シーファの旅
むかし、むかし。
海の中には王国がありました。陽の光が差し込む、色とりどりの珊瑚の森です。森には深い海底谷が走り、民は浅層をくり抜き、めいめいが家族単位で暮らしています。シーファはそこで生まれました。
かがやく金の髪。南の空を思わせる青い青い瞳。卵型の輪郭にうつくしい顔立ち。乳白色の肌はきめ細かく、ほっそりとした腕は伸びやかな――下肢は緑の鱗に浅黄色のひれ。人間でいえば十二歳ほどの少女です。シーファは人魚でした。
ある日、シーファは一緒に暮らすおばあさんに尋ねました。
「ねえおばあさま。わたしのお父さまは、王さまって本当? わたし、一度もお会いしたことがないわ」
「あら。近所の子から聞いた? 本当よ、愛しいシーファ。エウレナの忘れ形見」
寝床に生やしたふかふかの苔は淡く光り、寝そべるシーファのちいさな面と肩を照らします。金の髪はたゆたい、繭のように体を覆っています。
シーファの祖母トレアは、まだすべすべの肌に真っ白な髪と銀の瞳をしています。人魚の薬師でもあるトレアは苔の光を頼りに、採ってきた紅玉海葡萄の選別をしていました。
海底谷の深部には不思議な薬効をそなえる海草がたくさん生えています。よって、シーファたちの住まいもずいぶんと下層です。
シーファは、きらびやかだと伝え聞く珊瑚宮も王族も見たことはありません。海の上も見たことはありません。中層より上に行ってはならないと、トレアにきつく言い含められているからです。
おおきな目をぱっちりと開け、まだ寝そうにない愛くるしいシーファに、苦笑したトレアは歌うように語りました。
それは、人魚にとってはそう遠くもない昔。どこからかやってきた『エウレナ』という女性と、彼女にひとめ惚れした王の物語……
――――
お話によると、エウレナがお妃さまになることはありませんでした。
そのころのトレアは珊瑚宮で働いており、エウレナを養女にして宮から下がるよう、こっそり王命を拝したそうなのです。
シーファは首をかしげました。
「なぜ? おばあさま」
「王さまも難しいお立場でねえ。正妃さまが、ご自分以外のお妃をみんな追い出してしまわれる方だったの。王さまは、身寄りのないエウレナを守りたかったのよ」
「そう……」
うつらうつらとしていたシーファは、それきり眠ってしまいました。
❖
翌朝、シーファは日課にしている中層の素材採取に出かけました。柔らかで丈夫な海藻を編んだストールを肩に巻き、背びれのようにひらひらとなびかせて泳ぎます。
すると、「やあ」と声をかける若者がいました。
近辺に住まう人魚をとりまとめる家柄の青年で、名をロメル。ロメルは人好きのする笑顔でシーファに近づきました。
「おはようシーファ。ねえ、聞けた? きみが生まれたときのことを」
「おはようロメル。ええ、ちょっとだけ。……でも、どうしてあなたが知ってたの? それに、こういうのって、あんまり言いふらさないほうが良いんじゃないかしら」
「べつに、今さらだよ。この辺りじゃ公然の秘密だし、俺の代になってもトレアさんとシーファを絶対に守るよう、親父から言われてる」
「そんな」
ロメルの父は、若いころは王宮で護衛官をしていたそうです。びっくりしつつも、泳ぐうちにたどり着いた割れ棚でシーファは忙しく手を動かしました。
住まいにするためにくり抜いた岩肌と違い、自然に割けた岩棚は狭く、びっしりと苦蔓藻を生やしています。暗緑色のうねうねは、見た目は忌避感たっぷりですが、トレアが魔法の炎で炙るときれいな緑のゼリーになります。それをていねいに貝殻で包み、封じ魔法を施すのがシーファの仕事でした。苦蔓藻のゼリーは、味は苦いのですが、お腹をこわした人魚にとても良く効くのです。
手慣れた様子のシーファの横顔に目を細め、ロメルは感嘆したように呟きました。
「黙ってにっこりしてれば王女さまなのに。立派なもんだ。いつでもトレアさんの跡を継げるよな」
「……褒めてるのよね? ありがとう。おばあさまは、あと百年はずっと現役よ」
「さすがは『白の魔女』。――あ、あれも採るだろ? 手伝うよ」
「ん」
気さくなロメルの好意にあずかり、シーファはあいまいな笑みを返しました。
白の魔女。
そう呼ばれてもおかしくないほどトレアの容姿は衰えず、魔力は抜きん出ています。それを誇りに思いつつ、自分にはそこまでの魔力がないと、わかっているのですから。
(おばあさまには憧れるけど……跡取り、は無理じゃないかしら。薬師の仕事は好きなんだけどなぁ)
ぷち、ぷち、と蔓をむしり取り、持参のストールに巻き込んでいきます。
こうしておけば、帰りは胸に抱えることで一本もこぼさず住処まで泳げるのです。
(あら……?)
