第24話 襲来
「ご、ゴブリン……ッ!」
祠の入り口、ランドとは逆方向の茂みから現れた緑色の醜悪な姿に、俺は思わず声を上げて後退った。
しかも、それは一体どころではない。
二体……いや、茂みの奥からぞろぞろと、湿った土を踏みしめる不快な音と共に姿を表す。
最終的には五体ほどのゴブリンが、涎を垂らしながら姿を現した。
その手には錆びた剣や棍棒が握られ、濁った瞳がギラギラと俺たちを捉えている。
カン、カン、カン! カン、カン、カン!
村の方角から鳴り響くけたたましい警鐘の音が、事態の異常さを裏付けていた。これは単なる偶然の遭遇ではない。村が、複数の魔物に襲われている可能性が高い。
「なんでゴブリンが……!」
視線の端に、立ち尽くすランドの姿が映る。
彼は先ほどのソフィアとの口論での激昂が嘘のように、顔面蒼白で、ただ目の前のゴブリンを見つめていた。その赤い瞳からは闘志が消え失せ、恐怖と絶望の色だけが浮かんでいる。
「おい、ランド!」
思わず声をかけるが反応しない。
まだ10歳にも満たない少年だ、恐怖を感じるのも無理はない。
しかし俺も言えた義理ではなかった。足は竦み、心臓が喉元までせり上がってくるような感覚。
昨日の遭遇とは違う。護衛はいない。目の前にいるのは、紛れもない敵意と、飢えた獣のような殺意を放つ魔物の群れだ。
「落ち着いて下さい!」
隣からソフィアの鋭い声が飛ぶ。
彼女は既に腰に下げていた細身の短剣を抜き放ち、俺の前に立ちはだかるように低い姿勢をとっていた。その表情は緊張で硬いが、瞳には冷静な光が宿っている。
「ソフィア……」
だが、よく見れば、短剣を握る彼女の白い指先は微かに震えていた。額には玉のような汗が浮かんでいる。冷静さを装ってはいるが、彼女とて恐怖を感じていないわけではないのだ。それでも、俺を、そして動けないランドを守ろうと、この状況を打開しようと、必死に自分を律しているのが痛いほど伝わってきた。
「……数は五体。動きに統率は見られません。おそらくはぐれの群れでしょうが、それでも油断はできません」
ソフィアは短剣を構えたまま、おそらく『天眼』で得た情報を冷静に口にする。
「村からの警鐘が続いています。すぐに助けが来るとは考えない方がいいでしょう。つまり……我々だけで対処する必要があります」
俺達だけで……?
護衛もいないのに、まだ子供の俺たちだけで、五体のゴブリンを相手にする? 無無茶だ。無謀すぎる
「できないなら死ぬだけです」
そんな俺の思考の深層を正確に読み取ったかのように、ソフィアの冷徹な言葉が、恐怖で凍り付いていた俺の鼓膜を突き刺した。
死ぬ。その言葉が、妙に現実味を帯びて迫ってくる。ゲームの「ゲームオーバー」とは違う、取り返しのつかない、絶対的な終わり。
ギャアァ!
思考する間もなく、最も近くにいたゴブリンの一体が、奇声を上げながら棍棒を振り上げ、立ち尽くすランドへと襲いかかった。
「ランド、危ない!」
叫ぶが、ランドはまだ恐怖から抜け出せないのか、動けない。
その瞬間――。
「させません!」
閃光のような動きで、ソフィアがランドの前に飛び出した。
振り下ろされる棍棒の軌道を、『天眼』で見切っていたのだろう。
紙一重で受け流すのではなく、最小限のステップと体捌きで完全に回避する。同時に、攻撃によってがら空きになったゴブリンの脇腹へ、回転の勢いを乗せた鋭い突きを、迷いなく短剣で叩き込んだ。
グギャッ!
肉を抉る鈍い音と短い悲鳴と共に、ゴブリンが前のめりに倒れ込み、その身体は黒い粒子となって霧のように霧散し始めた。魔石だけが、コトリと地面に転がる。
すごい……!
これがソフィアの実力か。彼女の動きは、まるで精密機械のように無駄がなく、そして恐ろしく効率的だった。『天眼』で相手の動きを完璧に読み切っているからこその芸当だろう。
だが、感心している場合じゃない。
まだ敵は四体もいるのだ。
一体を鮮やかに仕留めたソフィアに、残りのゴブリンたちが、獲物を横取りされた怒りと、仲間をやられた憎悪に目をぎらつかせ、別の二体が左右から同時に襲いかかってきた。連携などという高度なものではない、ただの数の暴力だ。
「散り行く星の残光、集いし希望の――」
俺は咄嗟に、震える唇で魔法の詠唱を始める。
光球でもいい、何か、少しでも援護を! 目眩ましくらいにはなるはずだ!
