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悪役貴族のイレギュラー~破滅エンドを覆せ~  作者: 根古
第1章 悪役貴族編

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第58話 更なる恐怖

 森の奥から響いていたオークの咆哮と、ガルドの雄叫びが不意に途絶え、辺りは不気味なほどの静寂に包まれた。木々の葉が風に擦れる音だけが、やけに大きく聞こえる。


 俺は息を詰めて森の奥を見つめていた。隣ではソフィアが、普段の冷静さを保ちながらも、その黄金色の右目を細め、神経を集中させている。ランドは、木の棒を握りしめたまま、ゴクリと喉を鳴らした。


 その静寂を破ったのは、大地を揺るがすような轟音だった。


 ドォォォン……!


 砂煙が巻き上がり、すぐに地鳴りのような振動が、足元から身体の芯へと突き抜ける。

 木の葉がわさわさと音を立てて舞い落ち、小鳥が一斉に飛び立つ。俺は思わず身を屈め、ソフィアは咄嗟に警戒態勢を取った。ランドは木の棒を杖代わりに、必死にバランスを保とうとしている。


「な、なんだ今の……!?」


 ランドが掠れた声を上げる。その赤い瞳には、先ほどまでの戦闘の緊張とは質の違う、未知への恐怖が色濃く浮かんでいた。


 やがて砂煙がゆっくりと晴れ、森の奥の光景が徐々に明らかになる。


 そこに立っていたのは、肩で大きく息をしながらも、その顔にはいつもの不敵な笑みを浮かべたガルドだった。

 彼の足元には、先ほどの轟音の原因であろう、巨大なオークが巨体を横たえ、ピクリとも動かない。肩から腰にかけ、巨大な刃物で一刀両断されたかのような、深い傷跡が見える。周囲の木々も数本なぎ倒され、その戦いの凄まじさを物語っていた。


「ガルドさん……!」


 俺は安堵と驚愕の入り混じった声を上げる。ソフィアも、右目の黄金色の光を収め、息を吐いた。


「ふぅ……ちっとばかし、手こずらせやがって」


 ガルドは泥まみれの顔でニカッと笑い、俺たちの方へ振り返る。

 その額には汗が光っており、擦り傷もところどころに見受けられた。

 飄々としているが、決して楽な戦いではなかったのだろう。


 ってか、今の衝撃、あれ、もしかしてガルドさんの一撃か?


 改めて彼の足元に転がるオークの巨体と、周囲の惨状を見比べた。先ほどの地響きと轟音。あれが、この熟練の騎士が放った一撃の結果だとしたら……その威力は、俺の想像を遥かに超えている。


「おお、アラン坊主、ソフィア嬢、ランド坊主も、無事だったか!」


 ガルドさんが、俺たちの姿を認め、いつものように豪快な声を張り上げた。その声には安堵の色が滲んでいる。


「はい、ゴブリンはなんとか……。ガルドさんこそ、お怪我は?」


 俺が尋ねると、ガルドさんは「おう、こんなもん、掠り傷だ」と、肩についた真新しい切り傷を気にも留めない様子で手を振った。


「それより、アラン坊主、お前……なかなかやるじゃねえか。ゴブリン相手とはいえ、あの状況で二体も仕留めるとはな。特に最後の一撃、ありゃあ見事だったぜ」


「は……? 見てたんですか?」


 俺の問いに、ガルドさんはニヤリと笑みを深めた。


「がっはっは! 当たりめえよ。弟子の成長を見届ける義務があるからな」


 何だか心配して損した。

 俺が呆れたように溜息をつくと、ガルドさんはなおも愉快そうに笑っている。


「余裕ぶっこきやがって」


 隣でランドが毒を吐いた 。その赤い瞳は、ガルドの自慢げな態度に、隠しきれない不満と、ほんの少しの呆れを浮かべている。

 ガルドはランドの悪態を意にも介さず、さらに胸を張る。その言葉には絶対的な自信が満ち溢れていたが、俺は先ほどの地響きを伴う一撃の主が本当に目の前の人物なのか、疑いたくなってくる。