異変はしずかに起こりました。
ロメルが戻ってきません。
ロメルが向かったのはもう少し下層の洞窟で、稀少な紅玉海葡萄が生る特別な場所でした。視線を下方に滑らせれば、いつも目印にしている大きな海草がゆらゆらと揺れています。
呼びに行こうと、体の向きを変えたときにそれは出てきました。あれは。
「――!」
マダラウミサソリ。
生きものらしからぬ、けばけばしい蛍光青に紫のまだら模様が特徴的なトゲトゲの毒サソリです。
うかつでした。あいつが稀に中層に現れるのは知っていました。だからこそシーファは肌にサソリ避けを塗っているのに。
では、ロメルがなかなか出てこないのは。
(お願い、無事でいて。間に合って……!)
慌てて巻いたストールを小脇に挟み、猛スピードで洞窟をめざします。
覗き込んだ洞窟で、シーファは怖れていた光景を目の当たりにしました。ぷかりと、ロメルの長身が意識なく浮かんでいます。きっと、どこかを刺されたのです――!!
「ロメルーッ!」
無我夢中でシーファは泳ぎました。ストールを放り出し、引ったくるように青年人魚を抱えます。
早く。早く。
腕のいい薬師に診てもらわねば危ういことは顔色を見れば明らかでした。
シーファは、もどかしい思いで一直線に下層の我が家まで泳ぎ切りました。
❖
「とんだことになったわね」
「おばあさま……! どうしよう。わたしがぼうっとしていたせいで」
「過ぎたことを嘆いても仕方がないわ。さ、そこに寝かせて」
てきぱきと動くトレアの診察は的確でした。
刺されていたのは右手の甲です。タコの吸盤を使って毒を吸い出し、手首と肘のあいだを丈夫な海草できつく縛ります。おそらく、毒サソリは紅玉海葡萄の群生に潜んでいたのでしょう。運が悪かったとしかいいようがありません。
言われるままに助手をつとめていたシーファは、苦しそうなロメルの横顔に、つん、と目頭が熱くなりました。
が、すぐさま気持ちを切り替えます。頭を振って、きりりと問いかけました。
「助かる?」
「助ける方法はあるわ。でも」
「言って。何でもするわ!」
「……何でもなんて、軽々しく口にしてはだめよ。シーファ。でも、それならば今すぐロメルに『封じ』の魔法をかけて」
「え? いいの? おばあさま。あれは、薬を詰めるときの魔法じゃ……」
「いいのよ。さあ早く!」
「わ、わかったわ」
あわてたシーファはロメルの体に両手をかざし、内なる魔力に働きかけました。心に浮かぶ言葉で、願いを韻に。歌のように練り上げます。
だからでしょうか。
韻は、おのずと貝殻に薬を詰めるときとは違うものになりました。
こごれ、いのち
とまれ、外から来たモノ
なんじ、邪たるモノ
彼は彼のまま
しばし眠れ
めざめを待たん
――――昔からそうです。
シーファにとって魔法は「言葉」でした。でも、なぜか口にする必要がありません。むしろ、声にしたとたんに霧散してしまうのです。
願ったとおりにロメルの顔が安らいでゆきます。
光の粒がロメルを包み、やがて収まると、寝床の上でロメルは眠るようでした。
魔法をかけ終えたシーファは、両手を胸の前で組み、祈るようにトレアを見つめます。
トレアは、こくりとうなづきました。
「よし。これで毒を止められたわ。なにしろ解毒の材料はここにはないから」
「なるほど。採りに行かなきゃいけないのね。どこ? わたし、行くわ」
「まあ待ちなさい、愛しい子。順序があるのよ」
「じゅんじょ……?」
ぱちくりと瞬く青い瞳に、銀の瞳をすがめたトレアは口の端を苦そうにゆがめました。すい、と、しなやかな腕を伸ばし、人さし指を上に向けます。
「まずは珊瑚の森へ。王に――あなたのお父さまに、謁見を申し出ねばなりません」
❖
(大きな竜蛇みたいに細長い……明るいわ。あれが、裂け目。わたしたちが暮らしていたのは、本当に地の底だったのね)
見上げる水面はきらめき、白い波間が規則正しく揺れています。下層から湧き上がるいくつもの気泡に撫でられ、優雅になびくトレアの赤銀の尾を導べに、シーファは懸命に泳ぎました。
