第35話 引き籠もり
聖都マリエルナの朝は、王都ともラーム村とも違う、清澄な空気と共に訪れる。
グレイン本邸の豪奢なベッドの上で目覚めてから、既に三日が経過していた。
あの忌まわしい倦怠感はすっかり消え――ることはなく、未だに俺の身体を蝕んだままだ。
魔力の状態も変わらずゼロである。
ソフィアが毎日『天眼』で確認してくれているが、回復の兆しは一向に見えなかった。
それでも、外傷や左腕の痺れはほとんど感じなくなり、日常生活を送る分には支障がなくなってきていることも確かだ。
グレイン邸での生活にも少しずつ慣れてきた。
メイドたちはフォルテス邸のエミリーのように怯えることはなく、かといって過度に馴れ馴れしいわけでもない、絶妙な距離感で俺に接してくれる。
執事長のセヴァスさんは、相変わらず隙のない対応力で、毎日定時に俺の様子を伺いに来ては、必要なものを尋ね、的確に手配してくれる。その老練な仕事ぶりには、毎回感心させられるばかりだ。
「……少し出かけるか」
自室の窓から聖都の美しい街並みを眺めながら、俺は呟いた。
この三日間、ソフィアの指示通り安静を心がけ、せいぜい屋敷内を散策するか、彼女の簡単な事務作業(資料の整理や写本の手伝いなど)をする程度で過ごしてきた。それ自体は必要な休息だったのだろうが、焦りがなかったといえば嘘になる。
現状、激しい運動のような無茶をしない、という約束以外に俺を縛るものはない。
安静期間もそろそろ終わりにしても良い頃合いだろう。
何だか王都のグレイン邸にいた時を思い出す。
ただあの時に比べると、比較的自由を与えられ、居心地だって悪くない。
だがあの時行っていた魔法の実験はできない。身体づくりだってできない。
自由度は増したかもしれないが、 肉体的にできることが制限されるもどかしさ。
何か、行動を起こさなければ。
このままでは、ただ時間を浪費するだけになってしまう。
よし、と小さく気合を入れ、部屋を出る。
「どちらへ?」
その瞬間、何故か扉の前にいたソフィアの声が響いた。
「うわっ!?」
思わず間の抜けた声が出た。心臓に悪い。
「……驚かせたようですね。失礼しました」
ソフィアは、特に表情を変えることなく、淡々と謝罪の言葉を口にする。
だが、その青い瞳の奥には、俺の反応を楽しんでいるような色が微かに見えた気がする。
「いや……まあ、いいけど。それで何か用なのか?」
俺は咳払いをして平静を取り繕う。
「いえ、特には。こうして出くわしたのは本当に偶然です」
「偶然……まあ、ちょうど良かった。少し出かけようと思っていたところなんだけど」
俺は誤魔化すようにそう切り出した。
「外出、ですか」
ソフィアは僅かに眉を動かす。
「いや、少し歩き回るくらいはいいだろ?」
何故か弁明する形になる。
「何も言っていませんが」
ソフィアは少し呆れた様子でこちらも見る。
「……じゃあ、行っても?」
俺はおそるおそる尋ねる。
「どうぞ。ただし、条件があります」
やはり来たか。俺はゴクリと唾を飲み込む。
「貴方の身体はまだ完全ではありません。外出は許可しますが、激しい運動や危険な場所への立ち入りは禁止です。そして――」
ソフィアは、その大きな青い瞳で俺を真っ直ぐに見据えた。
「私も同行させていただきます」
「……やっぱりそうなるか」
予想通りの展開に、俺は小さく息を吐いた。ラーム村での一件以来、彼女は俺の単独行動を許すつもりはないらしい。まあ、意識不明になった前科があるのだから当然か。
「貴方は私の補佐役であり、同時に保護対象でもあります。万が一のことがあっては困りますので」
ソフィアは淡々と、しかし有無を言わせぬ口調で理由を述べた。反論の余地はない。
「分かったよ。それで、どこか行きたい場所とかあるのか?」
