第34話 聖都マリエルナ
「そろそろ、聖都マリエルナの領域に入ります」
御者の声と共に、ソフィアが書物を閉じた。俺も窓の外へと視線を向ける。
街道の先に、巨大な白い壁が見えてきた。王都の城壁ほど武骨ではないが、より高く、荘厳な印象を受ける。
壁の表面には、太陽の光を反射して淡く輝く、魔法的な文様のようなものが刻まれているのが遠目にも分かった。あれが、魔王軍の侵攻すら退けたという聖都の結界の一部なのだろうか。
やがて馬車は、壮麗な白亜の門へと到着した。
門の両脇には、白銀の鎧に身を包んだ神殿騎士たちが、槍を手に微動だにせず立っている。
グレイン家の紋章を見た神殿騎士たちは、厳格な動作で敬礼し、俺たちの馬車を速やかに通した。
そして門をくぐると、そこには息をのむような光景が広がっていた。
白を基調とした美しい街並み。建物はどれも高く、繊細な装飾が施されている。
道行く人々は穏やかな表情で、喧騒というよりは、静かな活気に満ちていた。
街の至る所に大小様々な聖堂や修道院らしき建物が見え、空気そのものが清められているかのように感じられる。王都の華やかさや、ヴァラの逞しさとは全く異なる、神聖で、どこか浮世離れした雰囲気。
ここが聖都マリエルナ――。
「……すごいな」
思わず感嘆の声を漏らす。ゲーム画面では決して味わえなかった、圧倒的なスケールと、とても言葉では言い表せない神聖さ。
「グレイン家の本邸は、中央聖堂区にあります。もう少しです」
隣でソフィアが静かに告げる。
彼女の声にも、故郷に戻ってきた安堵のような響きが微かに感じられた。
馬車は、聖都の白く輝く石畳の上を滑るように進んでいく。
道行く人々は、俺たちのような馬車にも驚く様子はなく、穏やかに道を譲ってくれた。すれ違う人々の中には、神官服や修道女の服装をした者が多く見受けられ、ここが信仰の中心地であることを改めて実感させる。
やがて馬車は、ひときわ大きな白亜の壁に囲まれた一角へと入っていった。中央聖堂区――聖都の中枢であり、グレイン家の本邸もこの区画にあるのだろう。他の区画よりもさらに静かで、厳かな雰囲気が漂っている。
何もないのに緊張感が込み上げてくるほどだ。
そして、馬車はある壮麗な屋敷の門の前で停止した。
「着きました。ここがグレイン家の本邸です」
ソフィアの静かな声と共に、馬車の扉が開けられた。先に降りたガルドさんが手を差し伸べてくれるが、俺は自力で地面に降り立つ。まだ完調ではないが、これくらいの動作は問題ない。
改めて見上げるグレイン本邸は、壮麗という言葉が陳腐に聞こえるほど、圧倒的な存在感を放っていた。白亜の壁は汚れ一つなく、磨き上げられた銀のように輝いている。門に施された緻密な紋様は、単なる装飾ではなく、それ自体が強力な魔力を秘めているかのようだ。
「……ここが」
ゴクリと喉が鳴る。王都のフォルテス邸が「力」を象徴する武骨な城塞だとすれば、ここは「祈り」と「叡智」が形になった聖域そのものだ。その清浄で厳かな空気に、自然と背筋が伸びるのを感じる。
「ソフィア様、お帰りなさいませ。長旅お疲れ様でございました」
重厚な門が音もなく開かれ、中から現れたのは、白髪を綺麗に撫でつけた、背筋の伸びた老執事だった。その物腰は極めて丁寧で、しかし隙がない。彼の背後には、数人のメイドや使用人が静かに控えている。
「ただいま戻りました、セヴァス。道中、予定外のこともありましたが、無事に到着しました」
ソフィアはセヴァスに対し、落ち着いた、しかし長旅の疲れを僅かに滲ませた声で答えた。彼女にとって、この老執事は気心の知れた存在なのだろう、普段の鉄仮面のような表情が、ほんの少しだけ和らいで見える。
