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第8話 ニアミス

 確実に左胸に命中したのに、久我の服には血が一切滲んでいない。 

 極限状態の中、その違和感に気づくものはいなかった。


 ヒスパニック系の男は陶酔していた。計画通りに事が運び、乗客を恐怖で支配した快感に身を委ねている。金融屋の位置からは倒れた久我の姿は見えない。

 久我から全員の意識が逸れていた。


「¡Estupendooo!」


 ヒスパニックの男が両腕を掲げ、舞うように”素晴らしい”と叫んだ刹那。

 男の姿が乗客の視界から消え、肉が床に叩きつけられる音が響く。


 常に最悪を想定する――それが俺の流儀だ。誰に笑われようと、防弾チョッキだけは外さない。


 そう。誰もが死んだと思っていた久我がヒスパニック男を引き倒したのだ。


「今だ、エイミー!!」


 泡を食った金融屋が久我の元に駆けてきているが、エイミーに合図を送ってその対処を任せる。

 叫ぶと同時にエイミーから先ほど渡されたプラスチックナイフを袖の隠しポケットから抜き放ち、流れるように手首を返す。強度は確認済み。恐らく特殊ポリマーだ。

 一連の動きに一分の無駄や狂いはない。


 狙うは──眼球の奥。


 聞くだけで嫌悪感の生じる鈍く、湿った音。


 ナイフは眼窩を貫き、薄い骨と脳を刺し抜いて止まった。

 男の体が、震えることなく沈黙する。即死。

 

 一方で関西弁の白人CA──否、合衆国諜報員エージェントエイミーは同時進行で金融屋を処理していた。


 ギャレーのカーテンを跳ね上がったと思うと、飛来物が金融屋目掛けて一直線に飛んだ。


 エイミーは制服の裾を乱すこともなく、軽やかな動きで床を蹴ると、手にした小さなナイフ──否、クナイのような武器を投げ放ったのだ。


 一閃。


 放たれた刃は銃弾にも引けを取らない速度で真っ直ぐに飛び、金融屋の額の中央、眉間──思考を司る中脳を狙った一点に、刃が吸い込まれるように突き刺さる。


 その瞬間、まるで果物にナイフを入れたような軽快な音がした。


 金融屋の目が驚きで見開かれたまま動かなくなる。

 倒れ込むことも許されず、命を絶たれた男は、静かに膝をついて崩れた。


 機内に再び、真の静寂が訪れた。

 血と硝煙と、静寂。

 久我は小さく息を吐き、落ちた銃を拾い上げ背中のベルトホルダーにすべり込ませる。


 ──これで終わりだと信じたいが、俺の不運はこの程度で許してくるのか?


 久我は悪い予感が当たらないことを祈りながら機内を見回した。



@機内 ビジネスクラス客席



 客室前方。シートに深く腰掛ける男がひとり、静かに目を閉じていた。

 ―――スコット。この機体の副機長だった男。


 機長殺害の直後、彼は顔貌と体型を改変し、乗客の一人として客席へと紛れ込んでいた。制服を脱ぎ捨て、あらかじめ用意したビジネススーツに着替えて、乗客が部下達に怯えている間にひっそりと着席したのだ。


 あの混乱と恐怖の中で気づいた者はいない。


 コックピットは全てがそのままだ。機長の死体すら。スコットは特段焦った様子もない。なぜなら、コックピットの鍵を持っているのは自分だけであり、鍵がなければいかなる方法を用いてもコックピットに入ることはできないからだ。


 コックピットの不可侵性。皮肉な事に過去のテロの経験から、それは旅客機の必須条件となっていた。


 そんなことよりも、彼を失望させていることがあった。部下の無能さには呆れた。最初から自分でやるべきだった――そう思わずにはいられない。


 だが、苛立ちは表に出さない。


 これも想定の範囲内。元より部下たちは消耗品だ。どうでもよい。それに保険はもう一人いる。


 スコットが内心呟いていると、後方の通路が慌ただしくなる気配を感じた。


 久我だ。エコノミークラスの客席のクリアランスを終え、こちらに向かってきていた。


「私は日本の警察関係者です。申し訳ないのですが、皆さんの安全確保のため、エコノミークラスの空席へご移動願いますか?」


 久我はよく通る声で英語、日本語で同様のアナウンスを繰り返した。この指示には言葉の通り乗客の安全確保の意味もあったが、まだ潜んでいるかもしれないテロリストを一か所に集めるためというのが主目的だった。

