第54話 不安
ガルドが森の奥へと単独で偵察に向かってから、既に半日が過ぎようとしていた。
森の入口から少し離れた場所――祠付近で待機する俺とソフィアの間には、言葉には出さないものの、重苦しい焦燥感が漂い始めていた。
「……やはり止めておくべきでしたか」
夕暮れの橙色の光が差し込み始めた森の方角を見つめながら、ソフィアがぽつりと呟いた。
彼女は膝の上で開いていた古書を静かに閉じ、その整った顔には隠しきれない不安の色が浮かんでいる。
「大丈夫だよ、ガルドさんなら。あの人、強いし、それにソフィアだって何かあればすぐに引き返すって言ってたんだし」
俺は、自分に言い聞かせるように、努めて明るい声で言った。
確かに不安は拭えない。
だがあの人の強さは俺自身が知っている。そう簡単に遅れを取る人ではない。
「ええ……ですが、あの森の奥から感じる『歪んだ魔力』は、私の『天眼』でも底が知れない。ガルド様ほどの熟練の騎士であっても、不測の事態に巻き込まれる可能性は否定できません」
ソフィアの声には、彼女自身の能力への絶対的な信頼と、それをもってしても測り知れない未知への警戒が滲んでいた。
ソフィアの声には、彼女自身の能力への絶対的な信頼と、それをもってしても測り知れない未知への警戒が滲んでいた。
通常では見えないものが見えてしまう彼女だからこそ、その不安は俺以上に大きいのかもしれない。
「……ソフィア、少し気にしすぎじゃないか?」
俺の言葉に、ソフィアは薄暗い森からゆっくりと視線を戻した。その大きな青い瞳は、俺の発言に、わずかに戸惑いの色を浮かべているように見える。
「……そう、でしょうか」
ソフィアは、か細い声でそう呟くと、視線を落とす。
その横顔からは、いつもの冷静沈着な彼女らしからぬ、感情の揺らぎが読み取れる。
「……もしかして、俺が言った未来を気にしているのか?」
静かにだが確信を持ってソフィアにその問いを投げた。
ソフィアはわずかに肩を震わせ、視線を揺らした。図星だったのだろう。
彼女は一度、何かを言いかけて口ごもり、そして小さく、ほとんど吐息のような声で答えた。
「……否定は、しません。貴方が語った『十年後の危機』。それがどれほど確かなものかは分かりません。ですが、もし、万が一……あの森の奥にある『歪み』が、その序章だとしたら……」
ポツリポツリとソフィアの口から言葉が溢れていく。
あまりに大人びているとはいえ、彼女もまだまだ子どもだ。俺の抱える重大な秘密をたった一人で背負うには、彼女はまだ幼く、そして真面目過ぎたのだろう。その責任感の強さが、今、彼女自身を追い詰めているのかもしれない。
「……俺が言うのも何だが、やっぱり気にしすぎだ。何でもかんでも未来の出来事に繋がっている、なんて考えるのは、精神的に良くない」
俺はソフィアの揺れる瞳を見つめ返し、できるだけ優しい声色で、しかしきっぱりと言った。
未来を知る、ということは、時に希望にもなるが、同時に重すぎる枷にもなり得る。今のソフィアは、まさにその重圧に押しつぶされそうになっているように見えた。
「そう、かもしれませんね。ただ、アラン様にももう少し重く捉えて頂きたいものです」
ソフィアはふっと息を吐き、少しだけいつもの冷静さを取り戻したように見えた。
「……はは、これでも結構考えてるんだけど」
確かにソフィアほどではないかもしれないが、俺だってこの世界の未来、そして自身の破滅の運命について、片時も忘れたことはない。
ただ今まで色々あった。
初めてのことばかり、予想外のことばかりで、悩んでいる暇がなかったという方が正しいだろう。
それにこの知識は転生という形で得たものであること。
だからこそ、どこか俯瞰的に考えてしまう部分もあるのかもしれない。
「失礼しました。貴方には、貴方なりのお考えがあるのですね」
ソフィアは少しからかうような、それでいて俺の真意を探るような眼差しを向けてきた。
「まあな、そもそも未来を変えるんだから、知識に囚われるつもりもないというか」
少し見栄を張ってみせる。
実際、セレナとの一件で未来が不確定であることは証明された。ならば、過度に悲観する必要はない。俺の行動一つで、この世界の筋書きは変えられるはずなのだ。
「……未来に囚われない、ですか」
ソフィアは俺の言葉を静かに反芻し、そしてふっと、ほんの僅かだが、その整った唇に柔らかな笑みを浮かべた。
