第26話 強者
ゴブリンの棍棒と、俺の開かれた左手がぶつかる――瞬間。
ガンッ、と乾いた衝撃音が響いた。
重く、鈍い衝撃音が、静まりかけた祠周辺の空気を震わせる。
突き出した左拳を開き、掌底へと変化させた俺の一撃は、ゴブリンの身体を大きく弾き飛ばした。
ドサッ、と鈍い音を立てて地面に叩きつけられたゴブリンは、一瞬ピクリと痙攣したかと思うと、すぐにその緑色の身体を急速に黒ずませ、ボロボロと崩れながら黒い粒子となって霧散していく。
後には、くすんだ灰色の魔石が一つ、コトリと転がった。
「……はっ、は……ッ!」
勝った。
朦朧とする意識の中で、確かに理解した。
拳を、いや、手のひらを見下ろす。微かに金色の光が残滓のように揺れている。
一体、何が起こったのか。先ほどの右拳の時とは明らかに違う、身体の奥底から湧き上がるような力の奔流。だが、それを深く考える余裕はなかった。
「はぁ……っ、はぁ……!」
全身の力が抜け、今度こそ俺はその場に膝をついた。
左腕が、まるで自分の体の一部ではないかのように重く、ジンジンと痺れている。先ほどの右拳の比ではない。骨の髄まで響くような鈍い痛みと、言いようのない倦怠感が全身を襲う。
そして何より、頭が割れるように痛い。
こめかみを伝う生暖かい感覚は止まらず、視界はまだチカチカと点滅を繰り返している。意識を保っているのが不思議なくらいだ。
「マジかよ……」
ポツリと、背後から呆然とした声が聞こえた。ランドだ。
彼は木の棒を握りしめたまま、ゴブリンが消えた場所と、膝をつく俺の姿を、信じられないものを見るような目で交互に見つめている。その赤い瞳には、恐怖の色は薄れ、代わりに驚愕と、ほんのわずかな戸惑いが浮かんでいた。
「ッ、今すぐ手当を!」
ソフィアが珍しく慌てた様子でこちらに駆け寄ってくる。
彼女は肩の傷を押さえ、顔をしかめながらも、俺の側頭部の傷を見て息を呑んだ。その青い瞳には、普段の冷静さはなく、明らかな焦りの色が浮かんでいる。
「動かないでください! すぐに止血を……!」
ソフィアは懐から清潔な白い布を取り出し、俺のこめかみに当てようとする。しかし、その手つきはどこかぎこちなく、彼女自身も負傷している影響が見て取れた。
「ソフィア……お前こそ、肩の傷が……」
掠れた声で言うと、彼女は「私のことは後です!」と、やや強い口調で遮った。
その時だった。
――ガササッ!
俺たちが完全に油断していた、祠の裏手、深い茂みの奥から、新たな気配と物音が響いた。
まさか……まだいたのか!?
「ッ!?」
ソフィアが弾かれたように顔を上げ、ランドも警戒して身構える。
だが、遅い。
茂みを掻き分け、先ほどの個体よりも一回り大きく、醜悪な顔つきをしたゴブリンが、低い唸り声を上げながら姿を現したのだ。
その手には、他のゴブリンが持っていた錆びた得物とは違う、使い込まれた様子の手斧が握られている。おそらく、この群れのリーダー格だったのだろう。仲間が全滅したことに気づき、潜んでいた場所から飛び出してきたのだ。
不味い……っ!
今の俺は、もはや指一本動かすのも億劫なほど消耗している。ソフィアも負傷しており、連続した戦闘は不可能だろう。ランドは武器と呼ぶには心許ない木の棒しか持っていない。
「くっ……!」
何とか力を振り絞り立ち上がろうとするが、すぐによろめき腰を落とす。
何か、何か使えるものはないか……!
