第16話 遭遇
翌朝。
鳥のさえずりと共に目を覚ますと、驚くほど体が軽く感じた。もちろん、完治したわけではない。動けばまだ痛むし、鈍い疲労感も残っている。だが、昨日までの、体を縛り付けるような重苦しさは薄れていた。
「よし……!」
自然と気合が入る。
身支度を整え、階下に降りると、宿の前では既に出発の準備が進められていた。ガルドさんが馬の手綱を引き締め、護衛の騎士たちが荷物を馬車に積み込んでいる。
ソフィアは既に旅装を整え、静かに馬車のそばに立っていた。朝日を浴びて、彼女の銀色の髪がキラキラと輝いて見える。
「おう、坊主、起きたか!」
ソフィアに挨拶をしようというところで、ガルドから声がかかった。
相変わらずの元気っぷりに耳がキンとなる。
彼は馬上で装備を確認しながら、ニカッと歯を見せて笑った。
「体調はどうだ? 昨日よりは顔色が良いじゃねえか。あの程度で根を上げられちゃ困るからな!」
「は、はい、おかげさまで、昨日よりはだいぶ……」
まだ全身の節々は痛むが、正直にそう答える。
実際に昨日とは比べ物にならないほど動けるのは事実だ。あれほどの無茶な特訓にも、意味はあったのかもしれない。
「はっはっは、若いってのは良いねえ!」
ガルドさんは満足そうに頷く。
「ま、無理はするなよ。今日は昨日より距離があるからな」
ガルドさんはそう言うと、他の護衛に指示を出し、出発の最終確認を始めた。
俺はソフィアに歩み寄り、
「おはよう、ソフィア」
と、昨日よりは幾分しっかりとした声で挨拶をした。
「……おはようございます、アラン様」
ソフィアは小さく頷き、すぐに視線を街道の先へと向けた。
「体調が戻られたようで何よりです」
それだけ言ってソフィアは馬車に乗り込んだ。
相変わらずのドライな対応である。
馬車に乗り込み、再び土埃の舞う街道を進み始める。
昨日よりも体が動くようになったとはいえ、馬車の揺れはまだ体に響く。俺は背もたれに体を預け、できるだけ振動を逃がそうと努めた。
「……昨日、ソフィアが言ってたけど、この辺りだとゴブリンとかスライムが出る可能性があるんだよな?」
沈黙に耐えかねて、俺は隣に座るソフィアに話しかけた。彼女は膝の上に置いた革表紙の本に視線を落としていたが、俺の声に静かに顔を上げる。
「そうですね。街道沿いでは比較的遭遇率は低いですが、可能性はゼロではありません。特に森が深くなるこの辺りは注意が必要です」
淡々とした口調だが、その言葉には確かな警戒が含まれているように聞こえた。
「そういえばソフィアは魔物を見たことは――」
俺がそう尋ねようとした、まさにその時だった。
「――待て!」
馬車の外、先頭を馬で進んでいたガルドさんの鋭い声が響いた。
その声と同時に、馬車がガクンと揺れて速度を落とし、やがて完全に停止する。御者が手綱を強く引いたのだろう。
車内の空気が一気に張り詰める。俺はゴクリと唾を飲み込み、窓の外に視線を向けようとした。
「窓には近づかないでください」
ソフィアの冷静な声がそれを制した。彼女は本を閉じ、まるで壁の向こう側を見透かすかのように一点を見つめている。
その瞳は黄金色に輝いており、おそらく『天眼』を使っていることが伺えた。
外では、ガルドさんと他の護衛騎士たちが短い言葉を交わす声が聞こえる。馬のいななきと、鎧の擦れる音。静かだが、明確な緊張感が伝わってきた。
「……ソフィア、何が?」
俺は声を潜めて尋ねた。心臓が嫌な音を立てて脈打っている。
「前方、街道脇の茂みから……ゴブリンが5体。こちらを窺っています。武器は棍棒と、一部は錆びた短剣を持っています」
ソフィアは視線を動かさずに、淡々と状況を報告する。まるで他人事のように聞こえるが、その声には微かな緊張の色が滲んでいるようにも感じられた。
「ゴブリン……本当にいたのか」
ゲームの中だけの存在ではなかった。現実の脅威として、今、すぐそこにいる。
俺の背筋に冷たい汗が流れた。
「馬車から離れるなよ!」
ガルドさんの声と共に、馬から飛び降りる鈍い音が聞こえ、戦闘が始まったことを告げる金属音が響き渡った。
