第15話 外
ガタ、ゴト……。
石畳ではない、土埃の舞う街道を進む馬車の揺れは、王都のそれとは比べ物にならないほど不規則で、容赦なく体を揺さぶった。
「……いっ……!」
その度に俺の全身には、突き刺さるような鋭い痛みが走る。
昨日まで、いや、今朝出発する直前まで続いたガルドさんの「特別修練」の賜物である。筋肉という筋肉が強張り、ちょっとした振動すら拷問のように感じられた。
「……仕方ないだろ」
そしてそういった声を出す度に、眼の前の少女――ソフィアが鬱陶しそうにこちらを見てくる。
「何も言っていませんが」
ソフィアは涼しい顔でそう返す。確かに口には出していない。だが、その視線が雄弁に物語っていた。
「……いや、だって、痛いんだよ、本当に。ガルドさんのせいだ……あんな無茶な特訓するから……」
思わず恨み言が口をついて出る。
あの後、俺は文字通り日が暮れるまでガルドさんにしごかれたのだ。
剣の素振り千回(途中から数えるのをやめた)、基礎的な体術の型、そしてなぜか丸太運び。およそ三日間でスキルを習得させようという人間のメニューではなかった。
おまけに、休憩のたびに「才能あるぞ!」「もっといける!」などと煽ててくるものだから、つい意地になって限界以上に体を動かしてしまった。
「そうなんですね」
そしてソフィアは相変わらず興味を示さない。
天恵や魔法の考察をする時は、あれだけ饒舌なのに、興味のないことだとすぐこれだ。
まったく、天才というやつは。
「おーい! アラン坊主、生きてるかー!?」
不意に、馬車の窓の外から、聞き慣れた野太い声が響いた。馬に乗って並走しているガルドさんの声だ。どうやら俺の呻き声が外まで聞こえていたらしい。
「……生きてますよ! 誰のせいだと思ってるんですか!」
窓を開けて、つい反射的に怒鳴り返してしまった。
ガルドさんは馬上で豪快に笑っている。
「ガハハ! あの程度でへこたれてちゃ、この先やっていけんぞ! まあ、筋肉痛は鍛えた証拠だ!」
まったく悪びれる様子がない。むしろ喜んでいる気さえする。
「まったく……」
俺は窓を閉めながら大きくため息を吐いた。その仕草すら億劫で、腕が重い。
せっかくグレイン家としての初仕事だと言うのに、コンディションは最悪だ。
「そろそろ聖域を抜けますので、気を引き締めて下さい」
ソフィアは手に持つ本に目を向けながら、淡々と告げる。
「聖域……」
俺はその言葉に小さく反応する。
この世界の都市は、神の加護と、強力な結界によって守られた安全地帯――通称「聖域」と呼ばれている。そこでは、基本的に危険な魔物が出現することはないとされていた。
ゲームにおいて、町中で魔物が出現しない理由がそれである。
もっとも、その結界もまた十年後の魔人侵攻によって破壊され、多くの都市が壊滅的な被害を受けることになるのだが。
「聖域を抜けるということは……」
「そうですね。ここからは、魔物が出現する可能性があります。もちろん、街道沿いは比較的安全ですが、油断はするべきでないでしょう。ちなみに魔物を見たことは?」
ソフィアからの質問に首を横に振る。
「いや、ない。聖域外に出るのも初めてだし……本で読んだ知識くらいだ」
俺がそう答えると、ソフィアは本から視線を上げ、俺を見た。
その青い瞳には、わずかに「仕方ないですね」という色が浮かんでいるように見えた。
「そうですか。では簡単に説明しておきます。この街道付近で遭遇する可能性があるのは、主に低級のゴブリンや、スライム系の魔物です。稀にオークや大型の蟲系が出ることもありますが、護衛がいれば問題ないでしょう」
ゴブリン、スライム、オーク……いずれも『セレスティアル・サーガ』に登場する魔物の名前だ。
ステータスも低く、序盤においての経験値稼ぎのカモだった。
だが、ここはゲームではない。現実の魔物がどれほどの脅威なのか、想像もつかない。
「万が一、戦闘になった場合は、決して馬車から出ないでください。貴方の役割は私の補佐であり、戦闘は護衛の仕事です。足を引っ張るような真似は許しません」
