第51話 それは唐突に
「……あれ?」
翌朝。
俺は言いようのない感覚に包まれて目覚めた。
身体が軽い。
いや、軽いというよりは、どこか……馴染んでいる?
思考もクリアで、頭の奥にこびりついていた鈍い痛みや倦怠感が、嘘のように霧散していた。
およそ一ヶ月ぶりの快調と言っても良いだろう。
昨晩のガルド式基礎鍛錬が嘘のように、身体の奥から力が漲ってくるような、不思議な高揚感すらある。あれほどまでに疲労困憊し、泥のように眠ったはずなのに、今の俺には疲労の欠片も感じられない。
「……気の所為じゃないよな」
半信半疑のままベッドから起き上がり、軽く手足を動かしてみる。
軋んでいた関節は滑らかに動き、重かった筋肉はまるで羽のように軽い。
ラーム村での戦闘以来、ずっと悩まされてきた原因不明の倦怠感が、まるで最初から存在しなかったかのように消え去っている。
一体、何が起きたんだ?
コンコン、扉が叩かれる。
そして俺が声をかける間もなく、静かに扉が開かれ、ソフィアが姿を現した。
「おはようございます。本日は……」
そこまで言ってソフィアは硬直した。
俺の顔をジッと見てそのまま固まったままだ。
そしていつの間にやら、淡い黄金色の光が、彼女の右目に宿っていた。
「……ソフィア?」
俺の声に、ソフィアははっと我に返ったように瞬きを一つした。
だが、その黄金色の瞳は依然として俺の全身を、まるで初めて見る珍しい生き物でも観察するかのように、あるいは信じられない現象を目の当たりにしたかのように、舐めるように見つめている。
というか、もはや当たり前に天眼で俺の体調や状態をスキャンするのが彼女の日課になっているようだ。
俺のプライバシーって……。
俺の心の声が、ソフィアの耳に届くはずもない。
彼女は数瞬、微動だにせず俺の全身をスキャンするように見つめ続けると、やがてゆっくりと、信じられないものを見るかのように、その黄金色の瞳の輝きを収めた。
「……アラン様」
ソフィアの声は、いつもの淡々とした響きとは明らかに違う、驚愕と、そして僅かな困惑、あるいは畏怖のようなものすら含んでいた。
「どうした?」
ソフィアは言葉を探すように俯き、再び俺の顔を見た。その青い瞳は、俺の身体の奥底、そのさらに深淵にある何かを捉えようとしているかのように、鋭く、そして真剣だった。
「貴方の……」
珍しく歯切れの悪い様子に、ただごとはないよいう印象を受けた。
またしても俺のステータスに、何かとんでもない変化が起きたというのか?
これ以上、想定外のことは勘弁してほしいのだが。
「貴方の……天恵が……見えています」
「…………は?」
俺の間抜けな声が、静かな朝の部屋に虚しく響いた。
ソフィアの言葉が、すぐには頭に入ってこない。
天恵が……見えている?
今まで、彼女の『天眼』をもってしても「読み取れない」「歪んでいる」としか言われなかった俺の天恵が?
「そ、それって……どういうことだ? 何が見えるんだ? 俺の天恵は、一体……」
矢継ぎ早に質問を繰り出す俺を、ソフィアはわずかに戸惑ったような表情で、しかし依然として真剣な眼差しで見つめ返した。
彼女の右目に宿っていた黄金色の光は消えているが、その奥にはまだ、見たことのない現象を捉えた興奮と、それを分析しようとする冷静な知性が同居している。
「落ち着いてください、もう少し詳しく見てみます」
ソフィアは一度ゆっくりと瞬きをし、再び右の瞳に全神経を集中させるかのように、深く息を吸い込んだ。
彼女の黄金色の『天眼』が、今度は迷いなく、そして以前よりも強い輝きを放ちながら、俺の存在そのものを解析するかのように注がれる。
部屋の空気は、彼女の集中の高まりと共に密度を増し、俺は息を呑んで彼女の言葉を待った。
ラーム村でのゴブリンとの戦闘、そしてその代償としての魔力喪失。あの絶望的な状況から一転、今、俺の天恵の正体が明らかになろうとしている。
数秒か、あるいは数十秒か。永遠にも感じられる静寂の後、ソフィアはゆっくりと、しかしはっきりと目を見開いた。
「……天恵の前に一点だけ」
「何だ?」
焦る俺をソフィアは静かな、しかしどこか確信めいた瞳で見つめる。
「貴方の魔力が……完全に回復しています」
「は、はあ!? 何で急に」
俺の叫びにも似た問いかけに、ソフィアは混乱した表情のまま、しかし力強く頷いた。
「間違いありません、今の私の目には貴方の身体に満ちる魔力がはっきりと見えています」
ソフィアは、俺の混乱をよそに、自身の『天眼』が捉えた情報を冷静に、しかし興奮を隠しきれない早口で説明する。
彼女の黄金色の瞳は、依然として俺の全身を、そして俺の内面をスキャンするように輝き続けていた。
「そして本題です。貴方の天恵が判明しました」
「あ、ああ、そうだったな」
正直、魔力が全快したという衝撃的な事実に、俺の思考はまだ追いついていない。
混乱する俺を余所に、ソフィアは依然として真剣な眼差しで見つめ続けている。
「はい……貴方の天恵の名は――」
ソフィアは一度、ごくりと息を呑む。
その仕草が、彼女の内心の動揺と、これから告げられる言葉の重要性を物語っていた。
俺もまた、固唾を飲んで彼女の次の言葉を待つ。心臓の鼓動が、やけに大きく部屋に響いている気がした。
「『前借』です」
「……ぜ、前借?」
予想だにしなかった、あまりにも平凡かつ、天恵という神秘的な力には似つかわしくない単語に、俺は完全に思考停止した。
前借。
金を借りる、給料を前借りする、そういう、どちらかというと世俗的で、あまり良いイメージのない言葉。それが、俺の天恵の名前?