「そうでございますか……ソフィア様が無事にお戻りになられたこと、何よりにございます。して、そちらの方が件の?」
セヴァスの落ち着いた視線が、俺――アラン・フォルテスへと向けられた。その瞳は老齢にもかかわらず鋭く、まるで値踏みするかのように、俺の佇まい、服装、そしておそらくは内面までも見透かそうとしているかのようだ。
フォルテス家の人間として、そして先の天恵の儀での一件の中心人物として、俺の名はこのグレイン本邸にも届いているのだろう。
「はい、彼がアラン・フォルテス様です。ヘレナ様のご意向により、しばらくこちらでお世話になります。詳細は後ほど改めてご報告しますが、まずは長旅の疲れを癒すことが先決かと」
ソフィアは俺の前に半歩進み出るようにして、セヴァスに応じた。その口調は普段通り淡々としているが、俺を気遣う響きも僅かに含まれている気がした。
「アラン・フォルテス様にございますか。ようこそお越しくださいました。グレイン家執事長、セヴァスと申します。以後、お見知りおきを」
セヴァスは俺に対し、深々と、しかし隙のない完璧な角度でお辞儀をした。その動作には、長年培われてきたであろう礼儀作法が染み付いている。
貴族の子息に対する敬意は示しつつも、その観察するような視線は緩まない。
素人目にも分かる。まさにこのような人物こそが、グレイン公爵家を支えているのだと。
「あ、アラン・フォルテスです。こちらこそ、よろしくお願いします。しばらくの間、厄介になります」
俺は慌てて、貴族としての作法を思い出しながら(といっても付け焼刃だが)挨拶を返す。だが、セヴァスの老練な眼差しの前では、自分の未熟さが見透かされているようで、背中に嫌な汗が滲むのを感じた。
「がっはっは! 堅苦しい挨拶は抜きだ、セヴァス殿! こいつは俺の弟子みてえなもんだ、よろしく頼むぜ!」
不意に、背後からガルドさんの陽気な声が響いた。
彼は俺の肩をバン、と叩きながら、セヴァスに向かっていつもの調子で話しかける。その豪快さは、この厳かなグレイン本邸の雰囲気にはやや不釣り合いに思えたが、彼の存在が場の緊張を少しだけ和らげてくれた気もした。
「これはガルド・ハインツ様。騎士団でのご活躍はかねてより拝聴しております。ソフィア様とアラン様の護衛、大役でございましたね」
セヴァスはガルドさんに対しても、表情一つ変えずに丁寧に応じる。
あのあのソフィアでさえ苦い顔をする、ガルドさんを前にしてもペースを崩すことのないその態度は、流石と言えよう。
「おうよ! ま、こいつらを守るのは当然だが、道中いろいろあってな! 退屈はしなかったってもんだ」
ガルドさんはセヴァスの落ち着きぶりにも構わず、あっけらかんと言い放つ。
「左様でございましたか。道中の詳細につきましては、後ほどソフィア様よりヘレナ様へご報告いただけることと存じます。長旅でお疲れのことと存じますので、まずは皆様、お部屋へご案内いたします。アラン様のお部屋もご用意できております」
セヴァスは流れるような動作でガルドさんの言葉を受け流し、本題へと戻る。
「そうですね、貴方もまだ万全の状態でないようなので、まずはゆっくりと休んで下さい」
ソフィアにも促され、俺はグレイン本邸へと案内される。
「では、ご案内いたします」
セヴァスの静かな声に導かれ、俺たちは壮麗なグレイン本邸の中へと足を踏み入れた。
外観の印象通り、内部もまた白を基調とした清潔感と、神聖な雰囲気に満ちている。磨き上げられた大理石の床は鏡のように光を反射し、高い天井からは柔らかな魔法の光が降り注いでいた。壁には華美な装飾こそ少ないものの、繊細なレリーフや、おそらくは聖書の場面を描いたであろう美しいタペストリーが飾られ、厳かながらも落ち着いた空間を作り出していた。
