第8話 基礎教育の普及
農業改革が軌道に乗り始めた頃、パルメリアは新たな取り組みに着手していた。それは、文字や基本的な計算を学ぶ機会を、読み書きのできない子どもたちに提供する試みだ。
(こんなことを始めたら、保守的な貴族たちはますます警戒するでしょうね。でも、反発を恐れていては何も変わらないわ)
夕暮れ時、村外れの古い倉庫を改装した小さな学舎には、十数人の子どもたちが集まっていた。黒板には、パルメリアが前世の知識を活かして作成した簡単な文字表が貼られている。数名の教師が授業を進めるなか、パルメリア自身も時間を見つけては顔を出し、子どもたちが熱心に学ぶ様子を見守っていた。
「これは『あ』という音を表す文字よ。形をしっかり覚えて……そこの男の子、落書きはあとでね」
「ごめんなさい、先生……」
学舎の中は子どもたちの声で揺れるほど賑やかだ。しかしそこには、わずかな期間で文字に興味を示し、真剣な表情で机に向かう子どもたちの姿があった。教室には確かな成長の兆しと、生き生きとした活気が漂っている。
一方で、この試みには周辺の貴族たちの間で反発の声も上がっていた。「子どもに文字を教えて何の意味がある」「身分の格差が崩れるのではないか」と、身勝手な不安を口にする者も少なくない。パルメリアに冷たい視線を向ける者も増えていたが、彼女はそんな批判に動じることはなかった。
(学ぶ機会を奪われることが、どれほど理不尽なことか。たとえ小さな学舎でも、文字を覚えただけで子どもたちの未来は大きく変わるはず)
教室の隅に立ち、子どもたちの元気な声に耳を傾けながら、パルメリアは静かに室内を見回した。読み書きができないために人生の選択肢を奪われるのはあまりにも不公平だ。いつか彼らが成長し、この国を支える存在になる日を思い描くと、自然と力が湧いてくる。
「パルメリア――」
聞き慣れた声に振り向くと、幼馴染のレイナーが立っていた。彼も時々この学舎を訪れ、授業の様子を興味深そうに見守っている。
「大胆だね。貴族なら、なかなか考えつかない発想だ」
「そう? 奇妙な思いつきだと笑われてもおかしくないけれど」
パルメリアが少し皮肉を込めた調子で返すと、レイナーは肩をすくめて苦笑した。
「でも、みんなが文字を読めるようになれば、領地全体が底上げされる。それが君の狙いなんだろう? 君がどれだけ先のことを考えているのか……興味があるよ」
「勘ぐりすぎよ。そんなに大げさなものじゃないわ。今はただ、できることをやっているだけ」
軽く返す彼女だったが、レイナーはその視線の奥に、彼女が単なる思い付きで行動しているわけではないことを見抜いていたようだ。彼の瞳には、パルメリアがこの改革を本気で信じている確信が映っていた。
実際、彼女の計画はまだ始まったばかりだ。将来的には他の村にも学舎を設置し、孤児院などとも連携して教育の機会を拡充したいと考えている。しかし、財源の確保や保守派の反対をどう乗り越えるかといった課題は山積みだった。
「見て、パルメリア様!」
窓際に座っていた幼い少女が、手を振りながら嬉しそうに声を上げる。小さな体を精いっぱい伸ばして見せたのは、一枚の紙だった。
「先生に教わった字を書いてみたの! あってる?」
紙には、不格好ながらも整然と並ぶ文字が書かれている。その形のぎこちなささえも、本人にとっては大きな成果だ。パルメリアは微笑みながら紙を受け取った。
「よく頑張ったわね。まだ少しぎこちないけれど、練習を続ければきっと上達するわ」
少女が笑顔を浮かべるのを見つめながら、パルメリアの胸にはさらなる決意が宿る。農業改革と教育の充実――どちらも地味な努力を要するが、両輪となって人々に新たな希望をもたらせるはずだ。
(ここで立ち止まるわけにはいかない。どんな目で見られようと、この道を進むのよ)
外は夕闇が迫っていたが、学舎の中では子どもたちの笑い声が響き続けている。この小さな学舎から始まった変革が、やがて王国全土を巻き込む大きなうねりになるのかもしれない。
だが、その動きを警戒し、阻もうとする存在もまた確実にいる。改革という光が強まるほど、影もまた色濃くなる――パルメリアはそれを薄々感じ始めていた。