「!」
やがて追いつくと、急に広がる視界。見たことのないあざやかな色彩群に、とっさに目をつむったシーファはまぶたをひらき、おそるおそる周囲を見渡しました。
赤、ピンク、黄緑、紫の珊瑚礁。敷きつめられた白砂のまぶしさ――そのどれもが海底谷の下層に慣れた瞳には賑々しく、軽く目まいを起こすほどです。
くらくらと目を回すシーファに、トレアは感慨深そうな面持ちで手を伸ばしました。
「大丈夫? 手をつなぎましょうか」
「ありがとう。おばあさま」
王宮は巨大な白珊瑚でできていました。天井や壁を飾る宝石珊瑚もみごとですが、そこを行き来する小魚たちの色合いも豊かです。
門番らしき人魚に取り次いでもらい、トレアとシーファは宮殿の中へと案内されました。
謁見の間は天然の大広間でした。
円柱のような光が幾すじも差し込む空間で、長い紫髪を揺らめかせる男性人魚が玉座に掛けています。
王さまは美しく、雄々しい、立派なかたでした。
驚き、黒い瞳をみはる王さまを、シーファはどきどきと見守りました。
そんななか、トレアが淡々と頭を垂れて挨拶を述べます。シーファも、ハッとして面を伏せました。
「お目通りをありがとうございます、王さま。このたびは、薬師としてのお願いに参上しました」
「……申してみよ」
トレアは、一緒にともなったシーファのことは何ひとつ触れず、中層に危険なマダラウミサソリが出たこと、被害者がいること、解毒のための材料が足りないことを報告しました。
それは由々しい、とこぼした王さまに、顔を上げたトレアが凛と訴えます。
「つきましては、こちらの我が弟子にして養い子シーファを、材料を採るため。陸へと派遣することをお許しください」
「!!」
「な、なんだと」
とっさに玉座から跳ね上がった王さまと同じように、シーファもびっくりです。あやうく変な声が出るところでした。
(陸。……陸ですって? 嘘でしょう!? しんじゃう!)
人魚は陸で生きられません。動くこともままなりません。それくらいはシーファも知っています。これは、温厚そうな王さまだって――
そう思ってちらりと見上げると、王さまは何かの痛みをがまんするような面持ちで、じっとこちらを見つめていました。固く目をつむり、絞り出すように「わかった」と、おっしゃいます。
(王さままで!? どうして!)
さすがに口をひらこうとしたした矢先です。
王さまが腕を横に払いました。謁見の終わりの合図です。
控えの番兵もいますし、こうなっては下がらないわけにいきません。混乱の極みのシーファでしたが、伏せた視界に入る青銀の尾びれの端に、どきりとしました。王さまが高みの座から降りて来られたのです。
低く落ち着いた声はあたたかく、思いのほか近くから降り注ぎました。
「必ず……かえってきなさい。そのとき、また、時間をとろう」
「は、はい」
なぜでしょう。まるで、王さまは心の中で泣いていらっしゃるようで。
シーファはそれ以上を告げられませんでした。
❖
王宮をあとにしたトレアはスピードを上げ、ぐんぐんと上昇します。初めて浅海に来たシーファは、心臓がばくばくしてうるさいほどでした。海底谷の底から上層へ浮かぶとき以上の苦しさです。
やがて、バシャン! と、水の膜を突き抜けたトレアをならい、覚悟を決めたシーファは勢いよく海面に躍り出ました。
信じられないくらいに明るい空。
高く澄みとおって青い空です。
息は――――できます。ただ、長くはいられないでしょう。トレアはもっとつらそうです。眉をひそめ、肩を上下させています。あちこちを眺め、行くべき方向を探っているようでした。
息を整える間、シーファは重くしたたる金の髪を額より後ろに流し、のぼる白い満月と燦々と照る太陽を見つめました。
乾いた空気は胸に痛かったですが、不思議と晴れ晴れとしました。
(水がないって、へんな感じね。喋れるかしら?)
