第42話 洗礼
冒険者ギルドでガラの悪い男に絡まれる。
お約束と言ってしまえばそれまでだが、実際にこうして対峙する身になると、厄介なことこの上ない。
「……申し訳ありません、すぐに終わらせますので」
ソフィアは静かに、しかし有無を言わせぬ響きでそう言うと、俺の前に半歩進み出て、立ちはだかる大男たちと向き合った。
その小柄な身体からは想像もつかないほどの毅然とした空気が、彼女の周囲に張り詰める。
「ああ? なんだ嬢ちゃん、お詫びでしてくれるのか?」
大男の一人――顔に大きな切り傷のある、特に体格の大きな男が、下卑た笑みを浮かべてソフィアを見下ろした。その濁った瞳は、彼女が纏う上質な旅装を品定めするようにねめつけている。
「お待ちいただきありがとうございます。こちらの用事は済みましたのでどうぞ」
ソフィアは、まるで男の言葉が聞こえていないかのように、淡々と言い放った。
「……は?」
大男は、ソフィアの予想外の反応に一瞬言葉を失い、間の抜けた声を漏らした。
「こいつ……!」
大男の顔が怒りと屈辱で青黒く染まる。
酒で濁った目が、危険な光を宿してソフィアを睨みつけた。
「おいおい、嬢ちゃん、ずいぶんと威勢がいいじゃねえか。お貴族様のお嬢様は、世間知らずで困るぜ。ここがどういう場所か、教えてやる必要がありそうだな?」
顔に傷のある大男が、威嚇するように一歩前に踏み出す。
すぐに手を出すということは流石にないとは思いつつ、俺はソフィアの傍に寄った。
すると、隣で小さく「……はぁ」とため息を付く声が耳に入る。
「こちらでは飲酒をした状態で、仕事に従事するのが当たり前なのですか?」
ソフィアの少し呆れと非難を含んだ声が飛ぶ。
しかしその言葉は相変わらず、大男に対しての返答ではなく、ギルド職員に対してである。
職員はあからさまに動揺した様子で、どもりながら答えた。
「い、いえ、滅相もありません! ギルド内での過度な飲酒、及び他の冒険者への迷惑行為は固く禁じられております! も、もちろん、任務中の飲酒などもってのほかで……」
女性職員は、ソフィアの視線と、背後から感じるであろうグレイン家の威光に冷や汗をかきながら、必死に言葉を紡ぐ。
「ならば、なぜそのような者が、この場で公然と他の利用者に絡んでいるのですか? ギルドの管理体制はどうなっているのでしょう?」
ソフィアの追及は容赦がない。
その声は静かだが、氷のように冷たく、有無を言わせぬ圧力を伴っていた。
大男たちは、自分たちが完全に無視され、ギルド職員とソフィアの間で何やら面倒な話が進んでいることにようやく気づいたのか、顔を見合わせ、さらに不機嫌な表情を浮かべる。
「おい、てめえ、さっきから誰に口聞いてやがるんだ!」
顔に傷のある大男が、我慢しきれないといった様子で怒鳴り声を上げた。
その手が、ソフィアの肩を掴もうと伸びる――。
シュッ、と乾いた音を立てて、その手が空を切った。
ソフィアは、まるで予測していたかのように、最小限の動きで半身をずらし、男の手を難なくかわしていた。その一連の動作には、一切の無駄も力みもない。
そしてその瞳には黄金の輝くが宿っていた。
「なっ……!?」
体勢を崩した大男が、驚きと怒りに目を見開く。
その隙を見逃さず、俺はソフィアの前に一歩踏み出し、大男の前に立ちはだかった。今の俺に戦闘能力は期待できない。だが、ここでソフィア一人に矢面に立たせるわけにはいかない。
「その辺にしませんか」
努めて冷静に、しかし強い意志を込めて言い放つ。声が震えていないか、内心ヒヤヒヤしたが、幸いにもそうではなかったようだ。
「ああん? なんだこのチビは。嬢ちゃんの代わりに泣きついてきたのか?」
もう一人の、やや小柄だが目つきの悪い男が、嘲るように俺を見下ろす。
その視線には、明らかな侮蔑の色が浮かんでいた。
「……貴方のような方々に構っている時間はない、と言っているのです。それとも、ギルドの規約を破り、グレイン家に喧嘩を売るのが貴方たちの『仕事』なのですか?」