ソフィアはきっぱりと言い放つ。その言葉は厳しいが、正論だ。今の俺が前線に出ても、お荷物にしかならないだろう。
「……分かってる」
俺は素直に頷いた。
ゲーム知識が活かせるかどうかは気になるが、何も初見で試すことではない。
それに筋肉痛でまともに動けない今の状態では、なおさらだ。
「よし、聖域境界を通過したぞ! 全員、気を引き締めろー!」
再び外からガルドさんの声が響く。
その言葉と共に、馬車の窓から見える景色が変わったような気がした。鬱蒼とした森が街道の両脇に迫り、どこか空気が重くなったような……。
これが聖域の外。神の加護が薄れ、魔物が闊歩する世界。
ゴクリと唾を飲み込む。緊張で筋肉痛がさらに酷くなった気がした。
俺は無意識のうちに窓の外に視線を凝らし、茂みの奥や木々の間を警戒してしまう。ソフィアに言われた「ゴブリン」や「スライム」が、いつ飛び出してきてもおかしくない、そんな空気が漂っているように感じられた。
しかし――。
俺のそんな緊張をよそに、馬車は土埃を上げながら淡々と進んでいく。
ガルドさんや他の護衛騎士たちは、時折鋭い視線を周囲に巡らせているが、特に慌てた様子はない。馬上で談笑する声すら聞こえてくる。
ソフィアはと言えば、完全に自分の世界に入り込み、再び分厚い本を読み耽っている。時折ページをめくる音だけが、馬車の揺れる音に混じって聞こえてくる。
――あれ? もしかして、魔物ってそんなに頻繁に出るもんじゃないのか?
ゲームだと数歩歩けばエンカウント、なんてこともザラだったが、現実は違うらしい。
あるいは、この街道が比較的安全だというソフィアの言葉通りなのか。
「この調子なら、日没までにはヴァラに着けそうですね」
俺の内心の安堵を見透かしたかのように、不意にソフィアが口を開いた。いつの間にか本から顔を上げ、窓の外の景色を眺めている。
「ヴァラ?」
聞き慣れない地名に、俺は首を傾げる。
「はい。ラーム村まではここから丸一日以上かかります。途中で一泊が必要なので、城砦都市ヴァラで宿を取る予定です」
なるほど、野営ではなくちゃんと宿があるのか。
少し安心した。現代人としては、やはり屋根のある場所で眠りたい。
しかし今後、そういったことも強いられる場面も出てくるだろうし、慣れておくに越したことはないかもしれないが。
「ヴァラって……どんな町なんだ?」
俺がそう尋ねると、ソフィアは少しだけ目を細め、思案するように視線を窓の外へと流した。
「交易の中継地として栄えた、いわゆる城砦都市です。元は軍の駐屯地でしたが、今では旅人や巡礼者が多く訪れる拠点のひとつとなっています。宿の数も多く、警備も整っているため、旅の中継地としては最適でしょう」
まるで教科書の一節のような説明だったが、要するに「安全で便利」ということらしい。
しかしヴァラ、か。
ゲームの記憶を探ってみても、ヴァラという名の都市は思い当たらない。
「そうか、少し楽しみになってきた」
とはいえ、体は正直だ。
相変わらず馬車の揺れに合わせて、全身の筋肉が悲鳴を上げている。早くヴァラに着いて、温かい湯にでも浸かりたい。それが今の俺の切実な願いだった。
そんな俺の願いが通じたのか、あるいは単に予定通りだったのか。
日が西に傾き、空が茜色に染まり始めた頃、馬車の速度が再び緩やかになった。
「お、見えてきたぞ!」
外からガルドさんの声が聞こえる。
俺は身を乗り出して窓の外を見た。
街道の先に、夕陽を受けて鈍く輝く石造りの壁が見える。城砦都市、という名にふさわしい、高く頑丈そうな城壁だ。壁の上にはいくつかの見張り櫓があり、旗が風にはためいているのが遠目にも分かった。
城壁の手前には、畑らしきものが広がり、農作業を終えた人々が家路を急ぐ姿も見える。聖域の外とはいえ、町の周辺は比較的安全なのだろう。
「思ったより大きな町だな……」
思わず呟く。王都セレスティリウムほどではないが、聖域外ということを考えると、かなりの規模の都市に見えた。
「主要街道の結節点ですからね。人も物も多く集まります」
