第2話 決意の朝
笑い声が、不快なほど耳に残る。
三人の少年が、一人の小柄な生徒を取り囲んでいた。
赤髪の生徒は、泥で制服を汚し、その素肌にはいくつもの生傷が刻まれている。
どうやら彼らは寄ってたかって、あの生徒をいじめているようだった。
その真ん中に立っていたのは、金色の髪をもつ幼い少年。周囲を取り巻く二人の取り巻きは、彼を“アラン様”と呼んでいる。
「ほら、何か言い返せよ」
「アラン様の言うことが聞けないなら、その分、痛い目見るだけだぞ」
取り巻きが嘲笑を漏らし、赤髪の生徒の肩を乱暴に突く。生徒は必死に耐えているようだが、限界は近いように見えた。
そして次の瞬間――不意に赤髪の生徒が取り巻きを突き飛ばした。まさかの反撃に、取り巻きの一人がバランスを崩す。
そしてアラン自身も大きく横に押され、地面へと転倒する。
「……っ、何しやが――」
言葉を荒げようとしたところで、頭に鋭い痛みが走り、視界がぐらりと傾く。
遠くから誰かの呼ぶ声が聞こえた気がしたが、意識は闇へ沈んでいった。
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はっと息を呑み、俺は目を開いた。
硬い床に倒れ込んだときの感覚が、まだ生々しく残っている。
しかしここは学院の中庭ではなく、柔らかいベッドの上。
豪奢な天蓋と淡い朝日の光が、半ば現実感を奪うように映り込んでいた。
汗ばむ額に手を当てると、あの“旧アラン”の記憶が断片的に脳裏を駆け巡る。
自分がいじめに加担していたこと、そして反撃をくらい気絶したらしいこと――すべてが夢のような、しかし確かに自分のものではない現実の記憶だった。
あれが、一昨日の怪我の原因か。
妙な納得と同時に、胸の奥に鋭い罪悪感が芽生える。
やはり、俺は正真正銘あの“アラン・フォルテス”なのだ。
……はあ、目覚めて早々嫌な気分だ。
重い体を起こし、ベッドサイドに置かれた水差しに手を伸ばす。
冷たい水を口に含むと、少しだけ思考がクリアになった気がした。
――しかし、よりにもよって。
記憶を思い起こし、頭を抱える。
罪悪感もそうだが、それ以上に重要なことがあった。
あのアランに虐められていた赤髪の少年のことだ。
――レオン・アルディ。
今の彼を評価するなら小柄で気弱、そんなどこにでもいそうな男の子だ。
でも、俺はこの世界の真実を知ってる。
あいつがこの『セレスティアル・サーガ』の――主人公だってことを。
「マジかぁ……」
主人公レオンと敵対。
この世界で生きていくうえで、最悪な展開の1つだろう。
何しろ主人公には絶対に勝てない。そう運命が決まっているのだから。
そもそもアランの破滅は、彼との対立の結果に依るものだった。
主人公であるレオンの邪魔ばかりしていたのだから、当然の帰結だろう。
逆に考えると、レオンと良好な関係を築ければ、その悲劇を回避できるのでは――そう思っていたんだが。
まさかそれが、十年以上も前から続く因縁だったとは想定外だった。
しかもあの様子だとあのイジメが初めてのことではなさそうである。
となると、関係修復は……難しいだろう。
「……そんな、簡単な話じゃないよなぁ」
アランとして転生した以上、今後もこういったことは付きまとってくるのだろう。
こと人間関係においては、この時点から既にハードモードに突入していた。
枕元にあった手拭いで額の汗を拭いながら、ゆっくりと上体を起こす。
まだ身体には怠さが残っているが、いつまでも寝ているわけにはいかない。
さて、これからどうするべきか。
軽く伸びをしつつ、これからのことを考える。
そんなタイミングで声が聞こえた。
「アラン様、失礼いたします」
昨日も顔を合わせた亜麻色の髪を三つ編みにした少女――エミリーが、扉を開けてそっと入ってくる。
彼女は俺を目にすると、少し驚いたように息をのんだ。
「お目覚めになられていたのですね。お体の具合は……いかがでしょうか?」
おずおずとした声色には、やはりどこか怯えがにじんでいる。
こればかりは一朝一夕でどうにかなるものでもなく、積み重ねによって改善していくしかないのだろう。
「ああ……おかげさまで、だいぶ楽になった」
努めて穏やかな口調で答えると、やはりエミリーは戸惑った表情を見せる。
「えっ? は、はい! それは、良かったです」
声が裏返ってしまったのか、彼女は咄嗟に俯いて、両手をぎこちなく胸元で組んだ。
まるで“何かの罠ではないか”と身構えているようでもある。
その様子に、内心苦い笑みを浮かべる。