「さて、と。オークは片付けたし、ゴブリンもあらかた掃除できたみてえだしな。例の『土産』も回収したことだし、そろそろ……」


 ガルドさんが、ようやく本題に戻ろうと口を開きかけた、まさにその時だった。


 ガルドさんが、ようやく本題に戻ろうと口を開きかけた、まさにその時だった。

 張り詰めていた緊張の糸が、ほんの少しだけ緩んだのを感じた。オークという強大な敵を打ち倒し、ゴブリンの群れも退けた。これでようやく一息つける、と。


「これで村も少しは安心だろ……っと!」


 ガルドさんが安堵の息と共に、どこか誇らしげにそう言いかけた、その言葉が終わるよりも早く。


 ――ザザザッ!


 先ほどオークがなぎ倒した木々のさらに奥、影が深くなっている茂みから、獣が突進してくるような激しい音が響いた。

 俺たちの誰もが反応するよりも速く、黒い巨体が、まるで砲弾のように飛び出してきた。


「なっ……!?」


 それは、先ほどガルドさんが倒したオークと瓜二つの、しかし一回り小柄ながらも、その目には狂的な殺意を宿した別のオークだった。おそらく、先ほどのオークの死を察知し、あるいはその戦いの音に引き寄せられたのだろう。


 その狙いはただ一点――仲間を討ち取ったであろう、そして今、まさに油断の隙を見せかけていたガルドさんへと向けられていた。


「ガルドさん、危ない!」


 俺の叫びと、ソフィアの息を呑む音、ランドが咄嗟に木の棒を構え直す気配が交錯する。


 だが、オークの突進は、その全てを置き去りにするほどの速度と凶暴性を孕んでいた。

 巨大な棍棒が、風を唸らせながら振り上げられる。

 ガルドさんは、オークの出現に気づき、咄嗟に振り返り様に剣を盾にしようとしたが、長時間の戦闘と、オーク討伐直後の僅かな気の緩みが、彼の反応をコンマ数秒遅らせた。


 ゴッ、と肉を打つ鈍い音が響き、ガルドさんの巨体が、まるで木の葉のように吹き飛ばされた。

 地面に叩きつけられ、一度、二度と不様に転がり、ようやく動きを止めた彼の口からは、苦悶の呻きと共に赤い血飛沫が上がる。愛用の長剣も、衝撃で手から離れ、数メートル先で虚しく土に突き刺さっていた。


「ガルドさんッ!」


 俺は絶叫し、駆け寄ろうとしたが、ソフィアの鋭い声がそれを制した。


「アラン様、駄目です! 今の貴方ではただの的です!」


 ソフィアの鋭く、しかし切迫した声が俺の耳を打った。彼女の黄金色の右目は、既に狂乱するオークとその手前で呻くガルドさん、そして俺たちの位置関係を正確に捉えている。


「ランド! 牽制を! オークの注意をガルド様から逸らして下さい! アラン様は私と!」


 ソフィアの指示は迅速かつ的確だった。

 オークは、最大の脅威であったガルドさんを打ち倒したことで、僅かに油断を見せている。その巨大な棍棒を再び振り上げ、今まさにガルドさんにとどめを刺そうとしていた。


「させるかァッ!」


 ランドが、恐怖を振り払うかのように絶叫し、オークの側面へと突進した。その手には、もはやただの木の棒と化した修練具が握られている。無謀な特攻。だが、その捨て身の行動が、オークの注意をほんの一瞬だけガルドさんから逸らした。


「アラン様は魔法の準備を!」


 ソフィアの切迫した声に、俺はこめかみに走る鈍い痛みと、全身を包む倦怠感を奥歯で噛み殺した。

 今この瞬間に、俺が持てる力の全てを、仲間を守るために注ぎ込まなければならない。魔力は回復した。

 だが、天恵『前借』は……? いや、今は考えるな。まずは、目の前の脅威を排除する!