ソフィアが、まるで当然のように補足する。彼女は既に本を閉じ、窓の外の景色を冷静に観察していた。
やがて馬車は、他の旅人や荷馬車に混じって、町の門へと近づいていく。
門の前では、鎧に身を固めた衛兵たちが厳しく通行者をチェックしていた。
しかし、俺たちの馬車が近づくと、衛兵の一人がグレイン家の紋章(おそらく馬車に描かれているのだろう)に気づき、慌てて敬礼をした。
ガルドさんが馬上から何か短い言葉を交わすと、衛兵たちはすぐに道を開け、俺たちの馬車は他の通行者を追い越してスムーズに門を通過することができた。
ここでも貴族の特権か……と少し複雑な気分になりつつ、俺は門の内側の光景に目を奪われる。
石畳が敷かれた広い通り、軒を連ねる商店や宿屋、行き交う人々の活気。王都とはまた違う、旅人向けの逞しさのようなものが感じられる雰囲気だ。様々な人種――屈強な傭兵風の男、荷物を背負った商人、フードを目深にかぶった巡礼者、そして俺たちのような旅装の貴族(?)――が、それぞれの目的を持って歩いている。
「活気があるな……」
筋肉痛も忘れ、思わず窓の外に見入ってしまう。
初めて見る聖域外の町の風景は、俺にとって新鮮な驚きに満ちていた。
「じゃあ手配をしてくるから待ってな」
ガルドさんはそう言うと、軽やかに馬から飛び降り、他の護衛騎士に馬を預けると、人混みの中へと消えていった。おそらく、グレイン家御用達、あるいは評判の良い宿にあたりをつけているのだろう。
残された俺たちは、馬車の中でガルドさんの戻りを待つことになった。
窓の外では、夕暮れ時の喧騒が続いている。どこかの酒場から陽気な歌声が聞こえたり、露店の呼び込みの声が響いたり、荷馬車の車輪が石畳を叩く音がしたり。王都とは違う、生の活気がそこにはあった。
「……」
ソフィアは何も言わず、ただ静かに窓の外を眺めている。その横顔からは何を考えているのか読み取れないが、退屈しているようにも、あるいは町の様子を観察しているようにも見えた。
俺はと言えば、ようやく目的地(中継地点だが)に着いた安堵感と、相変わらずの筋肉痛で、少しぼうっとしていた。早く横になりたい、その一心だ。
それから十分ほど経っただろうか。
ガルドさんが、満足そうな顔で馬車に戻ってきた。
「よし、いい宿が取れたぞ! 付いてこい!」
ガルドさんの言葉に、御者が頷き、馬車が再びゆっくりと動き出す。
町の中心部から少しだけ離れた、比較的落ち着いた通りへと入っていく。
やがて馬車が止まったのは、大きな木製の看板を掲げた三階建ての宿屋の前だった。『銀竜亭』と古風な字体で書かれている。建物自体は新しくはないが、手入れが行き届いているようで、清潔感があった。
「グレイン家御一行様、ようこそお越しくださいました!」
宿の主人らしき恰幅の良い男が、慌てた様子で出迎えてくれた。
俺たちは馬車を降り、宿の中へと案内される。
一階は食堂兼酒場になっているようで、既に何組かの客が食事や酒を楽しんでいた。木の温もりを感じる内装で、落ち着いた雰囲気だ。
「ソフィア様とアラン様は、隣同士のお部屋をご用意いたしました。護衛の方々は、向かいのお部屋と、下の階にもお部屋を取っております」
手際よく部屋割りが告げられる。
俺に割り当てられた部屋は、広くはないが必要十分な広さだった。窓からは裏通りが見え、大きなベッドと、簡単な机と椅子が置かれている。質素だが清潔で、長旅の疲れを癒すには十分だろう。
「ふぅ……」
部屋に入るなり、俺はベッドに倒れ込んだ。
柔らかい感触が、悲鳴を上げていた筋肉を優しく受け止めてくれる。最高だ。
窓の外からは、町の喧騒が遠くに聞こえる。
王都を出てまだ一日目だが、既に色々なことがあった。聖域の外の空気、ガルドさんの無茶な特訓、そして、初めて見る聖域外の町の活気。
ラーム村まではまだ道のりがある。
そして、そこには『古守の護符』と、もしかしたらランド・ガリオンがいるかもしれない。
今はただ、この束の間の休息を味わおう。
俺はゆっくりと目を閉じ、ガルドさんの特訓による心地よい(?)疲労感に身を任せる。
今夜はぐっすり眠れそうだ。