ギャア、という人間のものではない甲高い叫び声。剣戟の音。怒号。
馬車の壁一枚を隔てたすぐ外で、リアルな戦闘が繰り広げられている。
俺は思わず身を固くした。
――怖い。
頭では分かっていたはずだった。
ゲーム画面で、それこそ何百、何千と倒してきたはずのゴブリン。
だが、壁一枚隔てた向こうから聞こえてくる、あの甲高い、狂気に満ちた叫び声、肉を断つ生々しい音、そして死の間際の絶叫は、モニター越しに感じていたものとはまるで違う、本能的な恐怖を俺の全身に叩きつけてきた。
手足が震え、冷たい汗が背中を伝う。
まさかゴブリン如きに、ここまで恐怖を感じるなんて。
ゲームでは単なる序盤の雑魚。
フレーバーと、レベル上げの対象でしかなかった。
しかし、現実は違う。あの甲高い叫び声には、紛れもない敵意と躊躇のない殺意が込められているように聞こえる。
「ガルドさんが一体と交戦中。右からの突きを弾き、胴薙ぎ。……命中。一体、戦闘不能」
ソフィアの冷静な実況が続く。彼女の『天眼』は、壁越しに戦闘の詳細を捉えているらしい。その声だけが、俺を現実と繋ぎ止めているようだった。
「他の騎士も二手に分かれて対応。連携して一体を包囲。……斬撃。二体目、沈黙」
外からは、ガルドさんの「オラァッ!」という雄叫びや、他の騎士たちの短い指示、そしてゴブリンの断末魔のような叫び声が断続的に聞こえてくる。
俺はただ、拳を握りしめ、祈るように耳を澄ませることしかできない。
怖い。だが、それと同時に、ソフィアの冷静な報告と、外で戦う護衛たちの確かな実力に、わずかながら安堵感も覚えていた。ガルドさんたちがいる。彼らが負けるはずがない。
「残りは二体。一体が馬車に向かってきます」
ソフィアの声に、再び緊張が走る。
「来るな……!」
思わず声が漏れる。壁のすぐ向こうに、緑色の醜い魔物が迫ってくるのを想像してしまう。
ドゴォン!
馬車の側面に、何かがぶつかる鈍い衝撃。俺はビクッと体を震わせた。
「御者が対処。短剣を弾き、蹴りで距離を取らせました……ガルドさんが援護。三体目、動きを止めました」
ソフィアの報告に、ようやく詰めていた息を細く長く吐き出す。
御者まで戦えるとは…………流石グレイン家の護衛だ。
「最後の一体、逃走を図ります。……騎士が追跡。背後から……確保」
ソフィアの『天眼』による実況が途切れ、黄金色の輝きが収まる。
外から聞こえていた剣戟の音や叫び声も、いつの間にか止んでいた。訪れた静寂が、逆に耳に痛い。
「……終わった、のか?」
俺はまだ震えの残る声で、おそるおそる尋ねた。
ソフィアは静かに頷き、そして俺の方へと視線を向けた。
「はい。ゴブリン5体、全て無力化。こちらに被害はありません」
その言葉と、彼女の(いつも通りではあるが)落ち着いた表情を見て、ようやく全身を縛り付けていた緊張の糸がぷつりと切れた。どっと、鉛のような疲労感が全身にのしかかる。
たった数分の出来事だったはずなのに、まるで一時間も戦場にいたかのような消耗感だ。
膝が笑いそうで、座席に深く沈み込む。
「ふぅ……」
深い息を吐き、額の汗を手の甲で拭う。
「おーい! 大丈夫かー!?」
ガルドさんが馬車の扉を開け、屈強な体をねじ込ませてきた。その顔には返り血が付着しているが、表情はいつものように豪快だ。
「大したことなかったぜ! 道端のチンピラみたいなもんだ!」
そう言って笑うガルドさん。その頼もしさに、俺はようやく心からの安堵を覚えた。
「……ありがとうございました」
掠れた声で礼を言うのが精一杯だった。
「顔色が悪いですね」
不意に、隣からソフィアの声がした。見ると、彼女は俺の顔をじっと見つめている。その青い瞳には、呆れとも、あるいはほんの少しの心配とも取れる色が浮かんでいた。
「ははは……情けないよな」
乾いた笑みを貼り付ける。
「そりゃあ仕方ねえ、誰だって初めてのことは怖いもんだ、無理もないさ」
ガルドさんは、フォローするように、ガハハと笑う。
「だがまあ、これが聖域の外だ。こういうこともあるって、肝に銘じておくんだな」
そう言ってガルドさんは扉を閉め、外の処理に戻っていった。
俺は再び座席に深くもたれかかる。
