第59話 決戦
「――前借ッ!!」
もはや躊躇いはなかった。
心の奥底で、俺は未来の自分自身に、ありったけの力を要求する。
一ヶ月分の昏睡? 上等だ。それ以上の代償だって、仲間たちがここで倒れることに比べれば、何ほどのこともない。
「アラン様ッ!」
俺が何をしようとしているのか察したのだろう。
ソフィアから静止するかのような鋭い声を上げる。
だが、止めるつもりはない。
俺は目を閉じ、あの時の力をイメージする。
身体の奥底から湧き上がる、あの圧倒的な熱量。世界がスローモーションに見えるほどの集中力。そして、あらゆる不可能を可能にするかのような万能感。
――行くぞ。
未だ静止をかけるソフィアを横目に、オークへと踏み込もうとした、まさにその刹那。
ヒュンッ!
鋭い風切り音と共に、一本の短剣がどこからともなく飛来し、オークが振り上げた棍棒を持つ手首の付け根に深々と突き刺さった。
「グギャアアアアアアッ!?」
オークが、今までとは比較にならないほどの絶叫を上げ、棍棒を取り落とす。緑色の巨体がよろめき、苦痛に身を捩らせた。短剣が刺さった箇所からは、黒ずんだ血が勢いよく噴き出している。
「……え?」
俺は、あまりの出来事に、天恵『前借』の発動を寸前で踏みとどまった。
身体に宿りかけた熱量が、行き場を失って霧散していく。
ソフィアも、ランドも、そして苦痛に呻くオークでさえも、短剣が飛んできた方向――森の木々が鬱蒼と茂る、影の濃い一角へと視線を向けていた。
静寂。
オークの荒い息遣いと、風に揺れる木の葉の音だけが聞こえる。
やがて、その木立の影から、一人の男が音もなく姿を現した。
フードを目深に被り、その顔の大部分は影に隠れている。だが、その手には、もう一本、先ほどオークの手首を貫いたものと寸分違わぬ、鈍い銀色の光を放つ短剣が握られていた。
そして、その佇まい、纏う空気は、俺たちにとって見覚えのあるものだった。
「……ダラス、さん……?」
俺の掠れた声が、静まり返った森に小さく響いた。
フードの男――特級冒険者ダラス・エリオットは、俺たちの言葉に応じることなく、ただ静かに、負傷し狂乱するオークを見据えている。その姿は、まるで熟練の狩人が手負いの獲物を観察するかのように、一切の油断も隙もない。
「グ、グルルルル……」
オークは、手首に突き刺さった短剣を引き抜こうと藻掻きながらも、新たな敵の出現に警戒し、低い唸り声を上げている。その濁った瞳は、ダラスの姿を捉え、本能的な恐怖を感じ取っているかのようだ。
「ソフィア、ランド、今のうちにガルドさんを……!」
俺の必死の叫びに、二人は即座に反応した。
ソフィアは既にガルドさんの元へと駆け寄ろうと数歩踏み出している。ランドも、木の棒を握り直し、オークの動向を警戒しつつ、ガルドさんの方へと視線を向けた。
「……チッ、あのフード野郎、何しに来やがった」
ランドは忌々しげに吐き捨てたが、その声には安堵の色も僅かに混じっている。ダラスの登場が、この絶望的な状況を一変させたのは明らかだった。
彼の実力は一度見ているが、その全てを知っているわけではない。しかしオークに遅れを取るようには到底思えない。
安心して……いいはずだ。
「……ダラス様!」
しかしソフィアが再び声を上げる。
その瞳は相変わらず黄金色に輝いており、その視線は、負傷したオークでも、ダラスでもなく、さらに森の奥深く――先ほどオークが飛び出してきた、影が濃密に揺らめく茂みの一点に向けられていた。
「……まだ、います! それも、一体や二体では……!」
ソフィアの声には、今までとは比較にならないほどの焦燥と、そして純粋な戦慄が込められていた。彼女の『天眼』が、森の奥に潜む、さらなる脅威を捉えたのだ。
「何だと……?」
ダラスが、僅かに反応し、視線を森の奥へと向けた。フードの奥の表情は窺えないが、その纏う空気が一瞬にして鋭利なものへと変わったのが分かった。
ガサガサガサッ……!