「……それは本当なのか、ソフィア? 何かの間違いじゃ……例えば、こう、もっと格好いい名前とか、伝説の勇者が持ってそうな……」
俺の情けない反論に、ソフィアはわずかに眉をひそめたが、すぐにいつもの冷静さを取り戻し、力強く首を横に振った。
「間違いありません。私の『天眼』が明確に示しています。貴方の天恵の名は、確かに『前借』です。そして、その力が意味するもの、貴方の身に起きていた不可解な現象の理由も……ようやく理解できました」
ソフィアは一度言葉を切り、俺の目を真っ直ぐに見つめる。彼女の青い瞳は、まるで難解なパズルを解き明かしたかのような、知的な興奮に輝いていた。
「貴方の天恵『前借』は、文字通り力や能力を『借りてくる』力なのでしょう。ラーム村でのゴブリンとの戦闘、あの時貴方が見せた異常なまでのスキルの冴え、特に『強撃』から『強撃衝』への派生……あれらは、貴方が無意識の内に、この『前借』の力を行使した結果と考えられます」
「……力を借りる?」
俺はソフィアの言葉を繰り返す。
にわかには信じがたい話だが、確かにあの時の感覚――まるで身体が勝手に最適解を選び取るような動きは、今の未熟な俺の力だけでは説明がつかない。
「はい。そして、その『借りた力』の代償として、貴方は魔力や、あるいは生命力の一部を担保として支払っていた。それが、ラーム村での戦闘後の魔力完全喪失と、原因不明の倦怠感の正体だったのでしょう。今になってようやく魔力が戻ったのは、一ヶ月分の『返済』が終わったからなのでしょう。」
ソフィアの分析は、まるで俺の身に起きていた不可解な現象の全てを解き明かす鍵のようだった。
学院で初めて魔法を使った時、詠唱だけで『光球』が発現したのも。ガルドさんの『強斬』を咄嗟に見切れたのも。それら全てが、この『前借』の天恵によるものだったというのか。
そして、その度に俺は知らず知らずのうちに「代償」を支払っていた、と。
それが今までの不調の原因だったのだ。
確かに今思えば、魔法を数回行使した次の日は、少なからず不調があった気がする。
「なるほど……担保と返済、か……やっぱり、あまり格好いい天恵じゃないな……」
俺の嘆息とも諦観ともつかない呟きに、ソフィアはふっと、ほんの僅かだが、その整った唇に笑みを浮かべたように見えた。
「名前の響きや格好良さなど、力の価値を測る上では些末なことです。重要なのは、その力が何をもたらし、貴方がそれをどう使うか、ということでしょう」
彼女の言葉は、いつものように冷静で、しかしどこか俺を励ますような温かみも帯びていた。
「まあそうだな。あまりにも焦らされたもんだから、少し拍子抜けしたんだ」
俺は改めて、自分の両手を見下ろした。
そこに宿るとされる天恵『前借』。
その響きに、以前のような神秘的な力への憧憬はない。だが、代わりに、もっと現実的で、そして確かな手応えのようなものを感じていた。
「『前借』か。名前はともかく、これが俺の力だっていうなら、使いこなしてみせるさ。どんな代償が伴うとしても、破滅の運命を変えるためならな」
俺の言葉に、ソフィアは静かに、しかし力強く頷いた。
彼女の青い瞳には、俺への信頼と、そして共に未来を切り開こうとする決意のような光が宿っている。
「その意気です、と言いたいところですが、その天恵の特性上、力の使用には細心の注意が必要でしょう。代償の正確な条件や、借りられる力の限界、そして『返済』の方法など、まだ不明な点も多いですから」
「ああ、分かってる。手探りになるだろうが、それでも進むしかない。まずは、この回復した魔力と、軽くなった身体で、もう一度『強撃』を試してみるところからだな」
俺がそう言うと、ソフィアはふっと、ほんの僅かだが、その整った唇に柔らかな笑みを浮かべた。
「くれぐれも無茶はしないように、それに復調したと慣ればあの方が黙っていないでしょう」
「……あ」
豪快に笑う男の顔が浮かんだ。
魔力は全快、原因不明の体調不良も解消。そして天恵の正体も判明した。
となれば、あの熱血教官が黙っているはずがない。
むしろ、以前にも増して熱の入った指導(という名の扱き)が待っていることは想像に難くない。
ふぅ、と一つため息をつく。
「調査が本題であることもお忘れなきよう」
そう言って僅かに口角を上げるソフィア。
「……善処します」
俺の力ない返事に、ソフィアは満足そうに、しかしすぐにいつもの冷静な表情に戻り、部屋を出て行った。




