幕間 騒動の行く末
灰色の空から降り注ぐ雨が、フォルテス邸の石造りの壁をしっとりと濡らしていた。
その日の朝、エミリーはいつもより少しだけ早く目を覚ました。今日、彼女が仕える主人の一人であるアラン様が、十歳を迎えた貴族の子弟にとって最も重要な儀式、「天恵の儀」に臨むため、王都へと出発する日だったからだ。
玄関ホールで、兄であるルーカス様と共に馬車に乗り込むアラン様の後ろ姿を、エミリーは他の使用人たちと並んで静かに見送った。
雨に濡れた石畳を踏む足音と、馬車の軋む音だけが響く。
(どうか、良い天恵が授かりますように……)
エミリーは胸の前でそっと手を組んだ。それは侍女として当然の祈りだったが、最近の彼女の心境は、それだけではなかった。
ここ数週間、アラン様はまるで別人のようだったのだ。
以前の、些細なことで癇癪を起こし、わがままで、使用人に対して声を荒らげる姿は影を潜め、代わりに、どこか落ち着きがあり、年齢にそぐわない大人びた雰囲気を醸し出すことが多くなった。
時には、侍女である自分のような存在に、自然な口調で「ありがとう」と感謝の言葉を口にすることさえあった。
思い返せば、その変化は学院での事故――いじめの仕返しを受けて怪我をして戻ってきたあの日から始まったように思う。
もちろん、長年仕えてきた記憶が完全に消えたわけではない。
些細なことで怒鳴られ、理不尽な要求を突きつけられた日々。その恐怖は、まだエミリーの心の隅にこびりついている。
だから、今のアラン様の穏やかさに触れるたび、戸惑いを隠せなかった。「いつまた、以前のように戻ってしまうのだろう」という不安が、常に付きまとっていた。
それでも、とエミリーは思うのだ。
もし、今のアラン様が本当の姿なのだとしたら。もし、このまま良い方向に変わってくださるのなら。
今日の天恵の儀が、その大きな転機になるかもしれない。
素晴らしい天恵を授かり、これまで向けられてきた侮蔑や悪評を少しでも見返すことができれば、アラン様の未来も、そしてどこか淀んでいたフォルテス家の空気も、変わるのではないだろうか。
「…エミリー? ぼうっとしてどうしたの?」
「あ、はいっ! 申し訳ありません!」
先輩メイドに咎めるような口調で声をかけられ、エミリーははっと我に返った。
いつの間にか、アラン様たちを乗せた馬車は重々しい鉄門を出て、雨に煙る通りの向こうへと消えていた。
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その日、アラン様不在のフォルテス邸は、どこか落ち着かない空気に包まれていた。
厨房では、料理人たちがアラン様の好物を用意すべきか話し合い、庭師たちは「坊ちゃんが良い天恵を授かったら、庭に記念樹でも植えるかねぇ」などと噂していた。
誰もが、良くも悪くも、今日の儀式の結果を気にしていたのだ。
エミリーも、自室に戻る合間や、廊下を掃除しながら、耳に入ってくる断片的な会話に心を揺らした。
「フォルテス家の御子息だもの、きっと凄い天恵よ」
「でも、ほら、学院での評判はあまり良くないって……」
「まあ、あのアラン様のことだからなぁ……」
「でも最近のご様子なら大丈夫なんじゃないか?」
「ルーカス様のような立派な騎士になられる天恵だといいけどねぇ」
期待と不安が入り混じる声。
エミリーは、掃除の手を動かしながら、ただ静かに祈り続けた。あのお方が、少しでも報われる結果になることを。最近見せる、あの穏やかな表情が曇ることのないようにと。
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夕刻が近づき、雨が上がって西の空が茜色に染まり始めた頃。
王都から戻ってきた伝令の馬が、慌ただしく屋敷の門をくぐった。
その切迫した様子に、エミリーだけでなく、近くにいた使用人たちの間に緊張が走る。
何かあったのだろうか。儀式は無事に終わったのだろうか。
しばらくして、執務室に呼ばれたらしい老執事が、血の気の引いた青ざめた顔で出てきた。彼は誰に言うともなく、「……なんということだ……前代未聞だ……」と震える声で呟き、よろめくような足取りで奥へと向かう。
悪い予感が、エミリーの胸を締め付けた。
そして、夜。
辺りがすっかり闇に包まれた頃、王都から戻ってきたルーカス様が、厳しい、そして深く疲労した表情で馬を降り、そのまま父であるマルク様の書斎へと吸い込まれていくのを、エミリーは廊下の影から遠目に見た。
その後に広まった知らせは、エミリーの淡い期待を打ち砕くには十分すぎる、衝撃的な内容だった。
アラン様の天恵は、聖女様や鑑定役の少女をもってしても、「読み取ることができなかった」のだという。
それどころか、神聖であるはずの儀式の場で「魔人族が化けているのではないか」という不敬極まりない疑いをかけられ、更には過去の学院での「いじめ」のことまで衆目の前で明るみに出てしまったのだ、と。
そして、その異常事態の結果として、アラン様は原因の究明、そしておそらくはほとぼりが鎮まるまでの期間、グレイン家に身柄を預けられることになった、と……。
「そんな……」
ようやく一日の仕事が終わり、割り当てられた自室の簡素なベッドに腰掛けたエミリーは、呆然と呟いた。
読み取れない天恵? 魔人族疑惑? いじめの露呈?
