第6話 過去を知る者
「お帰りなさいませアラン様、既にアイリス様は応接間へとお通ししております」
玄関に足を踏み入れると、エミリーが深々と頭を下げて出迎えてくれた。
その声は普段より高く、どこか緊張が滲んでいる。
不安が拭いきれないまま、俺はルーカスと共に館の中へと進んだ。
「アイリス嬢と会うは、一年ぶりくらいか?」
「え、そ、そうだったかな?」
ルーカスからの不意の問いには曖昧に答えるしかなかった。
知らないものは知らないのだからしょうがない。
「全くお前は、そんなことだと嫌われるぞ?」
ルーカスが小声で俺を諭す。
その声には多少の呆れが混じってはいるものの、怪しまれてはいなさそうだった。
こういうところは、アランがズボラで良かったと思うばかりである。
「うん、気をつける……」
そんな会話をしながら、応接間への廊下を進んだ。
俺の婚約者はアイリスという名前らしいが、これまた思い当たる節はない。
あんな性格だ。ゲーム開始時点では既に見限られていた、なんて可能性もある。
しかし問題なのは家名の方である。
アイリス・セレスティア。
セレスティアとは、この国の名前だ。
そしてセレスティア王国において王族以外にその名を名乗ることはあり得ない。
つまり、今から会う俺の婚約者というのは、セレスティア王族の娘ということだった。
流石は四公爵フォルテス家。
いくら三男坊といえど、その婚約相手はかなりの格が必要らしい。
――ああ、胃が痛い。
今の俺は期待よりも不安が強かった。
そして応接間の扉の前に着く。
ルーカスは俺の肩に手を置いた。
「アラン、あんまりアイリス嬢を困らせるなよ」
その口調は軽いようで、その表情は真面目なものだった。
フォルテス家の次期当主として、彼なりに責任感を感じているのだろうか。
まあ俺は既に困っているのだが。
「ま、今日のお前なら大丈夫そうだがな」
そう言ってルーカスは俺の背中をぽんと叩いた。
今日のお前なら――その言葉の意味するところは概ね察しがつく。
いつものアランなら問題を起こすに決まっている、ということだろう。
そう考えると、責任感というよりもアランへの監視者としての役割が強いのかもしれない。
ルーカスがドアをノックし、中から「どうぞ」という柔らかな声が返ってくる。
その声を聞いた瞬間、俺の背筋に小さな震えが走った。
「失礼します」
ルーカスが扉を開けると、応接間の中央に置かれたソファに一人の少女が座っていた。
淡い金色の緩やかな髪と、澄んだ青い瞳。
年齢は俺と同じくらいか、少し年上といったところだろうか。
赤と白色を基調とした上質な装いが、その容姿の美しさを引き立てている。
「お久しぶりです、ルーカス様。そして……アラン様」
少女――アイリスは立ち上がり、優雅にカーテシーをした。
その仕草には、高貴な家で育てられた者特有の気品が漂っている。
「……」
対して俺は言葉を失っていた。
それは深い意味でも何でもなく、その眼の前の少女に目を奪われてしまったからである。
流石はゲーム……というのは無粋だろうか。
そう思ってしまうくらいに彼女の容姿はとても整っていた。
「お久しぶりです、アイリスお嬢様。ご機嫌麗しゅうございますか」
ルーカスが丁寧に挨拶を返す。その立ち振る舞いは、さすが騎士としての教育を受けた者のそれだ。
僅かに今の俺よりは年上に見えるが、それでもその立ち振舞には敬意を抱く。
「はい、おかげさまで」
アイリスの視線が私に向けられる。その青い瞳には何かを期待するような、そして何かを警戒するような、複雑な色が混ざり合っていた。
そしてその隣、ルーカスからも未だ沈黙を保つ俺に対し、なにか言いたげな視線を向けてくる。
「……あ、ああ、久しぶり」
精一杯平静を装って出てきた言葉はそれだった。
ありきたりで格式も洗練さもない平凡な挨拶。
単に緊張しているのもあるが、やはり人生経験の有無が大きいのだろう。
顔が熱くなるのを感じる。
しかしアイリスの表情には驚きが走っていた。
その青い瞳が少し大きく見開かれ、一瞬だけ言葉に詰まったように見える。
「あ、はい……お久しぶりです」
彼女は少し戸惑いながらも、すぐに礼儀正しく応える。
しかしその声には、驚きと同時にどこか安堵のような感情が混ざっているようにも聞こえた。
「立ち話も何だし、座ろうか」
場の空気を和らげるように、ルーカスが肩の力を抜いた口調で促す。
アイリスが優雅に腰を下ろすのを見て、俺も慌てて向かいのソファに座った。
「お茶をお持ちしました」
そのタイミングでエミリーが部屋へと訪ねてくる。
さっと湯気の立つ紅茶をテーブルに並べ、香りのいい茶葉の香りが部屋に広がった。
