領域の力。
「は、ははは……」
漲る全能感に思わず笑みが溢れる。
十五分の時と比べ物にならないほど力を感じる。
しかもたった一週間分でこれだ。
以前の戦闘時のことは必死だったからあまり覚えていないが、きっと今よりも絶大な力を有していたのだろう。
つまり、まだまだ上がある。
代償を考えると無闇やたらに使うことは憚られるが、果たしてその時の俺はどうなってしまうのだろうか。
「――よし」
俺は目の前のゴブリンたちに意識を集中させる。
計四体のゴブリン。
以前の俺なら絶望を感じていたところだろう。
先頭の一体が、錆びた棍棒を振りかざし、奇声を上げながら突進してくる。
緩慢だ。
あまりにも遅く、そして単調な攻撃。
――左からの大振りの一撃。
俺は軽く半身をずらすだけで、その棍棒を紙一重で回避する。
風圧すら感じない。
「まずは、お前からだ」
がら空きになった胴体へ、寸分の狂いもなく右拳を叩き込む。
技の名を叫ぶまでもない。ただ、純粋な力と速度、そして最適化された身体操作。
ゴッ、と鈍い音が響き、ゴブリンの身体が「く」の字に折れ曲がる。
そのまま数メートル後方へと吹き飛び、一度も地面に落ちることなく、黒い粒子となって霧散した。
魔石だけが、コトリと虚しく地面に転がる。
「……はは」
あまりのあっけなさに、再び乾いた笑いが漏れた。
これが、今の俺の力。
これが、『前借』の、ほんの一端。
「――ふう」
高揚感を落ち着けるべく一息入れる。
満足している場合じゃない。
この力は借りる時間も大事だが、行使する時間も重要なのだ。
「ギ、ギギッ!?」
残る三体のゴブリンが、仲間の瞬殺を目の当たりにし、明らかに怯んだ様子を見せる。
その濁った瞳に、先ほどまでの飢餓感に代わって、原始的な恐怖の色が浮かんでいた。
「逃がすか」
俺は大地を蹴った。
狙いは、怯えからか僅かに後退しようとした中央のゴブリン。
踏み込み、沈み込み、そして拳打。
「――強撃ッ!」
短く、鋭い気合と共に放たれた掌は、ゴブリンの胸部を的確に捉えた。
バキンッ、という骨が砕ける嫌な音。
ゴブリンは悲鳴を上げる間もなく、背後の木立へと叩きつけられ、そのまま黒い霧となって消滅した。
「グギャアアアアア!」
残る二体のゴブリンが、恐怖に駆られたのか、あるいは最後の抵抗か、左右から同時に襲いかかってくる。
一体は錆びた短剣を逆手に持ち、もう一体は棍棒を力任せに振り回す。
捨て身の一撃。
まさしくそれはその言葉が相応しい、死兵の覚悟を宿した攻撃だった。
だが、届かない。
俺の目にはその軌跡がハッキリと見えていた。
「遅い!」
左右から迫りくる二体のゴブリンの動きを、正確に読み切る。
錆びた短剣の突きは、僅かに首を傾けるだけで空を切り、力任せに振り回される棍棒は、一歩踏み込むことでその軌道から完全に外れた。
そして、がら空きになった二体のゴブリンの胴体。
狙いは、その中心点。
右足を軸に、腰を捻り、拳を前に。
何度も何度も反復練習したその型を、最高の状態で突き出した。
「――強撃ッ!」
渾身の力を込めた一撃。
それは、左右から迫る二体のゴブリンの、まさに交錯する一点へと寸分の狂いもなく叩き込まれた。
ドンッ! という腹の底に響くような重い衝撃音と共に、二体のゴブリンの身体が同時に宙を舞う。まるで精密に計算されたかのように、俺の拳は一方のゴブリンの鳩尾を砕き、その勢いのまま、もう一方のゴブリンの脇腹を貫いていた。
一撃で二体。
狙ってやったが、まさか本当に上手くいくとは。
今の俺でもこの結果は上出来と言えよう。
そうして吹き飛ばされた二体のゴブリンは、一度も地面に落ちることなく、空中で黒い粒子となって霧散していく。後に残ったのは、二つの魔石だけが、カラン、と乾いた音を立てて地面に転がった。
「……ふう」
やりきった。
少しはしゃいでしまった感は否めないが、きっちり仕事はやり切ることができた。
さて、後はこの後に来るであろう反動に備えなければ。
思考がそこまで至った瞬間、ドシンと衝撃が走り、目の前の木々が突然開けた。
突然のことに目を凝らす。
「……ダラス、さん?」
砂煙の中に浮かぶ人影を確認し、その名を告げる。
そこには、返り血一つ浴びていない、ダラス・エリオットの姿が確認できた。