思考をフル回転させ、ありとあらゆる可能性を探す。
しかし、今の俺達にできることは何一つなかった。
ゴブリンは、ゆっくりと、しかし確実にこちらへと歩み寄ってくる。その濁った瞳は、最も弱っている俺を、最初の獲物として捉えているようだった。涎を垂らし、手斧を振り上げる。
万事休すか――そう思った、まさにその時。
シュッ――。
鋭い風切り音と共に、何かがゴブリンの眼前を掠めた。
それは、一本の投げナイフ。
ゴブリンは驚いて動きを止め、ナイフが飛んできた方向――木立の影へと視線を向ける。
「……間に合った、とは言い難い状況のようだな」
落ち着いた、しかしどこか皮肉めいた響きを含む声が、静かに空気を震わせた。
木陰からゆっくりと姿を現したのは、昨日、天恵の儀を見学していたあのフードの男――ダラス・エリオットだ。
彼は相変わらずフードを目深に被っているが、その手には鈍い銀色の光を放つ短剣が二本、逆手に握られている。
リーダー格のゴブリンは、突如現れた新たな邪魔者に警戒し、低い唸り声を上げながら手斧を構え直す。その濁った瞳は、ダラスの力量を測ろうとしているかのようだ。
「ほう、少しは骨がありそうだな。まあ、時間の無駄だが」
ダラスはまるで独り言のように呟くと、ふっとその場から姿を消した。
いや、消えたのではない。常人では目で追えないほどの速度で、ゴブリンとの間合いを一瞬で詰めたのだ。
ゴブリンが反応するよりも早く、ダラスの持つ二本の短剣が閃く。
銀色の軌跡が複雑に交差し、空気を切り裂く甲高い音が連続して響いた。
まるで流れるような、舞うような動き。それは暴力的な戦闘というよりは、洗練された芸術の域にすら達しているように見えた。
グ……ガ……。
ゴブリンは、何かを言おうとしたのか、あるいは悲鳴を上げようとしたのか。だが、その声は途中で途切れ、その大きな身体は力なく前のめりに崩れ落ちる。
次の瞬間、ゴブリンの身体には無数の深い斬撃痕が現れ、そこから黒い粒子が激しく噴き出し始めた。霧散する速度は、先ほどの雑魚ゴブリンたちとは比べ物にならないほど速い。あっという間にその巨体は形を失い、後には一回り大きな魔石だけが残された。
わずか数秒。
リーダー格と思われたゴブリンは、文字通り瞬殺されたのだ。
「……」
俺も、ソフィアも、そしてランドも、ただ呆然とその光景を見つめることしかできなかった。
これが、特級冒険者の実力……。次元が違う。ガルドさんのような熟練の騎士とも、ソフィアの『天眼』を用いた精密な戦闘とも違う、圧倒的な個の力。
「さて」
ダラスは短剣についた(ように見えた)血糊を軽く振って払うと、何事もなかったかのように俺たちの方へと向き直った。逆手に持った短剣を腰の鞘へと流れるように納める。
「怪我人はいるようだが、大事ないか?」
フードの奥から、落ち着いた声がかけられる。先ほどの皮肉めいた響きは消え、純粋に状況を確認するような口調だった。
「だ、大丈夫です……助かりました、ありがとうございます」
俺は膝をついたまま、何とか声を絞り出して礼を述べた。頭の痛みが酷く、視界がまだ少し揺れている。
「……大丈夫そうには見えないが」
ダラスは短く言うと、俺のそばに屈み込み、ソフィアが当てようとしていた布を慣れた手つきで受け取ると、手早く俺の側頭部の傷を確認した。
「ふむ、打ちどころが悪かったようだな。骨に異常はなさそうだが、出血が多い。すぐに圧迫止血が必要だ」
彼は懐から別の清潔な布と、小さな革袋を取り出すと、革袋の中から薬草らしきものを少量取り、布に塗りつけて俺の傷口に強く押し当てた。ひんやりとした感触と、薬草のツンとした香りが鼻をつく。
「少し染みるかもしれんが、我慢しろ」
有無を言わせぬ口調だが、その手際は驚くほど的確で、無駄がない。これが冒険者としての経験なのだろうか。
「次は君か」
ダラスは俺への応急処置を終えると、立ち上がり、肩を押さえているソフィアへと視線を移した。
「……これくらい、自分でできます」
ソフィアは警戒心を隠さずに答える。彼女はダラスの素性も目的も知らない。突然現れて圧倒的な力を見せたこの男を、信用できないのも当然だろう。
「そうか? だが、その震えでは傷口を綺麗にするのも難しいだろう。毒にでも侵されたら厄介だぞ」
ダラスの指摘は的確だった。ソフィアはわずかに顔を顰め、自分の肩を見下ろす。おそらく、自分でも気づかないうちに震えが出ていたのだろう。
「……失礼する」
ダラスはソフィアの返事を待たずに近づき、彼女の肩の傷を確認する。ソフィアは一瞬身を固くしたが、抵抗はしなかった。
「幸い、傷は深くない。だが、錆びた武器で斬られたとなると、破傷風の危険もある。これも塗っておけ」
ダラスは再び革袋から別の軟膏を取り出し、ソフィアに手渡した。ソフィアは黙ってそれを受け取り、自分の傷口に塗り始める。
その間、ランドは少し離れた場所で、木の棒を握りしめたまま、ただ俺たちとダラスのやり取りを複雑な表情で見つめていた。彼の赤い瞳には、先ほどの驚愕に加え、力の差を目の当たりにしたことへの悔しさや、見知らぬ強者への警戒心が入り混じっているように見えた。
「あの……村の方は?」
未だカンカンと鳴り響く警鐘の音に、俺は不安を押し殺しながらダラスに尋ねた。祠周辺の脅威は去ったかもしれないが、村本体が襲われている可能性は依然として高い。
「ああ、そちらは問題ないだろう」
ダラスは事もなげに答えた。フードの奥の表情は読めないが、その声には確信のような響きがある。
「問題ない、というのは?」
ソフィアが、肩の処置をしながら訝しげに問い返す。
「村には君たちの騎士が対処をしている。それにこちらへ到着する少し前に、ゴブリンの小規模な群れが村に接近しているのを偶然見かけてね。数が多く、面倒だと判断したので、少しばかり"掃除"をしておいた」
ダラスはこともなげに言う。まるで、道端のゴミ拾いでもしたかのような口ぶりだ。だが、その「掃除」が意味するところは、想像に難くない。彼ほどの腕があれば、ゴブリンの群れ程度、文字通り一掃できるだろう。
これが特級と称される冒険者なのか。
ゲーム本編にも登場しないのが不思議なくらいだ。
「とにかく、今は休むと良い。特に君はな」
ダラスは俺にそう投げかける。
色々と聞きたいことがあったが、正直もう限界だ。
彼がいる限り、もう俺達に危険は訪れないだろう。
そう実感した途端、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れ、気絶するように俺は意識を手放した。




