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悪役貴族のイレギュラー~破滅エンドを覆せ~  作者: 根古
第1章 悪役貴族編

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第43話 過去の記憶

 ライナス・グレイバードと名乗ったギルドマスターの言葉は、まるで静寂の中に投じられた小石のように、冒険者ギルドの喧騒を一瞬にして凍りつかせた。


 その深く、落ち着いた声。穏やかな眼差し。しかし、その奥には、俺の全てを見透かしているかのような、底知れない何かが潜んでいる。


「……え?」


 俺は、完全に不意を突かれ、間の抜けた声を漏らすことしかできなかった。

 お久しぶり、ということは俺と面識があるのだろう。

 だが生憎と俺の記憶は相変わらず、アラン・フォルテスとしての過去を鮮明には映し出してくれない。

 加えて『セレスティア・サーガ』においても、彼の名前に覚えはなかった。


「ん、どうかしたのかね?」


 ライナスが、俺の固まった反応を見て、わずかに首を傾げた。その知的な光を宿した瞳が、困惑する俺の顔をじっと見つめている。


「……マスター、彼とお知り合いなのですか?」


 この微妙な空気の中、先ほどまで大男たちに詰め寄られていた女性職員の一人が、恐る恐るといった様子でライナスへ声をかける。彼女だけでなく、周囲のギルド職員や、騒ぎを遠巻きに見ていた冒険者たちもまた、このギルドマスターとフォルテス家の少年との間に存在するらしい「過去」に、戸惑いと好奇の視線を向けていた。


「ああ、フォルテス家の方とは、少しね」


 ライナスは、簡単にそう答えた。

 しかしその答えに対し、場は一気に熱を帯びる。


「え、フォルテス家……ですか?」


 ギルド職員の驚きの声は、周囲にいた他の冒険者たちのざわめきをさらに大きくした。

 当のライナスは周囲の反応を見て、むしろ驚いた表情を見せる。


「ん? これってフォルテス家の視察ではなかったのかね?」


 この場にいる全ての人達の頭に疑問が浮かぶ。

 もちろん俺も例外ではない。


「い、いえ、私どもはあの方――」


 女性職員が慌てて何かを言いかけたが、その言葉を遮るように、ソフィアが静かに、しかし凛とした声で口を開いた。


「ライナス・グレイバード様、ギルドマスターとお見受けいたします。私はグレイン家より参りました、ソフィア・メティスと申します。そしてこちらは、アラン・フォルテス様。この度は、私的な用向きでギルドを訪れました。視察などではございません」


 ソフィアは、ライナスの鋭い視線にも臆することなく、背筋を伸ばし、堂々とした態度で名乗った。


「グレイン家のソフィア嬢……なるほど、そうでしたか。これは早合点をしてしまい、失礼いたしました」


 ライナスは、ソフィアの言葉に僅かに眉を上げたものの、すぐに納得したように頷いた。


「しかし、フォルテス家の御曹司が、グレイン家の方と共に、このような場所に私用で、とは……興味深い組み合わせですな」


 ライナスは、俺とソフィアを交互に見比べながら、面白そうに目を細めた。

 その言葉から彼は今の俺の立場を知らないのだろう。

 天恵の儀での一件、グレイン家預かりになったこと。そういった情報は、まだ冒険者ギルドのマスターの耳には届いていないのかもしれない。あるいは、知っていて敢えて知らないふりをしているのか。


「私的な用向き、と申されましたが、差し支えなければ、このライナス・グレイバードがお話を伺ってもよろしいかな? 先ほどの者たちの非礼、改めてお詫び申し上げたい」


 ライナスは、先ほどの騒動を持ち出しながら、自然な流れで俺たちとの会話を続けようとする。その老獪な手腕は、さすがギルドマスターといったところか。


「……いえ、お気遣いなく。先ほどの件は、もう気にしておりません」


 俺は、ソフィアに視線で合図を送りながら、当たり障りのない返答を心がけた。


「それに、お尋ねしたいことも、先ほど職員の方に伺い、概ね解決いたしましたので。本日はこれにて失礼させていただきます」


 些か注目を浴びすぎた。この場を収めるには、すぐに立ち去るのが最適だと判断する。


「左様ですか。それは残念だ。もし何かお困りのことがあれば、いつでもこのライナスを頼っていただきたい。フォルテス家、そしてグレイン家の方々には、ギルドとしてもできる限りの協力を惜しみません」