ここを歩いているだけで、心が洗われるような、あるいは逆に、自分の内面の汚れを突きつけられるような、不思議な感覚に陥る。
「アラン様のお部屋は、東棟の三階にご用意しております。ソフィア様のお部屋の隣になりますので、何かと便宜もよろしいかと」
セヴァスは滑るような足取りで前を進みながら、淀みなく説明を加える。
長い廊下を進み、広々とした階段を上る。すれ違うメイドや使用人たちは皆、物音一つ立てずに動き、俺たちを見ると静かに道を譲り、深々と頭を下げた。
「坊主、お前さん、いい部屋を用意してもらえたじゃねえか! さすがグレイン家は太っ腹だ!」
ガルドさんが、俺の背中を再びバンと叩きながら、悪気なく大きな声を出す。その声が、静謐な廊下にやけに響いた。数人の使用人が一瞬だけ驚いたように肩を震わせたが、すぐに無表情に戻る。セヴァスも、ガルドさんの声には特に反応を示さず、淡々と前を進み続けていた。
「こちらでございます」
やがて、三階の一番奥まった場所にある、白木の美しい扉の前でセヴァスは足を止めた。扉には銀細工で繊細な模様が描かれている。
「どうぞ、お入りください。長旅の疲れを癒せるよう、設えは整えさせております。ご入用なものがございましたら、何なりと室内の呼び鈴でお申し付けください」
セヴァスが扉を開けると、そこには広々とした、明るい部屋が広がっていた。
大きな窓からは聖都の美しい街並みと、遠くに聳える中央聖堂の尖塔が見える。部屋の中央には天蓋付きの大きなベッドが置かれ、壁際には書斎机と、座り心地の良さそうなソファ、そして衣服を収納するための大きなクローゼット。床にはふかふかとした白い絨毯が敷き詰められている。
「……すごいな。ここでいいのか?」
思わず感嘆の声と共に、そんな言葉が漏れた。セヴァスは俺の反応を見て、わずかに口元を緩めたように見えた。
「アラン様は、ヘレナ様が直々にお迎えになられた大切なお客様にございます。当然の設えかと存じます」
「そ、そうですかね」
俺は苦笑するだけに留まる。
別に文句があるわけでもない。
「さて、皆様もお疲れでしょう。アラン様はどうぞこちらのお部屋でごゆっくりお休みください。ガルド様、騎士の方々のお部屋もそれぞれご用意しております。後ほど係の者がご案内いたします」
セヴァスは流れるように告げ、一礼すると静かに部屋を出て行こうとした。
「おう、じゃあ俺も部屋で一休みといくか! 長旅は骨が折れるぜ!」
ガルドさんが大きな欠伸をしながらセヴァスの後を追う。騎士たちも彼に倣って部屋を後にした。最後に残ったソフィアが、俺に向き直る。
「貴方も、まずは休んでください。長時間の移動は、まだその身体には負担だったはずです。夕食の時間になりましたら、またお声がけします」
「ああ、分かった。ありがとう、ソフィア」
彼女も軽く頷くと、静かに扉を閉めて出て行った。
そうして一人になった部屋は、やけに広く、そして静かだった。
俺はふかふかの絨毯の上を歩き、大きな窓へと近づく。窓からは、白亜の聖都マリエルナの街並みが一望できた。幾重にも連なる白い屋根、天を突くように聳える無数の尖塔、そして中央に鎮座する、ひときわ巨大で荘厳な中央聖堂。まるで、おとぎ話の世界に迷い込んだかのようだ。
確か聖都マリエルナにも、役立つアイテムは数多く配置されていた。
しかし――
「勝手に出歩けるような状態じゃないか」
ラーム村ほど気楽に出歩ける気はしない。
それに体調だってまだ万全ではないのだ。
今はただ、この静かな部屋で、旅の疲れを癒し、これからのことに備えるべきだろう。
俺は窓から離れ、大きなベッドへと歩み寄る。シーツは驚くほど滑らかで、柔らかい。
ゆっくりとベッドに腰を下ろし、深く息を吐き出した。
聖都での日々は、まだ始まったばかりだ。




