第1話 悪役令嬢の運命
「はあ……やっと仕事が終わった」
駅の改札を出ると同時に、思わず深い溜め息がこぼれる。平日の夜はすでに十時を回り、大通りの照明はまばらだ。すれ違うのは、同じように残業を終えた人たちばかり。今日も一日、書類と会議に追われ、すっかりくたびれてしまった。
出勤前のわずかな時間を使って、今話題の乙女ゲーム『エターナルプリンセス』を少しだけ進めていた。ちょうど盛り上がりそうな場面でセーブするしかなく、続きが気になって仕方なかったのに、気づけばもう夜もこんな時間……。疲れは限界だけど、明日が休みなのが唯一の救いだ。
(早く家に帰ってシャワーを浴びて……ベッドに潜り込んで、ゲームの続き……。それだけが、今の楽しみ)
そんなふうに自分に言い聞かせながら、人通りの少ない路地を足早に進む。街灯はぽつりぽつりと点在するだけで、辺りは薄暗い。一刻も早く帰って体を休めたい――そう思った矢先だった。
視界の端から「何か」が高速で突っ込んでくるのが見えた。反射的に体をよじるが、間に合わない。光と衝撃、そして耳を裂くような金属音――その直後、全身を貫くような衝撃に襲われた。
ぐしゃり、と嫌な音が聞こえた瞬間、自分の体が宙に投げ出される。呼吸する間もなく肺から空気が奪われ、全身を襲う激しい痛み。頭は状況を理解しきれないまま、意識がどんどん遠のいていく。
(痛い……死んじゃうのかな、私……)
家族や友人の顔が霞むように浮かんでは消えていく。声を出そうとしても喉が動かない。遠くで誰かが悲鳴を上げているような気がするけれど、それもどこか他人事のように感じられる。最後に頭をかすめたのは、スマホの画面に映っていた『エターナルプリンセス』のキャラクター。華やかなドレスに身を包んだ、貴族の娘らしい美しい姿が鮮明に浮かび上がる。
(……ああ、パルメリア・コレット……)
その名前が脳裏に浮かんだ瞬間、意識の全てが黒い闇に飲み込まれていった。
次に意識を取り戻した時、柔らかな感触が全身を包んでいることに気づいた。目を開けると、ふかふかのベッドに横たわっている自分。アンティーク調の天蓋が目に入り、揺れる淡いレースから上品な花の香りが漂ってくる。まるで夢の中にいるような、不思議な感覚が全身を包んでいた。
(ここは……? 確か、あの路地で……)
頭は重く、思考もはっきりしない。落ち着こうと深呼吸しながら身を起こすと、視界の隅に鏡台が映り込む。その鏡に映る姿を見た瞬間、息が止まりそうになった。そこにいたのは、まるで作り物のように整った少女――。
(うそ……これが私……?)
金色の髪がふわりと波打ち、白く細い手足が異様なほど華奢に見える。ぼんやりしていた頭に冷水を浴びせられるような衝撃が走り、混乱の波が押し寄せるまま鏡に映る自分を見つめ続ける。その時、部屋の扉がそっと開いた。柔らかな声とともに、侍女らしき少女が姿を見せる。
「お嬢様、そろそろお目覚めになられましたか? ご朝食の用意ができました」
「お嬢様」と呼ばれた途端、背筋がこわばる。そんな立場とは無縁のはずなのに――戸惑いながら自分の名前を尋ねると、信じられない答えが返ってきた。
「はい。パルメリア・コレット様。ご気分はいかがでしょうか?」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中を電流が走るような感覚に襲われた。乙女ゲーム『エターナルプリンセス』に登場する貴族の娘、パルメリア・コレット。その名前を侍女が口にしたということは――。
(あのゲームのキャラクターと、今の私が同じ存在に……?)
現実世界で遭った事故の記憶が鮮明に蘇る。鋭い衝撃、息が詰まるような痛み。それなのに、気づけばこんな異世界のような場所で、見ず知らずの体に宿って目を覚ましている。思わず自分の手を握り込むと、はっきりとした痛みが伝わり、これは夢ではないと否応なしに理解させられる。
(このパルメリアって娘は……ゲームの本編で悲惨な結末を迎えるキャラ。追放エンドがあるとか聞いたけど、私、そのルートまで進めてなかったよね……)
物語の結末を知らない不安が胸を締めつける。それでも、一つだけ確信していることがあった。ゲーム通りに振る舞えば破滅が待っているということ。何もしなければ、運命が好転する可能性はゼロだ。
「追放……それどころか、処刑ルートだってあり得るじゃない……!」
ぽつりと漏れた声がわずかに震えた。自分でも動揺しているのがわかる。ただシナリオ通りに進むだけでは破滅は免れない――。たとえここがゲームの世界であれ、私にとっては現実そのものだ。
(あんな事故に遭っても、私はこうして生きている……だからこそ、ここで流されるわけにはいかない。知っている知識と経験を総動員して、なんとかしないと)
深く息を整え、前の世界で得た知識を頭の中で必死に思い返す。そして、思い出せる限りのゲーム展開を記憶の中から掘り起こした。
「絶対に追放なんかされない。この運命は、私のやり方で変えてみせる」
思わずこぼれた強い言葉に、侍女は不思議そうに首をかしげる。しかし、もう決意は揺るがなかった。パルメリア・コレットとして生きる以上、どんな形であれ、自分の未来を守り抜かなければ。
大きく息を吐き、改めて拳を握りしめる。自分の手で運命を切り開く覚悟――それが、今の私にできること。この世界で与えられた第二の人生が簡単でないことはわかっている。それでも、私は自分の力で未来を変えてみせる。