第12話 今後の方針
翌朝。
グレイン邸の客室で目覚めた俺の心は、落ち着かなかった。
今日は、ヘレナ様との面会の日だ。
この五日間の奇妙な静寂が破られ、俺の今後の処遇が決定されるであろう重要な一日。
期待よりも不安の方が大きいのは否めない。
天恵不明、魔人族疑惑、いじめ問題……悪材料は山積みだ。
最悪の場合、グレイン家からも厄介払いされ、フォルテス家に戻っても針のむしろ、なんて展開だってあり得る。
――いや、弱気になってどうする。
俺はベッドから起き上がり、頬を軽く叩いた。
確かに状況は悪い。だが、嘆いていても何も始まらない。
俺にはまだ、ゲームの知識と、この特異な魔法の力(?)がある。
ヘレナ様がどんな判断を下そうと、それを足掛かりにして、バッドエンドへの道を捻じ曲げてやるしかない。
しかしだ。
「……身体が怠いな」
今日は体調がすこぶる悪かった。
全身に力が入らないそんな感覚。
ここ最近、一日置きにこんな状態だ。
確かに最近は高ストレス状態は続いていたが……アランは虚弱体質という設定でもあるのだろうか。
それでも何とか朝食を済ませ、身支度を整えていると、部屋の扉がノックされた。
やってきたのはソフィアだった。いつも通りの淡々とした表情だが、今日の彼女はいつもの見習い神官服ではなく、どちらかと言うと貴族っぽい装束に身を包んでいた。
「……もう時間か?」
俺は尋ねる。
聞いていた時間よりも少しだけ早めだったからだ。
「いえ、ついでに鑑定をしておこうかなと思いまして」
「ついでって……」
天恵の儀という大層な儀式でやってきた行いを、こともなげにそう言ってしまうのはソフィアらしいと言うかなんというか。
そんな俺の気持ちを差し置いて、ソフィアはいつものように俺の前に立つ。
彼女の右目が、淡い黄金色に輝き始める。『天眼』の発動だ。
魂の奥底を覗き込まれるような感覚には、まだ慣れない。
数瞬の静寂。
やがて、ソフィアの瞳の輝きが収まる。
「……どうだ?」
期待半分、諦め半分で尋ねる。
「やはり、ダメです」
予想通りの答えが返ってきた。
「そうか……あ、ちなみに昨日、少し思いついたんだけど」
そこで俺は彼女に昨日考えたことを告げることにした。
彼女の聡明な知識はきっとこの考えを綺麗にまとめ上げてくれるはずだ。
「俺の魔法のことなんだが……やっぱり少し変だと思わないか?」
俺は切り出した。
ソフィアは特に表情を変えず、続きを促すように静かに俺を見つめている。その落ち着き払った態度が、かえって俺の言葉を引き出しやすくしてくれた。
「学院でも、ここでの練習でも試したんだが、俺はどうも『魔力操作』ってやつが全然できない。体内のエネルギーを感じるとか、それを操るとか、そういう感覚が全くないんだ」
俺は自分の掌を見つめながら話す。
「でも、ゲーム……いや、昔覚えた詠唱を口にすれば、ちゃんと魔法は発動する。光でも水でも風でも。まるで、魔力を介さずに、詠唱っていう言葉そのものが直接、魔法を引き起こしてるみたいに」
そこまで言って、俺はソフィアの顔を見た。
彼女の青い瞳が、わずかに見開かれたように見えた。気のせいかもしれないが、いつもの無表情とは違う、強い興味の色が宿っているように感じられた。
「……貴方は魔力操作をせずに詠唱をしていたんですか」
ソフィアの声には、普段の抑揚のなさを突き破るような、明らかな驚愕の色が混じっていた。そして若干の呆れも見え隠れする。
そんな彼女の大きな青い瞳が、まるで未知の生物でも見るかのように俺を捉えている。その反応に、俺は自分の推測が的外れではなかったことを確信した。
「ああ。何度試しても、魔力をどうこうする感覚が掴めない。でも、呪文を間違えずに唱えさえすれば、魔法はちゃんと出るんだ」
「……なるほど。確かに通常のプロセスとは異なりますね」