俺が尋ねると、ソフィアは首を横に振った。
「特にありません。貴方の外出に付き合うだけですから」
あくまで俺の監視が目的、ということらしい。
……さて、どうしたものか
ソフィアの同行を受け入れたはいいものの、俺には聖都マリエルナで特にやりたいことがあるわけではなかった。ラーム村のようにゲーム知識に基づく明確な目標地点があるわけでもない。
聖都に関するゲーム知識と言えば、隠しアイテムやサブクエストの場所くらいだが、ソフィアの監視付きでこそこそと動き回るのは難しいし、そもそも今の俺の体力では無理だ。それに、下手に動き回ってトラブルに巻き込まれるのも避けたい。
「……宛がないのでしたら」
そこまで言ってソフィアは口ごもる。
彼女らしくない態度だ。
「どうしたんだ?」
思わず尋ねる。
「そうですね……会っていただきたい方がいるのです」
「会ってほしい人?」
予想外の言葉に、俺は首を傾げる。
聖都に来てまだ数日、俺に会いたいと思うような人物がいるとは思えない。フォルテス家の人間だから挨拶を、というなら執事長のセヴァスさんだけで十分だろう。
「詳しい話は、直接お会いしてからの方が良いでしょう。ついてきてください」
ソフィアはそれだけ言うと、有無を言わせぬ雰囲気で歩き出した。
俺は一瞬戸惑ったものの、彼女に促されるまま、その背中を追う。一体、誰に会わせようというのだろうか。
行き先は屋敷の外ではなく、館の奥へと続く静かな廊下だった。
俺たちが滞在している東棟とは反対側の、西棟と呼ばれる区画らしい。東棟が来客や執務のための空間であるのに対し、西棟はグレイン家の人々が私的に過ごす居住区のような雰囲気だった。
人の気配は少なく、東棟よりもさらに静謐な空気が漂っている。
「ここって、俺が入っても良かったのか?」
俺は雰囲気に当てられて、聞くまでもない質問をソフィアに飛ばす。
「もちろんです。本件については私に一任されているので」
ソフィアはこともなげに答える。その声は普段通り淡々としていたが、「一任されている」という言葉の響きが、俺の心に妙に引っかかった。誰から、何を、一任されているというのだろう。単に俺の案内役を、という意味だけではなさそうだ。
やがて、俺たちは西棟の奥まった一角、ひときわ装飾が控えめながらも、上質な素材で作られたであろう一つの扉の前で足を止めた。扉の前には人気がなく、ここだけ時が止まっているかのような静寂が漂っている。
「……ここ、なのか?」
「はい」
ソフィアは短く頷き、扉に向き直る。
扉には、磨かれた白木の表面に、銀細工で控えめに蔦の模様が描かれているだけ。華美ではないが、上品で、どこか近づき難い雰囲気を醸し出していた。
「失礼します、ソフィアです」
コンコンと、ソフィアは優しく扉をノックし、中にいるであろう人物に静かに語りかけた。
その声色は、俺に対して話すときよりも、更に柔らかく、慎重な響きを帯びている。
「…………ソフィア?」
扉の向こうから、くぐもった、そして驚くほどか細い声が返ってきた。
少女の声だ。だが、それは来訪者を歓迎する響きではなく、予期せぬ出来事に戸惑い、怯えているような音色だった。
「はい、私です。少しだけ、お話よろしいでしょうか」
ソフィアは、扉に耳を寄せるようにして、さらに優しい声色で語りかける。
「……いまは、だめ……。気分が、よくないから……」
扉の向こうから、消え入りそうな声で拒絶の言葉が返ってくる。
「無理にとは申しません。ですが、今日はお連れした方がいるのです。貴女に会っていただきたいと」
ソフィアは諦めずに続ける。その粘り強さは、普段の彼女からは少し意外に思えた。
「……お客さま? いらない……だれとも、会いたくない……」