すると、トレアにとんとんと肩を叩かれました。
身ぶりから察するに、どうやら、もういちど潜れとのことです。海中を指さしていました。
とぷん、と沈む白髪の養い親を追い、シーファも身を沈めます。なじんだ感触と世界に、ほっとひと息。
正面に漂うトレアは、そんなシーファに目を細め、「思ったとおりね」と呟きました。
「どういうこと? おばあさま」
「あなたは息ができたでしょう? ふつう、人魚は水の中でなければ呼吸ができない。なのに、あなたはできた。この意味がわかる?」
「え? それは」
シーファは、ぐるぐると考えました。本当にわかりません。
困り果てて泣きそうになるシーファを、トレアは慌てて優しく抱きしめました。
「かわいいシーファ。泣かないで。責めているわけじゃないの。ただ、それこそがあなたを陸に遣わしたいと願った根拠。あなたなら『大丈夫』と思ったから」
「わからない……。わからないわ、おばあさま」
「わかるわ、きっと。この旅の終わりには」
「旅……」
そっとトレアの肩からこめかみを離したシーファは、途方に暮れながらも水面越しに広がる空へと思いを馳せました。
陸影は太陽の方向に、かすかに見えていました。そこから先はさらに未知の世界です。自然にロメルの顔が浮かびます。
「そうね、ロメルを助けなきゃ。教えて。材料は何? 陸のどこにあるの?」
「いい子ね。ついていらっしゃい」
ふたりで海面に近い場所を移動します。泳ぎながら、トレアはていねいに教えてくれました。
まずひとつ。
マダラウミサソリは、元は陸の生きものだったということ。ゆえに、彼らの毒を中和する薬草は陸に生えているということ。名をセイレイラン。
もうひとつ。
セイレイランは、人魚の身では到底たどり着けない山の頂にしか生えないため、近辺に住む人間の魔女を頼るといい、とのことでした。
はて、と、シーファは首をかしげます。
「魔女? おばあさまみたいな? 名前は何とおっしゃるの」
「名前はひみつ。でも、黒の魔女と呼ばれているはずよ」
「……こわそうね。でも、がんばるわ」
「そうしてちょうだい」
❖
ここで待っているわ、とほほ笑んでくれたトレアに手を振り、シーファは教わったとおりの方向へと向かいます。
岸辺に並ぶ大小の舟影には目もくれません。ほかの人間に見つかってはたいへんなことになる――そう、きつく言い含められたので。
(ええと。『魔女の家は海に面している』。『魔女専用の小舟をつないだ船着場がある』から、顔を出すのは『島影にある湾の、たったひとつの舟の近く』……が、いいのよね。あれかしら!)
まさに条件にぴったりの場所を見つけ、シーファは慎重に近づきました。
万が一にも違う人間に見つからないよう、そうっと小舟の真横から頭を出します。
さいわい、だれもいません。
板木の桟橋で三方を囲まれた湾の向こうに、こぢんまりとした家が建っていました。
傾き始めた陽の光が白い壁をオレンジに染めています。青く塗られた瓦屋根はかわいらしい三角で、シーファは(黒の魔女の……家?)と、胸の中で呟きました。
そのときです。ふいに、真横から声をかけられました。
「ちょっと。なんてとこから顔を出してるの、あなた。どこから泳いで……、まさかッ!?」
「ひえ! きゃっ、きゃあああ!?」
なんと、お互いがお互いにびっくりしています。
それはそう。だって、ご婦人はとてもしずかに座っていましたし、シーファにいたっては、だれも舟に乗っていないと思い込んでいたのですから。
焦ったシーファは(どうしよう、もういちど海に潜ろうか――)と、悩みましたが、こちらをのぞき込むご婦人の姿に息を呑みました。
すばらしくきれいな女性です。黒の頭巾に黒のワンピースを身に着けています。肩かけも黒。
けれど、頭巾からこぼれる髪は波打つ金色で、真珠のような肌をしています。瞳は昼間の空を映した青でした。
それは、まるで。
シーファは、派手に叫んだきり固まってしまいます。
ご婦人は、そっとささやきました。
「まさか…………人魚?」
「はい。あの、黒の魔女さまでいらっしゃる?」
「ずいぶんとはっきり聞くのね」
「おばあさまから、そのように育てられていますので」
「まあぁ……そうなの」
手を口もとに当て、ころころと笑う様子は朗らかで、ちっともこわくありません。
ほう……と、肩の力を抜いたシーファに、黒の魔女は瞳をすがめて手を伸ばしました。
「いらっしゃい、ちいさな人魚姫さん。わが家にご招待するわ」
❖
人間の家に入るには、この体では難しいのでは……?