ソフィアは指先を顎に当て、真剣な眼差しで宙を見つめる。黄金色の輝きは消えているが、その青い瞳の奥では高速で思考が巡っているのが見て取れた。
「魔力なしに魔法は使えないのは当たり前のことです。でもそれを可能にする力と言うと――」
「天恵ですか」
「天恵だよな」
二人の声が重なった。
俺自身の推測と、ソフィアの冷静な分析が、同じ結論へと辿り着いた瞬間だ。
「……まだまだ考察の余地はありますが、生憎とこれから予定がありますので」
ソフィアはそこで言葉を切った。名残惜しいような、しかし冷静さを取り戻したような複雑な表情で。
「ああ、そうか。ヘレナ様のところに」
俺が言うと、ソフィアは小さく頷いた。
「はい。ヘレナ様がお待ちです。こちらへ」
ソフィアに促され、俺は部屋を出る。彼女の後ろについて、グレイン邸の静かな廊下を進んだ。
磨き上げられた大理石の床に、二人の足音だけが響く。
先ほどまでの魔法に関する考察で、少しだけ気持ちが軽くなった気がする。
自分の力の特異性が「天恵」に関連するかもしれない、という可能性が見えただけでも大きな進歩だ。たとえそれが読み取れないイレギュラーなものであったとしても、「無い」わけではないのかもしれないのだから。
やがて、俺たちは大きな扉の前で足を止めた。
扉の両脇には、槍を持った神殿騎士らしき衛兵が微動だにせず立っている。ここがヘレナ様の執務室か、あるいは応接室なのだろう。
ソフィアが扉をノックすると、中から落ち着いた女性の声で「どうぞ」と返事があった。
「失礼します」
ソフィアが扉を開け、俺を中に促す。
一歩足を踏み入れると、そこは広々とした、しかし華美すぎない品の良い部屋だった。壁一面の本棚には分厚い書物がぎっしりと並び、大きな窓からは柔らかな光が差し込んでいる。部屋の中央には大きな執務机があり、その向こうに、聖女ヘレナ・グレインが座っていた。
彼女は儀式の時と同じ、白と金を基調とした神官装束に身を包んでいたが、その表情は儀式の時よりもいくらか穏やかに見えた。
「よく来てくださいました、アラン様」
ヘレナ様は立ち上がり、優雅に微笑みかける。その隣には、ソフィアが静かに控えるように立った。
「まずは、先日の天恵の儀のこと、改めてお詫び申し上げます。我々の力不足により、貴方に不快な思いと、あらぬ疑いを招く結果となってしまいました」
ヘレナ様はそう言うと、深々と頭を下げた。四公爵家当主であり、聖女でもある彼女からの謝罪に、俺は恐縮して言葉を失う。
「いえ、そんな……」
「原因については、引き続き調査を進めておりますが、正直なところ、未だ解明には至っておりません。過去の文献を調べても、貴方のような事例は極めて稀でして……」
ヘレナ様は困ったように眉を寄せた。
「ヘレナ様」
そこでソフィアが言葉を挟み、ヘレナ様に耳打ちをした。
ヘレナ様はソフィアの言葉に静かに耳を傾け、その表情にわずかな驚きの色が浮かんだ。そして、再び俺に向き直る。
「……なるほど、魔力を介さない魔法、ですか」
「は、はい、つい先程、彼女と思い至り……」
俺が少しどもりながら答えると、ヘレナ様は興味深そうに目を細めた。
彼女の知的な瞳が、まるで未知のパズルを解き明かそうとするかのように、俺に向けられる。
「通常、魔法の発動には術者の魔力と、それを導く呪文、あるいは高度な魔力操作が必要です。魔力そのものが観測できず、操作の感覚もないのに、呪文の詠唱のみで事象が発現する……。確かに前例のない、極めて特異なケースと言えますね」
ヘレナ様は静かに呟き、ふぅと小さく息を吐いた。
「もしかすると、ソフィアの見立て通り、それこそが貴方の『天恵』の本質なのかもしれません」
ヘレナ様からもお墨付きを貰えてホッと息を吐く。
「後は天恵が明らかにならない理由さえ分かれば、というところですね」
ヘレナ様の言葉に俺は頷く。確かにそうだった。