ソフィアの言葉を裏付けるように、森の奥の茂みが激しく揺れ、そこから次々と、緑色の醜悪な影が姿を現し始めた。
ゴブリン。
一体、二体……いや、十体は下らないであろうゴブリンの群れが、奇声を上げながら、まるで堰を切ったように森の奥から溢れ出してきたのだ。
「嘘だろ……こんな数のゴブリン、どこに隠れてやがったんだ……!」
ランドが絶望に顔を引き攣らせる。
ソフィアも、黄金色の右目を細め、額に冷や汗を浮かべていた。
俺自身も、その圧倒的な数に言葉を失う。ラーム村でのゴブリン襲撃とは比較にならない規模だ。
ゲームであっても一度にエンカウントするのはせいぜい五体程度だった。
こんな数を相手取ることになるなんて想定外だ。
「……嘘だろ」
絶望感が満ちていく。
こんなのどうしたって――
「ふむ……」
この絶望的な状況に、初めてダラスが明確な反応を示した。
フードの奥から漏れたその声は、驚きでも焦りでもなく、どこか関心を持ったような呟きに聞こえる。
「少年」
ダラスの静かな声が、俺の耳に届いた。
フードの奥の瞳が、まっすぐに俺を射抜いているのが分かる。
「ゴブリンを四、五体ほど任せても良いか?」
予想もしない提案が彼から届く。
「……え!? は、はい」
俺の返事は、自分でも驚くほどあっさりと口から出た。
この絶望的な状況で、特級冒険者から戦力として数えられたことへのわずかな高揚感と、同時に、再びあの恐怖と対峙しなければならないという現実感が入り混じる。
だが、ここで「無理だ」と首を振る選択肢は、もはや俺の中にはなかった。
「アラン様!?」
ソフィアが、俺の返答に驚きと制止の声を上げる。彼女の黄金色の瞳には、俺の無謀とも思える決断への焦りと、そしてダラスという男の真意への疑念が浮かんでいた。
「では任せたぞ」
ダラスはアランの返事を待たずに、その姿をまるで陽炎のように揺らめかせると、手負いのオークと、そして森の奥から溢れ出てくるゴブリンの群れ本体へと、音もなく突進していった。
その動きはあまりにも速く、俺は一瞬だけ呆然と見送る。
ただ、銀色の閃光が数条、闇の中で煌めき、ゴブリンたちの断末魔が次々と響き渡るだけだった。
相変わらずデタラメな力だ。
だが、感嘆に浸っている暇はない。
俺たちの目の前には、ダラスが意図的に残していったであろう四体のゴブリンが、涎を垂らしながらじりじりと間合いを詰めてきていた。その濁った瞳は、先ほどまでの混乱から覚め、新たな獲物である俺たちを捉え、飢えた獣のような殺意をぎらつかせている。
「……やるしかない、よな」
俺は、一度だけ強く瞬きをし、目の前の脅威へと意識を集中させた。
ダラスは、俺に「任せた」と言った。それは、この四体のゴブリンを処理できるという信頼か、あるいは試練か。どちらにせよ、ここで無様にやられるわけにはいかない。
「アラン様!」
ソフィアの切羽詰まった声に、俺は力強く頷き返す。
彼女たちは今、負傷したガルドさんを抱え、安全な場所へ退避しようとしている。その間、俺がここで時間を稼がなければならない。
「――よし」
もう出し惜しみしている場合ではない。
今こそ、俺の天恵『前借』の真価を、そして俺自身の覚悟を示す時だ。
「――前借ッ!!」
心の奥底で、ありったけの力を、未来の自分自身へと叫び求める。
「――契約、一週間!」