その笑みは、どこか肩の荷が下りたような、あるいは新たな決意を固めたような、複雑な、しかし確かな変化を感じさせるものだった。
「もしかしたら、それが一番大切なことなのかもしれませんね。定められた運命を知ってしまったとしても、それに縛られず、今この瞬間をどう生きるか。貴方のその強さが、セレナ様に希望を与えたように」
「……強さ、かな。ただの開き直りかもしれないけど」
俺は苦笑する。
俺は自身のどうしようもない人生に抗うためにやっているだけだ。誰だって破滅を迎えたくはないだろう。
だが、ソフィアの言葉は素直に嬉しかった。
「それでも、です。さて、未来については考えていても仕方がないとのことなので」
一息ついてソフィアがこちらを見た。
何だかその様子からいつもの調子が戻ったように感じられる。
「貴方の天恵『前借』についてですが、その後、何か変化や気づいたことは?」
「いや、切り替え早いな……」
まあソフィアらしいけど。
「当然です。今は一分一秒でも惜しいのですから。それで、何か分かったことは?」
その切り替えの早さと、真実を追求しようとする姿勢には、いつもながら感心させられる。俺は苦笑いを浮かべながら、自身の身体と天恵について、ここ数日感じていたことを正直に話した。
「色々試そうとはしてるんだけど……実は、まだ一度も『前借』を使えていないんだ」
俺は、少しバツが悪そうに頭を掻きながら、ソフィアに正直に打ち明けた。
天恵の正体が判明してから数日、ガルドさんの基礎訓練の合間や、夜寝る前などに、何度か『前借』を意識して力を使おうと試みてはいた。
だが、ラーム村で無意識に発動した時のような、あの身体の奥底から力が湧き上がってくる感覚は、一度も再現できていない。
「使えていない、ですか。それは、意図的に力を引き出せない、ということでしょうか?」
ソフィアは、手帳と羽根ペンを取り出しながら、冷静に問い返す。その青い瞳は、既に研究者のように俺の言葉を分析し始めている。
「まあそうなるかな……」
俺は言葉を濁して答える。
「……怖いのですか?」
ズバリ、ソフィアが核心に触れる。
「……まあ、そうだな。また力を失うかもしれないって考えると中々……」
俺は心の内を明かした。
あの無力感と喪失感、もう二度と味わいたくはない。
「考えすぎです……というのは冗談ですが」
ソフィアは先程の意趣返しとも言える言葉を口にする。その声には、いつもの冷静さと、ほんの少しのからかい、そしてアランの心情への理解が滲んでいた。
「確かにその恐怖は理解できます。それにリスクが伴う以上、慎重になるべきでしょう」
彼女はそう言って俺の考えを肯定し続ける。
「ですが、天恵『前借』の特性を理解し、制御するためには、やはりある程度の試行と検証が不可欠です。闇雲に力を引き出すのではなく、例えば……ごく限定的な状況、あるいはごく短時間だけ、意識的にその力を使ってみるというのはどうでしょうか? 例えば、日常の動作の中で、ほんの少しだけ身体能力を高めてみるとか。あるいは、以前のようにスキルを使う際、ごく僅かな時間だけ、特定の感覚を『借りる』ことを意識してみるとか」
ソフィアは、慎重に言葉を選びながら、具体的な提案をした。
彼女の言う通り、いきなり大きな力を借りようとするのではなく、小さな成功体験を積み重ね、天恵の感覚を掴んでいく方が安全で確実かもしれない。
「……なるほどな。確かに、それなら負担も少ないかもしれない」
後は、どうやってその条件を『前借』に組み込むか。
……いや、それについては何となくだができそうな気はしている。都合が良い話だがこれが天恵というものなのだろう。
「分かった、試してみる。ただ、ガルドさんが戻ってきてからの方がいいだろう。万が一、また動けなくなったら迷惑をかけることになるし」
「……そうですね。それが賢明でしょう」
ソフィアは僅かに安堵したような表情を浮かべ、頷いた。
その時だった。
――ザザッ……!
森の奥深く、先ほどまでソフィアが凝視していた方角から、微かだが、しかし確かな物音が聞こえた。それは、獣が茂みを掻き分ける音か、あるいは……。
俺とソフィアは同時にハッとして顔を見合わせ、息を殺して音のした方へと意識を集中させる。
夕暮れの静寂が、再び緊張の色を帯び始めた。ガルドさんは、まだ戻らない。