だが、ゴブリンの動きは俺の詠唱よりも遥かに速い。
残りの一体が、ソフィアを無視し、明らかな格下と判断したのだろう、汚い爪を振り上げ、詠唱中で隙だらけの俺へと一直線に飛びかかってきた。
「――っ!」
詠唱を中断し、咄嗟に後ろへ飛び退くように身を捩る。
頬を、生暖かい風と腐臭が掠めた。ゴブリンの爪が、あと数センチずれていたら、俺の顔を引き裂いていただろう。
――くそっ、詠唱が長すぎる!
ゲームでは強力な武器だったはずの魔法が、この現実の戦闘では、致命的な隙にしかならない。
その懸念は確かにあった。だがこうして実際に体験させられるなんて、そこまで現実的に考えていなかった。
その時、俺に襲いかかってきたゴブリンが、横から鈍い衝撃音と共に吹き飛ばされた。砂埃を上げて地面を転がる緑色の塊。
見ると、ソフィアが二体のゴブリンを相手にしながらも、一瞬の隙を見て体当たりを敢行し、俺を助けてくれたらしい。
しかし、その代償は大きかった。
一瞬の隙を突かれ、ソフィア自身の肩口を、別のゴブリンの錆びた剣が浅く、しかし確実に切り裂いていた。
「ソフィア!」
彼女の白い旅装に、じわりと赤い染みが広がる。
ソフィアは苦痛に顔を歪めながらも、即座に体勢を立て直し、短剣で相手を牽制する。だが、明らかに動きが鈍っていた。負傷と、数の不利。いくら『天眼』があっても、このままでは……!
「……う、うわあああああああッ!」
突如、ランドが絶叫した。
恐怖に歪んでいた彼の顔は、今は怒りと、屈辱と、そして何かを守ろうとする必死さが入り混じった、凄まじい形相に変わっている。
彼は握りしめていた木の棒――昨日、俺を威嚇した時と同じ、ただの太い棒きれを振りかぶり、ソフィアを切りつけたゴブリンへと、がむしゃらに殴りかかっている。
バキィッ! ゴッ!
木の棒がゴブリンの頭部を強かに打ち据える。
鈍い音が響き、ゴブリンが怯んだように後ずさった。
だがランドの攻撃は、剣術も何もない、ただの力任せの殴打だ。
まだ未熟な身体である彼の攻撃は、例え低級魔物のゴブリンが相手であっても、致命傷にはなり得ない。
「お、お前らみたいなのに……負けてたまるかぁ!」
ランドは吠えながら、なおもゴブリンに殴りかかる。
だがやはり、ゴブリンの動きを鈍らせることはできても、倒すまでには至らない。ゴブリンも痛みと怒りで反撃に移ろうとしている。
次期にそのわずかな優位性も失われ、反撃を喰らうことになるだろう。
――俺も……俺も、何かしなければ!
ランドの予想外の加勢と、ソフィアの負傷、そして自身の無力さ。その光景が、俺の中の恐怖をわずかに押し退けた。
ここで何もしなければ、俺たちは死ぬ。ソフィアも、ランドも、そして俺も。それだけは、絶対に嫌だ。
大きく息を吸い込み、そして肺の底からゆっくりと吐き出す。恐怖で震える手足に、無理やり力を込める。
――焦るな、落ち着け、集中しろ。
思い出す。
ゲームの動きを、そして短期間ながらも費やしたあの時間を。
「ランド、そいつをこっちに押し出せ!」
俺は腹の底から声を張り上げた。
ランドが俺の指示を理解したか、あるいは単にがむしゃらに暴れた結果なのかは分からない。だが、彼が殴りつけていたゴブリンは、よろめきながらも確かに俺の方へと体勢を崩した。
――今だ!
体勢を低く、拳を握り、
俺は大地を蹴った。狙うは、がら空きになったゴブリンの胴体。
「うおおおおおおッ!」
腹の底からの雄叫びと共に、右拳を突き出す。
ゲームの知識、ガルドから伝授された力の込め方、そしてこの状況を打開したいという強い意志。その全てが、俺の身体を突き動かす。まるで、そう動くのが当然であるかのように、俺の身体は流れるように最適化された動きを描いていた。
そして、脳裏に焼き付いたあの名を、俺は叫ぶ。無意識に、しかし確信を持って。
「――強撃!!」