信じられない言葉の数々が、理解することを拒むように頭の中で渦を巻いていた。
最近、確かに変わり始めていた。ほんの少しだけ、希望のようなものが見え始めていた。それなのに、なぜ、こんなことに。
運命は、あの方にどこまでも厳しいのだろうか。
(……可哀想に)
その感情が胸の奥からこみ上げてきた瞬間、エミリーは自分でもはっと驚いた。
あの理不尽で恐ろしかったアラン様に対して、心の底から「同情」の念が湧いていることに。
▼
翌朝、フォルテス邸の空気は昨日にも増して重苦しかった
夜が明けても、天恵の儀での前代未聞の出来事とその衝撃は、まるで分厚い鉛の雲のように屋敷全体を覆い尽くしている。
エミリーもまた、重い気持ちを引きずりながら、仕事に従事していた。
アランが帰ってこない以上、エミリーの仕事はこうした雑務が増えていくことだろう。
そんな重苦しい静寂を破ったのは、昼前のことだった。
門番から慌ただしい連絡が入り、玄関ホールに緊張が走る。
特別な紋章を掲げた馬車が、フォルテス邸の門前に到着したというのだ。
「王家の……馬車?」
「まさか、こんな時に一体どなたが……」
近くにいた上級メイドたちが困惑した声を上げる中、老執事が血相を変えて玄関へと駆けつけていく。
ほどなくして、馬車から降り立った人物の名が、囁き声と共に屋敷内に伝わった。
アイリス・セレスティア。
セレスティア王国第二王女にして、今、まさに渦中の人物であるアラン・フォルテスの正式な婚約者。その方の突然の来訪だった。
屋敷内の空気は一変した。重苦しさはそのままに、突き刺すような緊張感が加わる。
使用人たちは彼女の来訪を知らされていなかった。一体どのようなご要件で来られたのか、憶測と不安が駆け巡る。
しかし誰もが、昨日の「天恵の儀」に関する要件であることは想像に難くなかった。
やがて、知らせを受けたルーカス様が、硬い表情で応接室へと向かうのが見えた。
二人の表情は先日の謁見時と比べると雲泥の差だ。
エミリーは、廊下の隅で息を潜め、ただ事の成り行きを見守ることしかできなかった。
高貴な方々の世界で何が話し合われているのか、知る由もない。ただ、これ以上、あのアラン様に不幸な出来事が降りかからないようにと、祈るような気持ちで、固く閉ざされた応接室の扉を見つめていた。
そして夕刻近く、ようやく応接室の扉が開く音が響いた。
廊下の影からそっと様子を窺うと、中から出てきたのは、ルーカス様、そしてアイリス王女殿下だった。
マルク様はすでにおられないようだ。二人は玄関ホールへ向かいながら、短い言葉を交わしている。
ルーカス様に見送られ、アイリス様が玄関へ向かおうとした、その時。
ふと、廊下の隅に立つエミリーに気づいたのだろうか、アイリス様が足を止め、こちらへ近づいてきた。
「アイリス様……」
突然のことに、エミリーは慌てて姿勢を正し、深く頭を下げた。心臓が早鐘のように打っている。
「エミリー、顔を上げて」
穏やかだが、どこか憂いを帯びた声だった。エミリーがおずおずと顔を上げると、アイリス王女はわずかに微笑んで、しかしその瞳の奥には深い思慮の色を浮かべていた。
「お互いに、大変なことになりましたね」
その言葉には、王女としての立場を超えた、個人としての共感のような響きがあった。
「全く、あの方は……どれほど周りに心配と迷惑をかければ気が済むのかしら」
言葉だけ取れば、婚約者に対する厳しい非難にも聞こえる。ドキリとするような鋭い一言だったが、不思議と声色には棘がなく、むしろ呆れと、ほんの少しの親しみのようなものすら感じられた。
「……ええっと、その……申し訳ございません」
予期せぬ王女の言葉と、その複雑な響きに、エミリーはしどろもどろになりながら謝罪の言葉を口にする。主人の不始末は、仕える者の責任でもあるのだ。
そんなエミリーの様子を見て、アイリス様は小さく息をついた。
「謝る必要はありませんよ、エミリー。悪いのは貴方ではないのですから……今日の要件だけど、少し、込み入った話になったの」
アイリス様は少しだけ声を潜め、真剣な眼差しでエミリーを見つめた。
「婚約破棄、を勧められたの」
「……えっ!?」
ほとんど反射的に、間の抜けた声がエミリーの口から漏れた。
婚約破棄。
天恵も不明で、魔人族疑惑までかけられ、いじめの過去まで露呈したのだ。
貴族社会において、これ以上ないほどの醜聞。破棄されても仕方がない、むしろ当然の流れかもしれない。そうなれば、フォルテス家は更なる窮地に立たされる。アラン様は、本当に全てを失ってしまうのかもしれない。
しかし、アイリス様の口から続いた言葉は、再びエミリーの予想を裏切るものだった。
「安心して、断ったから」
きっぱりとした、迷いのない声だった。
「……よろしいのですか?」
エミリーは思わず聞き返していた。
王女としての立場、ご自身の将来を考えれば、醜聞まみれの婚約者など、足枷にしかならないはずだ。
アイリス様は、エミリーの問いに、ふっと柔らかく微笑んだ。その笑みには、どこか覚悟を決めたような強さが宿っていた。
「彼と約束したの。『見張っていてほしい』って。だから私が婚約を破棄するのは、彼がその約束を破って、また昔のような道に逆戻りしようとした時だけよ」
そう言って、アイリス様は再び前を向き、今度こそ迷いなく玄関ホールへと歩き出した。
残されたエミリーは、その凛とした後ろ姿と、今聞いたばかりの言葉の意味を反芻しながら、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
重苦しいフォルテス邸の空気に、ほんの僅かだが、予想もしなかった一条の光が差し込んだような、そんな不思議な感覚がエミリーの胸を満たしていた。