初めての魔物との遭遇、その恐怖は、ゲームでは決して味わえなかった生々しいものだった。
今後のことを考えると、早めに慣れておくべきなのだろう。
しかし、こればかりは数をこなすしかなさそうだ。
「見に行かれますか?」
「え?」
ソフィアからの提案。
それは果たして、俺の覚悟を試すための提案なのか、それとも単に、現実を直視させるための、彼女なりの教育なのだろうか。
「魔物を一度も見たことがないとのことでしたので」
俺は小さく息を呑んで頷いた。
「そうだな……見ておくべき、なんだろうな」
まだ恐怖は残っている。心臓は早鐘を打ち、手のひらには嫌な汗が滲んでいた。だが、ここで目を背けていては、いつまで経ってもこの世界の現実に適応できない。ソフィアの補佐役どころか、自分の身を守ることすらおぼつかないだろう。
「分かった、見るよ」
覚悟を決めて、俺はソフィアに告げた。
彼女は何も言わず、馬車の扉を開いた。
土埃と、微かに鼻につく鉄錆のような、あるいはもっと不快な獣のような臭いが、鼻の奥を刺激する。
ガルドさんたちが、街道脇で後始末をしているのが見えた。騎士の一人が地面に転がる緑色の何かを無造作に蹴り、他の者は武器についた血糊を布で拭っている。
それが、俺がゲームで散々倒してきた「ゴブリン」の成れの果て。
しかしその身体は黒ずみ、崩れ去っていく様子が見て取れた。
「あれは……」
それはゲーム上の演出とよく似ていた。
「魔物の身体は魔力そのものです」
俺の呟きに答えたのは、隣に立つソフィアだった。
「生命活動が停止すると、その魔力は霧散し、元の形を保てなくなるのです」
黒い粒子となって霧のように消えていくゴブリンの身体。
それは、ゲームのドロップアイテムを残して消滅する演出そのものだったが、現実で目の当たりにすると、どこか空恐ろしい光景に思えた。
命が、形を失って「無」に還っていく様。それが、この世界の魔物という存在の摂理なのだろう。
「……そうか」
俺は短く呟き、ゴブリンが完全に消え去るまで、その場に立ち尽くしていた。
鼻をつく生臭い臭いだけが、先ほどまで確かに「生きていた」存在の痕跡を微かに留めている。
これが、現実。
ゲームでは感じることのなかった、命のやり取りの生々しさ。
「そしてこれが魔石です」
ソフィアが俺に小さな石を手渡してくる。
くすんだ灰色の小さな石、大きさは小指の先ほどで、特に輝きもなく、道端の石ころと言われても信じてしまいそうなほど地味な見た目をしている。
「魔石か……確か魔力の塊だったか」
「はい、そうです。ただ低純度の魔石はエネルギー量も少なく、用途も限られます。魔法の補助や、ごく低級な魔法具の素材になる程度ですね。換金価値もほとんどありません」
「そうなのか……」
何とも現実的な発言に苦笑しつつ、魔石を見つめた。
これっぽっちの石が、ゴブリンという存在の核だったのかと思うと、何とも言えない不思議な感覚に襲われる。
命の痕跡が、こんなにも小さく、そしてソフィアの言葉通りなら、ほとんど価値のないものとして扱われる現実。
……あれ?
ゲーム上だと魔石って結構な金策になるイメージだったんだが。
それこそゴブリンからドロップする魔石でもだ。
やはりここでもゲームと現実の違い、ということなのだろうか。
「よし、片付いたぞ! 出発だ!」
不意に響いたガルドさんの声に、俺ははっと我に返る。
護衛たちは既に馬に乗り、出発の準備を終えていた。ソフィアも静かに馬車へと戻っていく。
俺は小さな魔石をポケットにしまい、思考を一旦中断する。
今は、目の前の旅に集中すべきだ。
「……行こう」
自らに言い聞かせるように呟き、俺は馬車のステップに足をかけた。
初めての魔物との遭遇。生々しい恐怖。そして、ゲーム知識との齟齬。
多くの現実を突きつけられたが、それでも進むしかない。
ラーム村への道は、まだ続いているのだから。
再び動き出した馬車に揺られながら、俺は静かに決意を新たにする。
この世界の現実を、自分の目で、肌で感じて、理解していくしかないのだと。
そして、その上で、俺自身の力で未来を切り開くのだ。