第27話 騒動後①
意識を失い崩れ落ちたアラン・フォルテスを、フードの男――ダラス・エリオットは、まるで重さを感じさせない動きで抱え上げた。ソフィアは肩の痛みを堪え、短剣を握り直しながら警戒を解かずに男を見据える。
特級冒険者。その肩書に相応しい、底の知れない気配が彼からは漂っていた。
「まずは安全な場所へ。君たちも村長の家に戻るのが賢明だろう」
ダラスはアランを抱えたまま、ソフィアと、少し離れた場所で呆然と立ち尽くす赤髪の少年――ランドへ視線を向けた。その声は落ち着いているが、有無を言わせぬ響きがある。
ソフィアは一瞬躊躇したが、アランの側頭部から流れる血を見て、今は彼の状態を優先すべきだと判断した。
「……分かりました。案内します」
ソフィアは短く答え、先導するように歩き出す。ちらりとランドへ視線を送ると、少年は複雑な表情で地面に残った魔石と、ダラスに抱えられたアランを交互に見つめていたが、やがて唇を噛み締め、無言で後に続いた。
「俺は……」
ランドは何かを言いかけて口ごもり、一度ソフィアとダラスを見た後、決意を固めたように顔を上げた。その赤い瞳には、先ほどの戦闘での恐怖や驚愕とは違う、別の強い感情が宿っているように見えた。
「俺は行かねえ。妹が心配だ。こっちから戻った方が近い」
早口に、しかしはっきりとした口調で言い放つ。彼の視線は、襲撃があった村の中心部の方角を向いていた。無理もない。警鐘は未だ断続的に鳴り響いている。家族の安否を気遣うのは当然のことだろう。
「ふむ」
ダラスは特に表情を変えず、短く息を漏らしただけだった。ランドの行動を咎めるでもなく、ただ静観している。
「……気をつけて下さい。村の騎士たちもいるはずですが、まだ油断はできません」
ソフィアは淡々と告げる。ランドの家族への想いを慮り、それ以上の追及はしなかった。今の優先事項はアランの治療と、村全体の状況把握だ。ランドはソフィアの言葉に頷くこともなく、すぐに身を翻すと、茂みを掻き分け、村の中心部へと続く別の獣道へと駆け出していった。
その背中は、迷いのない速さで闇に溶けていく。
ランドの姿が見えなくなると、ソフィアは再び前を向き、村長の家へと歩を進めた。
ダラスは相変わらずアランを軽々と抱えたまま、音もなくそれに続く。
警鐘の音は徐々に間遠くなり、やがて止んだ。戦闘は終結したのだろうか。しかし、祠周辺の静寂とは裏腹に、村の中心部からは人の叫び声やざわめきが微かに風に乗って聞こえてくる。
村長の家が見えてくると、戸口にガルドと騎士の一人が心配そうな顔で立っているのが見えた。彼らはソフィアの姿を認めると安堵の表情を浮かべたが、その後ろから現れたダラスと、彼に抱えられたアランの姿を見て、即座に表情を引き締め、腰の剣に手をかけた。
「ソフィア嬢! 無事だったか! 坊主は一体……!? それにそちらは何者だ?」
ガルドの鋭い声が飛ぶ。騎士としての警戒心が露わになっていた。
無理もない。見慣れぬフードの男が、主家と関わりのある少年を抱えているのだ。
「ガルド様、ご心配をおかけしました。詳細は後ほど。この方はダラスと名乗る冒険者の方で、我々を助けてくださいました。アラン様は戦闘で負傷し、意識を失っています。すぐに治療が必要です」
ソフィアは冷静に、必要最低限の情報を伝える。ダラスの正体(特級冒険者であること)や、アランが放った異常な力については、今は伏せておくべきだと判断した。情報が錯綜している状況で、余計な混乱を招くのは得策ではない。
「冒険者……? 助けられた……?」
ガルドは訝しげにダラスを値踏みするように見つめたが、ソフィアの言葉とアランの様子を見て、ひとまず剣から手を離した。
「……分かった。とにかく中へ。村長夫妻も心配している」
ガルドに促され、ダラスはアランを抱えたまま家の中へと入る。ソフィアも後に続いた。
家の中では、村長夫妻が不安そうな顔で待っていた。アランの姿を見て、夫人が「まあ!」と小さく悲鳴を上げる。
「アラン様をこちらへ」
ソフィアは村長に案内され、昨日アランが使っていた二階の部屋へと向かう。ダラスはアランをそっとベッドに横たえると、手早く側頭部の応急処置を解き、ソフィアに治療の準備を促した。その手際の良さは、熟練の治癒士か、あるいは戦場の衛生兵のようだ。