ソフィアが、俺の背後から再び冷徹な声を放つ。
その声には、先ほどよりも明確な「警告」の響きが込められていた。「グレイン家」という言葉が出た瞬間、ギルド内の空気がピリッと張り詰めるのを感じる。
周囲で傍観していた冒険者たちの何人かが、興味深そうに、あるいは面倒事が大きくなるのを警戒するように、こちらへ視線を集中させていた。
「グレイン家だと……? はっ、お貴族様がこんな場所に何のようだ。それに、それがどうしたってんだ」
顔に傷のある大男は、一瞬たじろいだものの、すぐに虚勢を張るように悪態をついた。だが、その声には先ほどまでの勢いがない。酒の勢いだけでは、四公爵家の一つであるグレイン家の名を無視することはできないのだろう。
特にここ聖都においてグレイン家の名は絶対だ。
「だから、このギルドは飲酒した冒険者の狼藉を放置するのが通常営業なのか、と聞いているのですが?」
ソフィアは、もはや大男たちではなく、完全にギルド職員へと視線を固定している。
「も、申し訳ございません! ただいま、対処いたします!」
その容赦のない追及に、対応していた女性職員は顔面蒼白になり、逃げるように控室に駆けていった。
「おい、いい加減にしやがれ。飲酒は禁止されてねえはずだろうが」
顔に傷のある大男が、まだ諦めきれないのか、あるいは引き下がれないのか、苦し紛れに反論する。
その言葉に、ソフィアはわずかに眉をひそめた。
「……そうなのですか?」
ソフィアの視線が、純粋な疑問と、ほんの少しの探求心のような色を帯びる。
そして、その視線はなぜか俺に向けられた。
「いや、なんで俺に……」
予想外のパスに、俺は思わず素で聞き返してしまった。
「分かりそうな人が貴方しかいないからです」
そう言ってソフィアはギルドの窓口に目を向ける。
どうやら俺に説明責任を押し付け、彼女はギルド職員の対応を待つつもりらしい。
俺は内心でため息をつきつつも、頭を切り替える。
「……そうですね」
俺は一つ咳払いをして、絡んできた大男たちへと向き直った。
「ギルド内での飲酒が全面的に禁止されているわけではないでしょう。依頼を終えた冒険者が仲間と労をねぎらうために一杯やる、というのはどこのギルドでも見られる光景です。まあ……節度を守っていれば、ですが」
俺はそこで一度言葉を切り、大男たちの顔をゆっくりと見回した。
彼らの赤い顔、濁った眼、そして周囲に漂う強烈な酒臭。どう見ても「節度ある」状態ではない。
「なるほど、少し早とちりをしてしまいました。やはり実際に体験をしないと分からないものですね。職員の方には申し訳ないことをしました」
何と言うか、とても白々しい。
ソフィアは、わざとらしく納得したような表情を浮かべ、軽く頷いてみせた。
この少女、明らかに俺の言葉を利用して、彼らをさらに追い詰めるつもりだ。
「ですがアラン様のおっしゃる通り、『節度』というものが重要なのでしょう。ギルドの規約には、他の利用者への迷惑行為の禁止、という項目も確かあったはず。白昼堂々、他の利用者に絡み、威嚇し、挙句の果てには手を出そうとする。これは『節度ある飲酒』の範囲内なのでしょうか?」
その態度は明らかにソフィアらしくないものだ。
まあここまで一緒にいたのだから分かることもある。
この人完全にキレてる。
「いっそ、ヘレナ様へ直談判をするべきなのかもしれません。今後冒険者ギルドでの飲酒は禁止するべきだと。それが聖都の治安維持にも繋がるでしょう」
そうソフィアは脅しとも取れる言葉を言い放つ。
もちろんソフィア一人の権限でどうこうなる問題ではないのだが、彼女の雰囲気がその可能性を匂わせるほどに圧倒的だった。
絡んできた大男たちも、さすがに「聖女ヘレナへ直談判」「ギルドでの飲酒禁止」という言葉の持つ意味の大きさに気づいたのだろう。先ほどまでの威勢はどこへやら、互いに顔を見合わせ、明らかに狼狽の色を浮かべている。