そう尋ねたシーファに、こともなげに魔女は魔法をふるいます。
舟から降りて桟橋へ。シーファには桟橋に腰かけるよう言いつけたあとです。
「そは陸へ上がりし人魚姫
変われ、人の足へ
変われ、鱗は緑のドレス
さぁ歩いてごらん」
「わ……!!」
シーファは、みずからの魚の尾が一瞬で二本足に変化したことに目をむきました。
どころか、すべて魔女の言葉のとおりです。固かったはずの鱗がふわりとほどけて、まるで人間がまとう布のように広がりました。胸からくるぶしまでをやわらかく覆うデザインは胸下以外はふんわりとして、人魚というより海月です。
仕上げに魔女が指を鳴らすとあたたかな風が吹き、あっというまにシーファの体を乾かしました。ふわふわと肩に触れる髪の、くすぐったいこと!
「不思議ね、とっても軽い。水から出ただけであんなに重かったのに。――あの、『歩く』って?」
「足を交互に動かすの。こうよ」
魔女は、品のいいパンプスまで黒でした。お手本に桟橋の端まで歩いて戻った彼女が、やさしくシーファの手をとって立たせます。
おかげで、シーファは転ぶことなく魔女の家に入れました。
日はすっかり傾いて、長い長い山の影を海と陸の両方に投げかけていました。
――――
「そう。お友だちが……」
「はい。ロメルといいます。近所でいちばん年が近いお兄さんなの。あの……ありますか? セイレイラン」
「あるわよ。もちろん」
「ほ、本当に!?」
火を入れた暖炉の前に椅子を持ち寄り、ありあわせのカップだけど、と断って淹れてくれたお茶を飲みながらの会話です。
最初のころよりも楽に話せるようになったシーファは、つい、カップを両手に持ちながら立ち上がろうとしましたが、ふらつき、魔女に止められました。水のない場所で動くことに慣れていないのです。
あわやカップを落としそうになったところまで助けられ、シーファは顔を赤くしながら懇願しました。
「お願いします。どうか、ゆずっていただけませんか」
「そうねぇ。どうしようかしら」
「魔女さま……」
「うふふふふ。うそよ、『封じの魔法』をかけていたって心配よね。すぐに用意してあげる」
「魔女さま!!」
表情をくるくると変えて一喜一憂百面相を見せてくれるシーファに、黒づくめの魔女はちょっぴり意地悪な顔つきになりました。
「――けれど、呆れた。あなたのおばあさまは、稀少な素材の代価がいらないとでも思ったのかしら? 孫のあなたに何も持たせないだなんて」
「それは……」
ぐうの音も出ません。たしかにそうです。
でも、シーファの中にはかすかな予感がありました。
おばあさまは、なぜ『黒の魔女』の家を知っていたのでしょう?
なぜ、王さまは「あとで」とおっしゃったのでしょう? あんなに泣きそうなお声で。
なぜ、シーファは陸でも息ができたのでしょう? 生まれたときからちゃんと人魚だったはずなのに。
ごくり、と喉を鳴らしたシーファは、真っ直ぐに魔女を見つめました。
「なぜ、わたしと…………あなたが同じ魔法を使えるのか。そこに理由があるんだと思います。教えてください。あなたの名前を」
「……」
「わたしは『シーファ』です。育ててくれたおばあさまの名前は」
いっきにまくしたてるシーファを、魔女は、さっと手を挙げて遮りました。勝ち気そうな口元には苦笑が。青い瞳には複雑な光が浮かんでいます。
「――――降参。『トレア』ね。原初の時代に海を選んだ魔女の末裔。人魚たちの祖にして高潔なる『白の魔女』。伝説の魔女よ」
「!!」
じゃ、セイレイランを持ってくるわね、と告げた魔女に、シーファはひたすらぱくぱくと口を開け閉めしました。
°。°❍°。 。°❍°。 。°❍°。°
(ああ、あの子は会えたかしら。愛し子に)
ゆらゆらと潮の満ちる感覚。仰向けで波にたゆたいながら、真円の月に照らされて、トレアはじっと待っていました。
あの子――、かつての『黒の魔女』を思いながら。
十三年ほど前でしょうか。ひとりの魔女が珊瑚の森に落ちてきました。
陸の魔女たちに記憶を奪われ、人魚であると偽りの記憶を植えつけられ、人魚としての魔法も操れないまま、それでも仮の姿を真実と疑わず。
美しく、かわいそうなエウレナ!