「村の方はどうなりましたか?」
ソフィアは治療道具(グレイン家から持参したものだ)を準備しながら、階下に残ったガルドに尋ねた。
ベッドに横たわるアランの顔色は悪く、呼吸も浅い。側頭部の傷は見た目以上に深いのかもしれない。ソフィアは自身の肩の痛みを一時忘れ、意識をアランの治療へと集中させる。
その隣で、ダラスは黙ってアランの様子を見守っている。フードの奥の表情は窺えないが、その佇まいからは依然として底知れない雰囲気が漂っていた。
「ああ、こっちはもう片付いた!」
階下から、ガルドの張りのある声が返ってきた。階段を上がる足音が近づいてくる。
「思ったより数が多かったが、所詮はゴブリンだ。俺たち騎士と、村の若い衆で蹴散らしてやったわ! 怪我人も数人出たが、幸い命に別状はない」
部屋に入ってきたガルドは、状況を報告しながらベッドのアランを見て顔を顰めた。
「しかし、坊主は酷い怪我じゃねえか。一体何があったんだ?」
ガルドの視線が、治療にあたるソフィアと、壁際に静かに立つダラスへと向けられる。
「祠の近くで、別のゴブリンの群れに襲われました。数は5体ほどでしたが、リーダー格もおり……。彼は奮戦されましたが、頭部に打撃を受け……」
ソフィアは事実を簡潔に述べる。アランがただ襲われたのではなく、「奮戦した」ことを強調したのは、無意識の配慮か、あるいは事実を客観的に述べただけか、ソフィア自身にも判然としなかった。彼がゴブリンを二体も倒したこと、特に最後の異常な力は、ソフィアにとっても衝撃的な出来事だった。
「そうか……坊主も頑張ったんだな」
ガルドはアランの頭部に巻かれた血の滲む布を見て、わずかに目を細めた。豪快な彼には珍しく、複雑な表情が浮かんでいる。
「それで、その……ダラス殿、だったか。あんたは一体……?」
ガルドの視線が、再び壁際のダラスへと移る。その声には、助けられたことへの感謝と、同時に拭いきれない警戒心が混じっていた。
「通りすがりの冒険者だ。偶然、彼らの窮地に出くわしただけだ。幸い、間に合ったようだが」
ダラスは淡々と答える。フードは依然として深く、その表情や真意を窺い知ることはできない。
「間に合った、ねえ……。まあいい、助かったのは事実だ。礼を言う」
ガルドは納得しきれない様子を見せつつも、ひとまず矛を収めた。今はアランの治療と、村の事後処理が優先だ。
「それで、ソフィア嬢。お前さんの目から見て坊主の容態はどうなんだ?」
「申し訳ありません。今は私も力が使えず……」
ソフィアは顔をしかめ、額に滲む汗を手の甲で拭った。
『天眼』は強力であるが故に、使用にはそれなりの体力を消費する。先の戦いでの消耗は、ソフィアの幼い身にとってかなりの負荷を与えている。
「打撲による脳震盪の可能性が高いかと。意識が戻るまでは安静にするしかありません。幸い出血は止まりつつありますが……念のため、解毒薬も投与しておきます」
ゴブリンの武器に毒が塗られている可能性も考慮し、ソフィアは小さな小瓶を取り出した。
「俺たちも長居は無用だな。坊主が目を覚ましたら、また様子を見に来る。ソフィア嬢も無理はするなよ。肩の傷もちゃんと診てもらえ」
ガルドはソフィアの肩を一瞥し、気遣う言葉を残すと、部屋を後にした。村の後片付けや負傷者の手当てなど、騎士としてやるべきことはまだ山積みだろう。
部屋には、意識のないアランと、治療を続けるソフィア、そして壁際に佇むダラスだけが残された。
静寂が部屋を支配する。聞こえるのは、アランのかすかな寝息と、ソフィアが包帯を巻く布の擦れる音だけだ。
「……君も消耗しているようだ。少し休んだらどうだ?」
不意に、壁際のダラスが静かに口を開いた。その声は平坦で、感情が読み取れない。
「……お気になさらずとも結構です」
ソフィアは治療の手を止めずに答える。この男への警戒心は解けていなかった。
彼に助けられたのは事実だが、やはり彼の存在は異様すぎる。
「ふむ、そうか」
ダラスはそれ以上何も言わず、再び沈黙した。フードの奥の瞳が、何を捉え、何を考えているのか、ソフィアには知る由もなかった。ただ、その存在が放つ静かな圧力が、部屋の空気を重くしているように感じられた。




