第19話 岐路に立つ者
翌朝、ラーム村は静かな興奮に包まれていた。
村で唯一の鐘楼から、古びた鐘の根がカーン、カーンと鳴り響く。それは年に一度、この村の未来を占う「天恵の儀」の始まりを告げる合図だった。
「……始まるのか」
村長宅の一室で、俺は窓の外から聞こえてくる鐘の音に耳を済ませていた。
自分のことではないにも関わらず、どくどくと心臓が早鐘を打つ。あの王都の大神殿での忌まわしい記憶――好奇と侮蔑の視線、疑惑の声、そして父の冷たい宣告――が、鐘の音と共に蘇りそうになる。トラウマというのは、こうも簡単に、そして執拗に心を蝕むものらしい。
「準備はよろしいですか?」
扉の外から、ソフィアの静かな声が聞こえた。俺は深呼吸をして、込み上げてくる嫌な感情を無理やり押し込める。
「ああ、大丈夫だ」
扉を開けると、そこには昨日と同じ濃紺の旅装に身を包んだソフィアが立っていた。その手には、鑑定に使うのであろう水晶球が握られている。王都の儀式で使われたものよりはるかに小さく、装飾もないシンプルなものだ。
「顔色が優れませんが」
「いや、何でもない。行こう」
俺はソフィアの視線を避けるようにして先に歩き出した。彼女の『天眼』は、俺の内心の動揺などお見通しなのかもしれないが。
村の中心にある小さな広場には、既に村人たちが集まっていた。皆、普段の農作業着ではなく、少しだけよそ行きの服を着ている。その表情は、緊張と期待、そしてわずかな不安が入り混じり、固唾を飲んで儀式の始まりを待っていた。子供たちの未来が、今日この場で決まるのだ。その重みが、広場の空気を支配していた。
広場の中央には、粗末だが清められた様子の木の台が置かれ、その上にソフィアが持ってきた水晶球が設置される。王都の大神殿のような荘厳さはない。だが、村人たちの切実な祈りが込められた、神聖な空間であることは間違いなかった。
「ソフィア様、アラン様、よろしくお願いいたします」
村長が、昨日よりもさらに畏まった様子で深々と頭を下げる。その隣には、対象となる三人の子供たちが、緊張した面持ちで立っていた。二人の男の子と、一人の女の子。皆、俺と同じくらいの年齢だろうか。着ている服は継ぎ接ぎだらけだが、綺麗に洗濯されている。
「では指示のとおりにお願いします」
そう言った後、ソフィアは広場の中心に向かっていった。
俺は、ヘレナ様から言われた役割を思い出し、広場の入口近くにガルドさんたちが運んでくれた小さな折り畳み式の椅子を置く。
その隣には、もう一つ小さな台を用意し、羊皮紙とインク壺、そして先端を整えた羽根ペンを準備する。
これが、俺の最初の「補佐役」としての仕事だ。儀式を見に来るかもしれない村外からの観覧者の案内と、授けられた天恵を記録すること。マルチタスク、というほどではないが、気を抜かずにやらなければならない。
ふと、俺は広場の隅に視線を走らせた。昨夜遭遇した少年、ランド・ガリオンの姿を探してしまう。赤髪は目立つはずだが、集まった村人の中には見当たらない。彼は儀式には参加しないのだろうか? それとも、まだ来ていないだけか。
「それでは、ラーム村、天恵の儀を執り行います」
村長の厳かな声が響き、広場がしんと静まり返る。
「最初の者、前へ」
村長に促され、一番年長に見える男の子がおずおずと前に進み出た。名前はトーマと言うらしい。彼はソフィアの指示に従い、震える手で水晶球に触れる。
ソフィアの右目が、淡い黄金色に輝く。『天眼』の発動だ。
広場の誰もが息をのみ、ソフィアの言葉を待つ。俺もまた、固唾を飲んで見守っていた。
数瞬の静寂の後、ソフィアの瞳の輝きが収まる。
「トーマ・グラン。貴方の天恵は……『剛力』です」
その言葉に、広場から「おおっ!」という歓声と、安堵のため息が漏れた。トーマの父親らしき男が、感極まったように目元を拭っている。