いっぽう、トレアは陸を棄てた魔女でした。
太古の時代に栄えた魔法王国で、常態化した魔女どうしの争いがいやになったのです。
『赤』は炎。『青』は水。『緑』は草花。それぞれの色を冠して名乗る魔女たちの頂点は『黒の魔女』。言葉の魔法の使い手です。トレアもまた、そのひとりでした。
それゆえ、エウレナにかけられた変化と忘却の魔法にも気づきましたが、どうすることもできません。大昔に本当の人魚に転身するため、言葉の魔法のありったけを使ってしまったからです。
せめて手厚く保護しよう、と、世話役を買って出ましたが。
王宮あずかりとなったエウレナに若い王が夢中になるのにそう時間はかかりませんでした。
いったい、だれが想像できたでしょう?
産まれたばかりのシーファの心の声が純粋な『言葉の魔法』となって、あの子の記憶を揺り動かしたなんて。
「海にはいられない。帰らなくては」と告げたエウレナが、泣く泣くトレアにシーファを託したなんて。
(もう、すべては過ぎ去ったことだけど)
ひょっとしたら、シーファも陸を選ぶかもしれません。
でも、前触れもなく現れた我が子に、エウレナなら?
トレアは、愛しいふたりに選択をゆだねて待つつもりでした。
きっと、素直でなくともとびきり義理堅いエウレナなら、何かしらの方法でセイレイランを届けてくれるでしょうから。
――――
波越しに月光を浴びて待つトレアの耳に、あかるく愛らしい呼び声が届くまで、あと、ほんの少し……
°。°❍°。 。°❍°。 。°❍°。°
「おかえりなさい、ロメル!! 良かった、起きた……!」
「え、あ……。シーファ? 俺は」
「ごめんね、本当にごめんなさい! わたしに注意が足りなかったの。だからっ」
「え、いや、何のことだか……? そっ、それより、どうして王さまが!! 親父におふくろ、トレアさんまで!?」
起きて早々、ロメルは目を白黒させました。
泣いたり笑ったり、あたたかく見守ったり。やっぱりうれしくてびぃびぃ泣いたり、騒がしいことこの上ない一幕です。
ここは白珊瑚の王宮の一室。
シーファは、エウレナの好意で水の中でも薬効を維持できるよう魔法をかけられた薬を、ようやくロメルに与えることができました。
トレアとシーファが退出したあと、王さまはすぐにロメルとロメルの両親を王宮に呼び寄せたのです。
だって、そのほうがずっと早くに治療ができますからね。
おかげでロメルは、猛毒のマダラウミサソリに刺されたにもかかわらず、一日足らずで回復しました。
人魚の涙は、海水の中ではめったにわかりませんが、シーファは表情がとっても豊かなため、すぐにわかります。すがりついて泣きじゃくる金の髪の人魚姫に、ロメルは真っ赤になりました。
それをほのぼのと眺めながら、王さまはちょっとだけ、ムッとしたりするのでした。
トレアがさりげなく脇に立ち、肘鉄を食らわせます。
「ウッ」
「空気――じゃない。水を読みなさいね、王さま。シーファに嫌われますよ」
「わかっている……!」
妙に遠慮のないトレアに眉を上げつつ、そう言えば、この女性は人魚族の祖なのだった……と思い直したシーファは、にこりと王さまに笑いかけます。
「王さま、さまざまなご配慮をありがとうございました」
「いや、かまわぬ」
とたんにキリッとなさるところも、今となっては可愛らしく感じるから不思議です。
(さて、どこからお話したらいいかしら)
ぼうっと上気した頰のままのロメルから離れ、王の御前にて淑やかな一礼を。シーファは、みずからが見聞きしたことを。あふれんばかりの愛情に助けられた数々のできごとを思い返しました。
顔を上げ、それらを丹念に、やわらかな海藻を紡ぐように心に編み上げます。
海岸住まいのやさしい魔女さまのことも。
「いつでもお申しつけください。いつでも、お話いたします」
シーファの、旅の物語を。
fin.
お読みくださり、ありがとうございました!