もし俺の天恵が魔力なしで魔法を使える力だとしても、それが『天眼』で読み取れない理由には直結しない。
最悪なのは、単に俺がアランの身体に転生したことで、何かの情報がバグり、ステータス表示がおかしくなっている可能性だ。ゲームで言うところの文字化けのような状態。そうなると、解決策があるのかどうかすら怪しい。
「ですが、悲観することはありません」
ヘレナ様の声には、確かな力が籠っていた。
「天恵の儀でも少し触れましたが、『天眼』で読み取れない天恵というのは、前例がないわけではありません。極めて稀ですが、そういった伝承が残っているのです。そして、そのいずれもが……」
彼女はそこで言葉を切り、意味深長に俺を見つめる。
「……いずれもが?」
俺は唾を飲み込み、続きを促した。
「規格外の力、あるいは、この世界の理から逸脱した力を持つ者の証、とされてきました」
規格外……理からの逸脱……。
それは、転生者である俺の状況に、あまりにも合致しすぎている言葉だった。背筋に冷たいものが走るのを感じる。まるで、俺の秘密を見透かされているかのような。
「もちろん、現時点で断定はできません。あくまで記録ではなく伝承でしか残っていないことですので、確実なことは言えないのが心苦しいのですが」
ヘレナ様はそう言って、わずかに表情を曇らせた。
伝承――それはつまり、真偽不明、あるいは誇張された話である可能性も高いということだろう。過度な期待は禁物か。
それでも、「規格外」「理からの逸脱」という言葉は、俺の胸に深く突き刺さった。
転生者である自分にとって、それは希望であると同時に、底知れぬ不安を掻き立てるものでもあった。この世界の理から外れた存在が、果たして受け入れられるのだろうか。
俺が複雑な心境で黙り込んでいると、ヘレナ様は穏やかな、しかし強い意志を感じさせる声で続けた。
「いずれにせよ、その力がどのようなものか、どのように扱うべきかを見極めるには、時間と、適切な導きが必要です」
ヘレナ様の視線が、真っ直ぐに俺を捉える。
「さて、少し前置きが長くなってしまいましたが、アラン様の今後の方針を私なりに考えてみました」
ついに本題が来た。俺はゴクリと唾を飲み込み、ヘレナ様の言葉を待つ。隣に立つソフィアも、わずかに緊張した面持ちでヘレナ様を見つめていた。
「結論から申し上げますと、貴方には当面の間、このグレイン家の庇護のもとで過ごしていただきたく思います」
「……ここで、ですか?」
予想していた答えの一つではあったが、改めて告げられると緊張が走る。
「はい。理由はいくつかあります。まず第一に、貴方の特異な力の性質を解明し、それを安全に制御するための訓練を行うこと。我々グレイン家には、古くからの魔法や天恵に関する知識の蓄積があります。それが貴方の助けとなるでしょう」
それはありがたい申し出だ。独学では限界があると感じていたところだった。
「第二に、貴方の安全の確保です。先の儀式での一件で、貴方にはあらぬ疑いや悪意が向けられています。フォルテス家に戻られたとしても、心休まる日々は送りづらいでしょう。このグレイン邸であれば、少なくとも物理的な安全は保証できます」
確かに、あの貴族たちの視線を思い出すと、王都を歩くことすら憚られる。厄介払いではなく、保護という意味合いもあるのか。
「そして第三に……」
ヘレナ様は少しだけ言葉を選び、
「貴方自身の内面を見つめ直し、成長していただくための時間と環境が必要だと考えたからです。過去の過ちと向き合い、新たな自分として歩み出すための準備期間、とでも申しましょうか」
それはつまり、学院でのいじめ問題に対する反省期間、ということだろう。
言葉は穏やかだが、その点は決して見過ごさないという聖女の厳しい一面が垣間見えた。
「具体的な内容については、まだ決めきれてはいませんが、そうですね。ソフィアの補佐役として、彼女の活動を手伝っていただくのはどうでしょうか」