その服装にはオークやゴブリンのものと思われる血痕が付着しているが、ダラスさん本人に傷らしきものは見受けられない。
マジか……。
思わず絶句する。
この人は、俺がゴブリン四体倒す間に、オークと数十体のゴブリンを倒したというのか。
「……ほう」
ダラス・エリオットが一つ関心の言葉を呟きながら静かに歩み出てくる。
血まみれのフードから覗く瞳が、俺に向けられているのが何となく分かった。
「見事な手際だな、少年」
ダラスさんからの称賛の言葉。
だが、彼の言葉に素直に喜ぶには、目の前の現実があまりにも規格外すぎた。
「いえ、ダラスさんの方が……」
俺は、言葉を失いながらも何とか返事をする。
特級冒険者――その肩書きが持つ意味の重さを、改めて痛感させられた。
「謙遜することはない、その歳にしてそれだけの力を持つ者はそういないだろう」
相変わらず口調は平坦だが、その言葉は決して社交辞令ではない、純粋な評価として俺の耳に届いた。
「……ありがとうございます」
そう謝意を告げたその瞬間、目の前がぐらりと揺れた。
先程まで感じていた全能感は一気に収束し始め、代わりに、身体の奥底から這い上がってくるような、強烈な虚脱感が広がっていく。
「……まずい」
それは間違いなく『前借』の反動だった。
まだ完全に力が消えない内に、ソフィアたちの元へ――。
「大丈夫か、少年」
体勢を崩した俺を支えたのはダラスさんだった。
ダラスさんは姿勢を低くし、俺の顔を覗き込むような形になる。
そこで初めて俺は彼の顔を間近で見た。
フードで全体こそ見えなかったが、その切れ長の鋭い瞳と、頬に走る三本の傷跡。 それは、彼が潜り抜けてきたであろう数多の修羅場を物語っている。
きっとそこに彼がフードで顔を隠す理由がそこにあるのだろう。
「……随分と無茶をしたようだな」
ダラスは俺の状態をそのまま告げる。
まあ、概ね事実だ。
もう俺の力は風前の灯火、完全に消え失せるまで時間の問題だろう。
――まさか。
だが――この拍動は別だ。
俺の心臓が、嫌というほど激しく脈打つ。
それは、『前借』の反動によるものではない。
目の前の男の顔――特に、その頬に刻まれた三本の傷跡を見た瞬間から、俺の意識の奥底で、何かが激しく警鐘を鳴らしていた。
記憶の奔流が、脳髄を焼き尽くすかのような勢いで蘇る。
「少年?」
目の前の男は、相変わらず平坦な声で俺の状態を尋ねてくる。
しかし俺の視線はその傷跡に釘付けになっていた。
一つ、二つ、三つ。
不規則に、しかし深く刻まれたその傷は、とある人物が、とある儀式によって付けられたものだ。
その人物は『セレスティアル・サーガⅡ 偽りの楽園』にて、幾人か登場する。
しかしここまで圧倒的な力を有する人物といえば、一人しかいない。
「……なんで」
それは、かろうじて俺の唇から絞り出された、絶望と混乱が入り混じった呟きだった。
だってあり得ないからだ。
ここはまだ第一作目すら到達していない時間の世界。
なのになんでこいつがいる?
切れ長の目に三本の傷跡、そして――魔導石。
点と点が線となり、俺の脳裏で最悪の可能性を形作る。
いや、可能性ではない。
これは、確信だった。
目の前にいるこの男は、断じてダラス・エリオットなどではない。
この男こそ、『セレスティアル・サーガⅡ 偽りの楽園』において、世界を混沌の渦に叩き込み、古の神性『混沌』を蘇らせることで、世界を自らの理想郷へと作り変えようとした狂信者。
――真導者ダラゴラス。
その名が、俺の意識の底から、鮮血のように滲み出てきた。
「ふむ……」
男は俺の症状を――否、天恵を探ろうと観察していた。
落ち着け、悟られるな。
今こいつと戦っても勝てるわけがない。
そこへ、
「――アラン様!」
ガルドさんを安全な場所に置いて来たのか、ソフィアとランドが駆け寄ってくる音が聞こえた。
横目でその様子を見て、俺は絶句する。
その瞳には黄金の輝きが灯っていた。
「ソフィア……!」
思わず声を上げる。
ダメだ、こいつを見てはいけない。
名前なんかは重要じゃない。
そんなものよりもっと大事な情報がこいつには隠されているのだ。
だってこいつは、人間、森人、獣人、小人、そして魔人に次ぐ、第六の種。
龍人なのだから。