少女の声は、さらに震えを増した。扉一枚隔てているだけなのに、彼女の怯えや拒絶感がひしひしと伝わってくる。
「……ソフィア、やっぱり無理強いは良くないんじゃないか?」
俺はたまらず、小声でソフィアに囁いた。こんなに怯えている相手に、無理に会おうとするのは気が引ける。それに、俺自身が招かれざる客であることは明らかだ。
「……」
ソフィアは俺の言葉に反応せず、ただじっと扉を見つめている。その横顔からは、何を考えているのか読み取れない。
しかし次の瞬間、彼女は再び口を開いた。
「セレナ様。実のところ、貴方の力で彼を見て欲しいのです」
「……力?」
扉の向こうで、少女の声が微かに反応した。先ほどまでの怯えた響きとは少し違う、疑問と、ほんのわずかな警戒の色が混じったような声。ソフィアの言葉の「力」という部分に、彼女の意識が向いたのだろう。
「はい。彼の状態は……少し、特殊なのです。貴女のお力なら、何か分かるかもしれません。あるいは、彼が貴女の助けになる可能性も……」
ソフィアの言葉は慎重だった。彼女がなぜ俺を連れてきたのか、その理由の一端が垣間見えた気がした。
「ソフィアでも……見れないの?」
その声には少しだけ好奇心が垣間見えた気がした。
「ええ、そうなんです」
ソフィアは、扉の向こうのセレナ様に向かって、静かに、しかしはっきりと肯定した。
「それに……もしかしたら、彼は貴女と同じような『何か』を抱えているのかもしれません。理解されない苦しみ、制御できない力……そんな孤独を」
ソフィアの言葉は、静かに、しかし確実に扉の向こうの少女の心に響いているようだった。沈黙が落ちる。先ほどまでの拒絶の響きは消え、代わりに葛藤と、そして無視できない好奇心が、扉の隙間から漏れ出してくるような感覚。
数秒か、あるいは数十秒か。長く感じられた沈黙の後。
――カチャリ。
小さな金属音と共に、扉の鍵が開けられる音がした。そして、ギィ……と、重く、軋むような音を立てて、扉がほんのわずか、指一本分ほど開かれた。
その隙間から、覗き込むような一つの瞳が見えた。
大きな、潤んだような紫石英のような瞳。長い前髪に隠れて、顔の全容は窺えない。だが、その瞳には、強い警戒心と、それを上回る好奇心、そして、深い孤独の色が宿っているのが見て取れた。
「……ほんとうに、ソフィアでも見えないの?」
隙間から漏れ聞こえる声は、やはりか細く、自信なさげだった。
「はい、セレナ様。だからこそ、貴女のお力をお借りしたいのです」
ソフィアは静かに、しかし誠実に答える。
扉の隙間の瞳が、ちらりと俺の方へ向けられた。一瞬だけ目が合った気がする。びくり、と彼女の肩が震え、すぐに視線が逸らされる。人見知り、というレベルを超えた、極度の対人恐怖のようなものを感じた。
「……少しだけ、なら」
やがて、諦めたような、あるいは勇気を振り絞ったような小さな声と共に、扉がさらにゆっくりと開けられた。
そこに立っていたのは、俺とソフィアよりも少しだけ年下に見える少女だった。
年の頃は八歳か九歳くらいだろうか。
ソフィアやアイリスのような華やかさはない。色素の薄い銀色の髪は手入れがされていないのか少しパサついており、目の下にはうっすらと隈が見える。着ているのは、寝間着のような質素なワンピースで、明らかに外に出るような服装ではない。
そして何より印象的なのは、その痩せた身体と、生気を感じさせないほど白い肌、そして怯えたように周囲を窺う大きな紫の瞳だった。長い間、陽の光を浴びていないであろうことが、一目で見て取れた。
この少女がヘレナ・グレインの娘――セレナ・グレイン。
『セレスティアル・サーガ』において、聖女の名を冠する『天眼』を持つ少女である。