周囲の冒険者たちも、ただの子供相手のいざこざではないと悟ったのか、興味本位の視線に加えて、厄介事への警戒感、そして一部からはソフィアの度胸への感嘆のようなざわめきが起こり始めていた。
「……おい、ジョゼフ、どうすんだよ……」
「知るか! あの嬢ちゃん、本気でやりかねねえぞ……!」
大男たちが小声で何やら不穏な相談を始めた、まさにその時だった。
低く、しかしギルド全体の喧騒を鎮めるような、不思議なほどよく通る声が響いた。
声のした方へ視線を向けると、ギルドの奥、おそらくはギルドマスターの執務室へと続くのであろう扉から、一人の男が静かに姿を現した。
年の頃は四十代半ばといったところだろうか。
白髪混じりの髪を後ろで短くまとめ、口元には手入れの行き届いた髭を蓄えている。
着ているのは実用的な革鎧だが、安物ではなく、長年使い込まれながらも手入れの行き届いた上質なものだと一目で分かった。
その体躯は鍛え上げられているが、威圧感というよりは、歴戦の勇士が持つ落ち着きと洗練された雰囲気を漂わせている。
何より印象的なのは、その深く、知的な光を宿した瞳だ。まるで全てを見透かすかのような、それでいて穏やかな眼差し。
「ギルドマスター……!」
誰かがそう呟いた。
彼こそが、この聖都マリエルナの冒険者ギルドを取り仕切る、ギルドマスターなのだろう。
「まずは、グレイン家のお方、そしてフォルテス家のお方とお見受けする。この度は、当ギルドの不手際により、大変なご不快とご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございませんでした」
ギルドマスターは、俺とソフィアの前に進み出ると、深々と、しかし威厳を損なわない完璧な角度で頭を下げた。その声には、心からの謝罪の念が込められている。
「……ギルドマスター直々のご挨拶、恐れ入ります」
ソフィアは、ギルドマスターに対しては表情を崩さず、しかし先ほどまでの刺々しさは消え、貴族令嬢としての落ち着きを取り戻して応じた。
「そして、ジョゼフ、マルコ」
ギルドマスターの視線が、絡んできた大男たちへと鋭く向けられる。その瞳には、先ほどまでの穏やかさはなく、氷のような冷徹な光が宿っていた。
「貴様ら、ギルドの規約を忘れたか? 白昼堂々、他の冒険者に、それも年若い子供に絡み、威嚇し、あまつさえ手を上げようとは。冒険者の風上にも置けぬ愚行だ。その上、相手が誰であるかもわきまえぬとは……」
その声は静かだが、腹の底に響くような重みがあり、大男たちは完全に萎縮し、顔を青くして俯いている。
「ギルドマスター、こ、こいつらは、その……」
「言い訳は聞かん」
ギルドマスターは、大男たちの言葉を遮り、ぴしゃりと言い放った。
「貴様らには、厳重な処分を下す。詳細は後ほど伝えるが、しばらくはギルドへの出入りも、依頼の斡旋も停止と思え。異論はあるか?」
「……っ、ありません……」
大男たちは、もはや抵抗する気力もないのか、消え入りそうな声で答えるしかなかった。ギルドマスターの言葉は、彼らにとって死刑宣告にも等しいのだろう。
「ならば、さっさと消えろ。これ以上、この場を汚すな」
ギルドマスターの冷たい一瞥を受け、大男たちは蜘蛛の子を散らすように、そそくさとギルドから逃げ出していった。その哀れな後ろ姿を見送る冒険者たちの視線は、もはや嘲笑すらなかった。
「さて、改めてお詫び申し上げます。そして、ようこそ聖都マリエルナ冒険者ギルドへ。私はここのギルドマスターを務めております、ライナス・グレイバードと申します」
ライナスと名乗ったギルドマスターは、再び俺たちに向き直り、今度は穏やかな笑みを浮かべた。その変わり身の見事さと、場の空気を完全に掌握する手腕に、俺はただただ圧倒される。
そして俺とソフィアの緊張を意に介するでもなく、その知的な光を宿した瞳を、ゆっくりと俺に向け口を開いた。
「……さて、お久しぶりでございますな。アラン様」