「ランド、無理はするな! 時間を稼いでくれればいい!」


 俺は叫びながら、両手を前に突き出し、意識を集中させる。

 攻撃魔法だ。一刻も早く攻撃魔法を出さなければ。

 頭の中に叩き込まれた詠唱が、堰を切ったように溢れ出す。


「空を渡る見えざる流れ、息吹となりて敵を裂け、鋭き刃よ、我が意志に応じて形を成せ――風刃(ウィンドカッター)!」


 俺が呪文を唱え終えると同時に、右手に確かな魔力の収束を感じた。大気中のマナが俺の意志に応じ、鋭利な刃へと姿を変える。


「行けっ!」


 風の刃が、唸りを上げてオークの巨体へと迫る。

 先ほどガルドさんを打ち倒したオークは、今まさにランドへとその矛先を向けようとしていた。彼の背後から放たれた見えざる刃に、オークは気づく様子もない。


 ザシュッ!


 鈍い音と共に、風刃はオークの脇腹を浅く、しかし確実に切り裂いた。

 緑色の巨体から、黒ずんだ血が飛沫を上げて飛び散る。


「グルオアアアアアッ!」


 オークが、苦痛と怒りに満ちた咆哮を上げた。

 その巨体がよろめき、ランドに振り下ろそうとしていた棍棒が、あらぬ方向へと逸れて地面を叩きつける。


「今です、脚を狙って動きを止めて下さい!」


 ソフィアの鋭い声が森に響く。

 ランドは、獣のような雄叫びを上げると、怯むことなくオークの巨体へと突進。その手にした木の棒を、渾身の力でオークの膝裏へと叩きつけた。


 メシリ、と鈍い音が響き、オークの巨体がさらに大きく傾ぐ。だが、致命傷には程遠い。

 狂乱したオークは、膝の痛みにも構わず、邪魔なランドを薙ぎ払おうと棍棒を横殴りに振るった。


「クソっ」


 ランドは咄嗟に後方へ飛び退き、辛うじて直撃を避ける。

 しかし、棍棒が掠めた勢いで体勢を崩し、無防備に地面へ転がった。オークは勝ち誇ったように咆哮し、ランドにとどめを刺さんと巨体を揺する。


「させません!」


 ソフィアの声が鋭く響く。

 彼女は負傷した肩を押さえながらも、既に次の魔法の詠唱を完了していた。


「――集え土塊、我が盾となれ――土壁(アースウォール)!」


 ランドとオークの間に、分厚い土の壁が瞬時に隆起する。オークの棍棒は土壁に激突し、土煙を上げながらその勢いを殺がれた。


 ギリギリの攻防。だがジリ貧なのはこちらだった。

 ソフィアの魔法は防御と牽制が主であり、オークに決定的なダメージを与えるには至らない。ランドの捨て身の攻撃も、オークの分厚い皮膚と強靭な筋力の前では、時間稼ぎにしかならなかった。


 ――ダメだ、このままじゃ、ガルドさんだけでなく、ランドもソフィアも……!


 こめかみに走る鈍い痛みと、全身を包む倦怠感が再び主張を始める。だが、そんなことを言っている場合ではない。あの狂乱したオークを倒せるだけの力は、今の俺(・・・)にはない。


 だったら、アレをもう一度使うしかない。


 それも、中途半端な力ではダメだ。

 ラーム村でゴブリンを打ち倒した時のような、身体の奥底から湧き上がる、あの圧倒的な力を。

 たとえその代償が、再び一ヶ月もの間、意識不明に陥ることだとしても。いや、それ以上だとしても、構わない。


 俺は恐怖を抑えつつ、大きく息を吐いた。

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