 ライナスは、俺たちの辞去の申し出をあっさりと受け入れた。

 だが、その言葉の端々には、依然として俺たちへの興味が滲み出ている。

 流石は冒険者という人々の長だ、その性質は好奇心旺盛で、そして抜け目がない。


「お心遣い感謝します。もしお力をお借りする時が来ましたら、その際は改めてご相談させていただきます」


 ソフィアが、俺に代わって淀みなく礼を述べ、軽く一礼した。俺もそれに倣う。

 ライナスは、満足そうに、しかしどこか意味深な笑みを浮かべて俺たちを見送った。


 冒険者ギルドの重い扉を抜け、聖都の喧騒の中に戻ると、俺は大きく息を吐き出した。背中に突き刺さるような視線から解放され、ようやく緊張が解けていくのを感じる。


「……疲れた」


 思わず零れた本音に、隣を歩くソフィアもまた小さく息を吐く。


「まさかここまでの騒動になるとは」


 ソフィアの言葉には、普段の彼女からは想像もつかないほどの疲労と、ほんの少しの後悔が滲んでいた。ギルドでの一件は、彼女にとっても予想外の消耗だったのだろう。


「本当に……なんであんなに絡んでくるんだか」


 俺は溜息混じりに呟く。酔っ払いの思考回路など理解できるはずもないが、それにしても執拗だった。


「私自身の認識が甘かった点は否めません。グレイン家の名を不用意に出したことも良くはなかったかもしれません」


 ソフィアは、自身の対応を冷静に分析し、反省の弁を口にする。


「いや、ソフィアは悪くない。むしろ、よくやってくれたと思う。俺一人だったら、どうなっていたか……」


 想像するだけでぞっとする。

 魔力ゼロ、体力だってまだまだ回復しきっていない今の俺では、あの屈強な冒険者たち相手に何もできなかっただろう。


「そういえば、一つ気になることがあるのですが」


 ソフィアはそこで言葉を切り、俺の顔をじっと見つめた。その青い瞳には、先ほどの疲労とは違う、探求するような鋭い光が宿っている。


「あのギルドマスター、ライナス様のことです。貴方とお知り合いのようでしたが」


「あ、ああ、そうだな」


 曖昧に返答する俺にソフィアがジロリと視線を向ける。


「……記憶がないんですね?」


 ソフィアの静かな、しかし確信に満ちた声が、聖都の喧騒の中でやけにはっきりと俺の耳に届いた。

 図星だった。

 俺は一瞬言葉に詰まり、視線を彷徨わせる。


「……まあ、そんなところだ」


 結局、正直に認めるしかなかった。

 この聡明な少女の前で、下手な嘘や誤魔化しは逆効果になる。


「やはり、ですか」


 ソフィアは、俺の返事に特に驚いた様子も見せず、小さく息を吐いた。その青い瞳は、俺の顔をじっと見つめ、何かを分析しているかのようだ。


「これまで貴方と話していく中で、時折、ご自身の過去に関する記憶が曖昧であるかのような素振りを見せることがありました。特に、フォルテス家や、貴族社会における古い慣習、あるいは個人的な交友関係についてです」


 ソフィアの指摘は的確だった。転生者である俺にとって、アラン・フォルテスとしての過去の記憶は、靄がかかったように不鮮明だ。ゲームの知識として知っていることと、アラン自身が体験したであろう記憶が、混濁している部分も多い。


「ライナス様のような、ギルドという特殊な組織の長と貴方が個人的な面識を持つとすれば、それはフォルテス家の公的な繋がりか、あるいは貴方自身の、かなり特異な経験によるものでしょう。後者であれば、貴方が覚えていないのは不自然です」


 ソフィアの分析は、まるでパズルのピースを一つ一つはめ込むように、論理的で隙がない。


「……まあ、その通りだよ。ライナスって人のことは、本当に何も思い出せない。名前も、顔も、今日初めて見たような気がする」


 俺は観念して、正直に白状した。


「そうですか……」


 ソフィアは、何かを深く考えるように、顎に指を当てた。


「記憶の欠落……。それが、貴方が『未来を知っている』ことや、貴方の特異な天恵、そして魔力喪失と、何らかの形で関連している可能性も考えられますね」


「え、そうなのか?」


 ソフィアの結論に俺は思わず言葉を挟む。


「まだ憶測でしかありませんが、可能性の一つとしては考慮すべきでしょう。貴方の天恵は恐らく代償を伴って力を得る類のもの。未来の記憶を得るために過去の記憶を失った、というのは……少し飛躍しすぎかもしれませんが、全くあり得ない話ではありません」


 ソフィアの言葉は、確かにその通りだと思ってしまうほどの説得力だった。


 だが違う。


 何故なら俺の記憶はアランの未来の記憶ではなく、前世の記憶だ。

 理屈は分からないが、アランの天恵が関係しているわけがない。


「まずは天恵を明らかにする、そこからです」


「まあ……そうだな」


 何か心にモヤモヤが残ったままだが、今はできることをするしかない。

 そう結論付け、俺とソフィアはグレイン本邸へと続く道を再び歩き始めた。

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