剛力――身体能力、特に筋力を向上させる天恵だ。シンプルだが、農作業や力仕事が主体のこの村では、非常に実用的で歓迎される力だろう。戦いにおいても役立つはずだ。トーマ自身も、緊張から解放されたように、はにかんだ笑顔を見せた。
俺は羽根ペンをインクに浸し、羊皮紙に「トーマ - 剛力」と慎重に書き記す。この記録が、彼らの人生の新たな始まりを記すものになるのだろう。
ふと、自身のことを思う。果たして俺は、あの王都でどのように記録されたのだろうか。「読み取れません」と、ただそれだけ記されたのだろうか。
「次、ニア」
次に進み出たのは、小柄な女の子だった。彼女もまた、緊張で顔をこわばらせながら水晶球に触れる。再びソフィアの『天眼』が輝き、そして結果を告げた。
「ニア・ベル。貴方の天恵は……『豊穣』です」
今度は、先ほどとは違う種類のどよめきが起こった。
豊穣――ゲーム上には出てこない天恵だ。名前で判断する限り、作物の成長を促したり、収穫量を増やしたりする効果がありそうだ。
戦闘には全く役に立たないが、この村にとっては『剛力』以上に価値のある、まさに恵みの力だ。
「ニア、良かったな!」
「ありがとう、ニアちゃん!」
村人たちから祝福の声が上がる。ニアは、自分が授かった力の意味を理解したのか、ぱっと顔を輝かせ、母親の元へ駆け寄っていった。母親は娘を抱きしめ、涙を流して喜んでいる。
「ニア - 豊穣」と羊皮紙に書き加えながら、俺はペン先をインク壺に戻す。
「……これが一般的な天恵の儀なんだろうな」
俺は羊皮紙に最後の一文字を書き加えながら、小さく息をついた。
祝福と安堵に満ちた広場の空気は、あの王都の儀式とはまるで違う。ここには疑心暗鬼も、悪意に満ちた囁きもない。ただ、授かった力への純粋な喜びと、未来へのささやかな希望があるだけだ。
さて、最後の一人、というところで、ふと広場の入口に気配を感じた。
視線を向けると、そこに一人の人物が音もなく静かに立っていた。いつの間に現れたのだろうか。広場のざわめきに紛れていて、全く気づかなかった。
フードを目深にかぶっており、顔の大部分は影になって見えない。だが、その身に纏っているのは、明らかに上質な素材で作られた濃紺のマント。裾には銀糸で控えめな刺繍が施されており、村の雰囲気からは完全に浮いていた。村人ではない。おそらく貴族か、あるいは類する、特別な身分の者だろう。
「失礼、本日は何かの催しですか?」
落ち着いた、しかしどこか底冷えのするような、まるで磨かれた鋼のような響きを持つ声で、その人物が俺に話しかけてきた。
声質から男であることは伺えるが、年齢まで判断するのは難しい。
「はい、本日はこの村の子供たちの天恵の儀が執り行われています」
俺は補佐役としての役割を思い出し、立ち上がって丁寧に応対する。
「ほう、天恵の儀……」
フードの人物は興味深そうに呟き、視線を広場の中央、ソフィアとこれから儀式を受けるエルモへと向けた。その視線は、単なる好奇心だけではない、何かを探るような鋭さを帯びているように感じられた。
「私は通りすがりの旅の者だが、運良く貴重な瞬間に立ち会えたようだ。少し拝見してもよろしいかな?」
「もちろんです。ただ、もう最後の一人を残すのみになりますが」
「ああ、構わない」
「ではあちらでご覧いただけますでしょうか」
俺は広場の後方、他の村人の邪魔にならず、儀式も見やすいであろう木陰を手で示す。
「承知した。感謝する」
フードの人物は短く答え、俺が示した場所へと静かに移動した。その間も、彼の視線はソフィアと水晶球に注がれているように見えた。
見るからに怪しい……俺が転生者で、余計な知識を持っているからだろうか。
「では、最後の者、エルモ、前へ」
村長の声が響き、俺たちの短いやり取りは中断された。エルモと呼ばれた少年が、深呼吸を一つして、水晶球へと歩み寄る。フードの人物は、腕を組み、その様子を静かに見守っている。彼の纏う空気が、広場の片隅だけ、妙に冷たく感じられた。