第38話 変わる未来
「……わ、わかった。みる……」
絞り出すような、だが確かな返事。
ソフィアは安堵の息を漏らし、セレナの肩を優しく撫でた。
俺もまた、ゴクリと息を飲み、これから起こるであろう運命の審判を待った。
セレナは、再び胸の前で震える両手を合わせた。
深呼吸を一つ、二つ。彼女の小さな身体に、周囲の空気を吸い込むように、不可視のエネルギーが集中していくのが、肌で感じられた。
そして、セレナの左目が、再び淡い黄金色の光を放ち始めた。
『天眼』――未来を視る力。
その黄金の瞳が、ゆっくりと俺に向けられる。
前回のような恐怖の叫びはない。だが、その瞳は大きく見開かれ、信じられないものを見るかのように、俺の姿を捉えていた。
部屋の薄暗がりの中、セレナの唇が微かに動き、声にならない驚愕の音が漏れる。
「……ちがう……」
ポツリと、彼女は呟いた。
その声はあまりにも小さく、聞き間違いかと思うほどだった。
「セレナ様?」
ソフィアが、心配と期待が入り混じった声で、そっと問いかける。彼女もまた、この瞬間に起こるであろう変化を、固唾を飲んで見守っていた。
俺自身も、心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、セレナの次の言葉を待っていた。
「……みえる世界と、ちがう……。この人……ここに、いるはずじゃ、ないのに……」
セレナの震える声が、薄暗い部屋の静寂を切り裂いた。
黄金色に輝く『天眼』は、依然として俺――アラン・フォルテスを捉えたままだが、その瞳には先ほどまでの恐怖とは異なる、純粋な混乱と驚愕の色が浮かんでいる。
「ここに、いるはずじゃない……? セレナ様、それはどういう意味ですか?」
ソフィアが、息を詰めて尋ねる。彼女の声にも、抑えきれない動揺と、僅かな期待が混じり合っていた。部屋の隅に立つセレナの小さな変化が、この場の空気を一変させたのだ。
「……この人は、王都にいるはずなのに」
「王都にいるはず……? それは、セレナ様が見た『未来』では、アラン様は、今、聖都ではなく王都にいらっしゃる、ということですか?」
ソフィアは、確認するように、しかし確信に近い響きを込めてセレナに問いかける。
セレナは、ソフィアの声に促されるように、こくりと小さく頷いた。
俺は胸の高鳴りを感じながら口を開く。
「ソフィア、今から王都に帰るとして、何日くらいかかる?」
「三日程です、ただご存知の通り今は王都への未知は閉ざされていますので……」
ソフィアの冷静な、しかし困惑を隠せない声が、薄暗い部屋に響いた。
つまり明日、俺が王都にいるという状況は物理的にあり得ない。セレナの見た『未来』――あるいは『物語』は、確かに、今この瞬間に起こっている現実とは異なっているのだ。
「セレナ様」
俺は、安堵と興奮が入り混じった声で、部屋の隅に立つセレナへと語りかけた。
「セレナ様の見る『未来』と、今の俺は、違う場所にいる。俺がここにいることが、その証拠だ」
「……で、でも……わたしが見たのは、いつも……ほんとうに……」
セレナの声はまだ震えている。長年、彼女を苦しめてきたであろう『確定された未来』の呪縛は、そう簡単に解けるものではない。彼女が見てきた悲劇や絶望は、全て現実となってきたのだろう。
「セレナ様が見ていたのは、きっと『そうなっていたかもしれない未来』の一つなんだ。あるいは、俺が言ったように、元々決まっていた『物語』の筋書き」
俺は、できるだけ優しい声色で続ける。
「だけど、俺の行動や、俺たちがラーム村で経験したこと、そして王都への道が閉ざされたこと……そういう、ほんの小さな『ズレ』が積み重なって、物語は少しずつ、違う方向へ動き始めているのかもしれない」
「……違う、方向……?」
セレナの紫の瞳が、僅かに揺れた。長い前髪の隙間から覗くその瞳は、まだ不安げだが、先ほどまでの絶望の色は薄れている。
「ああ。だから、セレナ様が見た俺の最期も……もう、決まった未来じゃないのかもしれない」
それは、俺自身の強い願いでもあった。セレナの『天眼』が見たという事実は重い。だが、今、この瞬間に起きている『ズレ』こそが、運命に抗うための確かな希望の光なのだ。
俺の言葉は、静かな部屋に響き渡った。
部屋の隅で震えていたセレナの動きが、ぴたりと止まる。
俯いていた顔がゆっくりと持ち上がり、長い前髪の隙間から、潤んだ紫の瞳が再び俺に向けられた。その瞳には、まだ拭いきれない不安の色が濃いが、それ以上に、今まで見たことのない強い光――まるで、暗闇の中で初めて見つけた小さな灯火を見つめるような、切実な光が宿っていた。
「……わたしが見てきた、たくさんの悲しいことも……もしかしたら……」
消え入りそうな声で、セレナは呟いた。その言葉は、問いかけのようであり、祈りのようでもあった。
「ああ、もしかしたら、変えられるかもしれない」
俺は力強く頷いた。
根拠はない。ただの願望かもしれない。だが、そう信じなければ、何も始まらない。
ふと、ゲーム本編におけるレオンとセレナのエピソードが脳裏をよぎった。
絶望的な状況の中で、未来に希望を見出す勇者レオンの言葉が、引きこもっていたセレナの心を動かし、彼女が外の世界へ一歩踏み出すきっかけを与えた、そんな展開だったはずだ。あの時のレオンは、まさにセレナにとっての「希望の光」だったのだろう。
今の俺は、レオンのような輝かしい勇者ではない。むしろ、破滅の運命を背負った悪役だ。
だが、それでも――。
俺は、セレナの震える瞳を見つめ返し、静かに、しかし決意を込めて言った。
「俺が、その証拠になる。俺は、絶対に、あの未来の通りにはならない」
それは、セレナに向けた言葉であると同時に、俺自身への、そしてこの理不尽な運命への宣戦布告でもあった。
悪役貴族アラン・フォルテスとして、定められた物語に抗い、未来を掴み取る。その決意が、今、この薄暗い部屋で、確かな形を持ち始めた気がした。
セレナの紫の瞳が、大きく見開かれる。
そこに映るのは、もう単なる恐怖の対象としての俺ではない。
運命に抗おうとする、異質な存在。
そして、もしかしたら――彼女自身の未来をも変えるかもしれない、小さな、しかし確かな「希望の萌芽」。
ソフィアは、そんな俺たちの姿を、複雑な、しかしどこか温かい眼差しで見守っていた。
彼女の『天眼』が、この瞬間にどのような「情報」を捉えていたのか、俺には知る由もなかったが。