「あ、エミリー。元気そうね」
アイリスが軽い笑みを浮かべエミリーに声をかける。
その様子から、どこか自然な親しみのようなものが感じられた。
「はい、アイリス様もお元気そうで」
エミリーも微笑み返す。
当たり前だが俺への対応とは雲泥の差だ。
「また機会があればどこかでお話しましょう?」
「はい、喜んで」
短い会話ながら、その親しげな雰囲気は十分に伝わった。
昔からの馴染みなのか、俺との繋がりで知り合ったのかは定かではないが、使用人と親しくする様子を見ただけで、彼女はアランとは違うのだと伺える。
そんな彼女がアランと婚約することになったは気の毒だなと、他人事のように思ってしまうのだった。
「じゃあ私も、ここで失礼を」
そう言ったのはルーカスだった。
「え?」
思わず声が漏れる。
どう見ても、俺とアイリスの関係はぎくしゃくしている。
きっとルーカスなら、緩衝材としてこの場にいてくれるものかと思っていたのだ。
「悪いが、ちょっと父上に呼ばれていてな」
耳打ちでルーカスはそう告げた。
「それに今のお前なら大丈夫だ」
そう言い残して、ルーカスは部屋を後にした。
扉が閉まる音と共に、部屋に二人きりになった緊張感が満ちていく。
俺はどう切り出せばいいのか分からず、とりあえず目の前の紅茶に手を伸ばした。
アイリスも同じように紅茶を口元に運び、一口啜る。
「……美味しいお茶ですね」
沈黙を破ったのはアイリスだった。彼女は紅茶を置くと、少し緊張した面持ちで俺を見つめてくる。
「あ、ああ、そうだな……確か、エミリーが良い茶葉が入ったとか言ってたな」
俺は俺で何とか言葉を繋ぐので精一杯だった。視線をどこに向ければ良いのか分からず、カップの中の紅茶を揺らしてしまう。
ただ彼女の立場を考えると、俺から話を振るほうが良いに決まっている。
だが生憎と王族のお嬢様と話せるような話題なんて思い浮かばない。
「ああ、道理で。流石、エミリーです」
そう言ってアイリスは軽く微笑んだ。
「あの……アラン様」
やや沈黙が続いた後、アイリスが静かに名前を呼んだ。
「今日は……いつもと違うようですが、何かあったのでしょうか?」
その言葉に、思わず紅茶を飲みかけていた俺はむせそうになる。
いつもと違う――その指摘は予想していたものの、こんな直接的に言われるとは。
「……違う、か?」
とりあえず平静を装い尋ねてみる。
すると意外にも、アイリスの表情には小さな安堵の色が浮かんだ。
「……そういうところ、ですよ」
普段は会話すらままならない。
彼女はそう言いたいのだろう。
「ああ……なるほど」
それぞれがぎこちなく言葉を交わしていく。
しかしこのままだと埒が明かないのも事実だった。
「ちょっと、自分の行動を見直そうかなと……思って」
俺は心情の内を零す。
アイリスは黙って俺の顔を見つめていた。
「だから今までのことは……悪かった」
窮屈な会話の中でも、その言葉だけは真摯に伝えたかった。
静かな沈黙の後、アイリスは深呼吸をするかのように胸に手を当て、少し勇気を振り絞るような表情を見せた。
「……驚きました」
アイリスは小さな声でそう呟く。
「まさかアラン様から謝罪の言葉が聞けるなんて」
そんなアイリスの言葉に俺は苦い笑みを浮かべるしかなかった。
「今日のアラン様はまるで別人のようです……でも、それはきっと良い意味で」
まさに核心を突く言葉。
今まで言われそうで言われてこなかった、対等である彼女だからこそ言えた言葉だ。
「そうだな……俺は変わりたいんだ」
まるで自分に言い聞かせるように俺は告げた。
初めて他人に打ち明ける目標だ。
アイリスは黙って俺を見続ける。
「もちろんすぐに信じてもらおうだなんて思ってない。だから君には俺を見張っていてほしい」
そう宣言した。
「……見守るではなく、見張るですか」
アイリスはポツリと呟く。
「分かりました、では再びアラン様が堕ちてしまわれた時には、婚約を破棄させて頂きますね」
そう言って彼女は俺に対し、初めて笑みを見せた。
しかしその内容はかなり物騒なもので。
「……え、あ、うん」
俺は苦笑するしかなかった。
▼
「アイリス様、そろそろお帰りの時間です」
エミリーの呼びかけによって、アイリスとの会談は幕を閉じた。
自信を持って有意義な時間だった、とは言えないが、初めて思いの丈を話せたのは俺にしても大きな一歩だったと言えよう。
「それではアラン様、天恵の儀を楽しみにしています」
玄関先でアイリスは別れ際にそんなことを言い残し去っていった。
天恵の儀。
婚約者との対談を終えて束の間、俺の心は再びざわめき出すのだった。