そりゃあ今までの“アラン・フォルテス”がどうだったかを考えれば……こうなるか。
だが、俺としては“ほとんど初対面のメイド”に悪態をつけるだけの図太さはもはや持ち合わせていない。
それに下手な演技をして返って変に思われそうだ。
気まずい沈黙が数秒流れ、なんとか気を取り直すように微かに咳払いをする。
「……そ、そういえば、父上は?」
無理やり話題を変えつつも、俺は聞きたい情報を口にした。
「ええと、昨晩から執務でお忙しいようでして……まだ帰館しておりません」
どうやらフォルテス家当主であるアランの父・マルクは不在のようだった。
マルク・フォルテスといえば、ゲーム上でも登場する人物の一人であり、奔放なアランとは違って厳格で公正な人物として描かれていた。
軍部を司るフォルテス家の名に恥じぬ騎士道と武勲を誇り、自他にも相当に厳しい態度を貫く様はまさに騎士の鑑と言えるだろう。
ゲーム上においてもかなりの重要人物だった。
「……何か御用でしたか?」
「い、いや」
エミリーのそんな問いに慌てて首を振る。
確か原作において父子関係は険悪だったはずだ。
自堕落なアランと厳格なマルク。相容れないのも当然とも言える。
だからこそ、今は顔を合わせなくて済むことに正直安堵していた。
とても今の自分では、あの父の前に立つなんて……想像するだけで恐ろしい。
せめてレオンとして転生していれば、進んで接触を図りたかったものだというのに。
「さ、最近見てないと思ったから……まあ、そういうことなら、仕方ないか」
平静を装いつつ、そう返す。
エミリーとしては少し不思議そうなこちらを見つめてはいたが、そのことについて追求することはなく、小さく息をついた後に、口を開く。
「あの……失礼ですが、アラン様は、本日はどうなさいますか……? 学院に行かれるのでしょうか」
「学院……か」
俺はその言葉をきっかけに記憶を探る。
そういえばアルスは超名門の学校に通っていたな。確か名前は――。
――王立セレスティア学院。
それは、このセレスティア王国において、将来有望な若者たちが集う、最高峰の学び舎。
騎士科、魔法科、戦術科など、様々な分野の学舎が立ち並び、国内のみならず、近隣諸国からも多くの若者がその門を叩く。
貴族の子弟が多いこともあり、華やかな社交場としての側面も持ち合わせているが、実力主義の気風が強く、優秀な者には身分に関わらず、相応の地位と名誉が与えられるとされていた。
しかし、俺にとっては……。
“無能貴族”と揶揄されるアランは、案の定授業についていけないことが多かった。
だが仮にも超名門フォルテス家の生まれであるアランは、いかに実力主義の学院であっても決して無下にできるものではない。
いわば腫れ物として教師や同級生から距離を置かれるのは必然だった。
しかし、 逃げるわけにもいかない。
レオンに謝らなければならないし、それに……このまま無能のままではいられないのだから。
「……そうだな。今日の午後くらいには行こうかな」
俺は努めて落ち着いた声色を保ちつつ、エミリーへ返事をする。
それを受けて、エミリーの表情には一瞬「驚き」とも「安堵」とも取れない色が混ざった。
今までのアランなら「学院なんて面倒だ」と投げやりに過ごしていたのだろうか。
「……かしこまりました。それでは、準備が整い次第お声がけください。お着替えや昼食の支度をいたしますので」
エミリーはそう言い残して、部屋を後にする。
閉まった扉の向こうに、彼女の気配が遠のいていくのを感じながら、俺はひとり静かに息を吐いた。
ベッド脇の椅子に腰掛け、鋭く疼く頭痛をもう一度押さえ込むように額を押さえる。
前世の記憶を引きずったまま、この世界で“アラン・フォルテス”として生きていく――どう考えても、簡単な話ではない。
「……やるしかない」
俺は呟いて立ち上がる。
まずはレオンに謝る。
それで何か変わるかもしれない。
鏡に映った自分の姿を見れば、まだ幼さを色濃く残す金色の髪の少年がそこにいた。
かつて“無能貴族”と呼ばれていた人物と、今の自分――果たしてどこまで変われるのか。
差し込む昼前の光が、窓辺を淡く照らしている。
俺は一度深呼吸すると、窓の外に広がるフォルテス家の庭を見下ろした。
揺れる思考をほんの少し抑え込みながら、扉のほうへ歩み始める。
王立セレスティア学院――レオンとの再会はもはや避けられない。どんな嵐が待ち受けていようと、それを乗り越えるしか生き残る道はないのだから。
そう、胸の奥で小さく決意を固め、足を進める。
自らの運命を変えるための、第一歩として。