 エコノミークラスではエイミーが乗客を警護及び牽制している。


 久我の目指す先は当然コックピットだ。直結するビジネスクラスに客を残して確認中に背後から攻撃されたら元も子もない。

 そもそもそれはスコットの部下たちが取るべき措置であった。彼らは自分達の優位を信じ切って完全に油断していた。


 スコットは目を細めた。その佇まいからでさえ、久我の能力の高さはうかがえる。


 なるほど、私の部下よりもよっぽど優秀だ。


 乗客たちは、文句を一言も言わず移動を始める。機内で拳銃が発砲されるという異常事態に、自らの快適さを優先させるような判断力が低い人間はいない。ビジネスクラスの乗客であればなおさらだ。


 スコットもおとなしく従う。久我の脇を通り過ぎようとした瞬間、久我は声をかけた。


「ちょっとよろしいですか?」


 久我の声音は穏やかだった。だが、その瞳は一切の油断を許していなかった。


 スコットが立ち止まる。その視線が久我のものと交差する。だが、すぐには返事をせず、少し眉をひそめたように見えた。


「なにか?」


 流暢な英語。表情も声も冷静だ。


 だが、久我はわずかな"重心のズレ"を見逃さなかった。


 ──この歩き方。胸部に重量物を隠していた者の癖が抜けきっていない。


 特に、通路を歩く際にわずかに体幹を安定させるような動き。重さに引かれぬよう、自然と背筋に力が入る。そして肩の動きが狭い。これは、拳銃──それもホルスターなしで胸に収めていた可能性が高い。


「念のため、ボディチェックさせていただけますか。この後、全員にする予定です」


 あえて無表情でそう告げる。

 スコットは一瞬だけ沈黙し、ゆっくりと両手を挙げた。


「どうぞ」


 冷静に応じる。だが、内心では叫んでいた。


 ……気づいた、だと? たった数秒の観察で?


 銃はすでに機長席の足元、非常用酸素装置の裏へと滑り込ませてある。身体には何もない。発見されることはないとわかっていても、別の理由もあり心拍がわずかに上がる。


 なるほど。この異質さ、彼が鍵かもしれないな。


 久我は丁寧に手順を踏んでボディチェックを行った。ベルト裏、脇下、足首。結果はシロ。念のため、久我は名前を尋ねる。「ケヴィン・ラングフォード」とスコットはあらかじめ用意していた偽名を抑揚なく答える。無論、DPAXも、部下が事前に“公的端末”経由で改竄してある。


 だが、その冷たく沈んだ目は、「お前を覚えた」と明確に語っていた。スコットは、口元に作った微笑を保ったまま、ゆっくりと歩き去っていく。背後で久我の視線がなおも焼きつくように追ってくるのを感じながら。



@空テロ 執務室


  薄暗い指令室に、通信機器の点滅が浮かび上がる。巨大なスクリーンには航空機の航路が表示され、他のオペレーターたちは緊張を滲ませた表情で作業にあたっていた。

 ダグの高性能ピアスイヤフォンマイクから、現場の音声は逐一届いていたため、執務室内の緊張感は最大限に高まっていた。テロリストに気づかれる可能性を排除するため、松永から指示を送ることは避けていた。

 前提としてSMは常に単独行動だから指示はもともと不要ではあるが。


 松永はヘッドセット越しの音声に集中している。固唾をのんで待っていた久我の報告が今、入ったのだ。


『……繰り返す。テロ実行犯二名を制圧のため殺害。客室は現在、乗員とエイミー諜報員の協力によりコントール下にある。今、コックピットに向かっている」


 通信越しに響く久我の声は冷静で、呼吸すら整っている。だが、内容は到底、平時の報告とは思えない。

 SMが以下に特殊任務であるとはいえ、警察組織の一部だ。つまり日本の法律にはどうしても縛られる。いかに凶悪犯と言えど、独断で殺害すれば当然処罰されるが、この場にそれを咎める者は誰もいなかった。

 この国の多くの現場と同様に、空テロでも現場の運用により超法規的措置を実現していた。


 モニターに映る航路に目をやりながら、松永は短く返した。


「確認した。乗客乗務員に死傷者は?」


『死者、老人一名。射殺。実行犯によるもの。負傷者は確認できず』


 重要事項の報告に敬語などというノイズは排除される。端的に必要なことだけ久我は報告した。


「他に報告事項はあるか?」


『犯人の一人が“異常な素材”の銃を携帯していた。X線、金属探知、すべてを回避していた可能性がある。現場で回収済み。後送予定。』


 松永は眉をひそめた。警察はいつもイタチごっこを強いられる。ルールの隙をつく悪事が開発され、それに対応したと思ったら、また網を搔い潜られる。松永は何度虚しさを味わった事か。だが、それで腐る者が空テロの隊長になれるわけじゃない。むしろ、松永は闘志が湧いていた。


 ……いいだろう。穴があるなら、埋めるだけだ。


 松永が決意を新たにしているにしていると久我は続ける。


『依頼事項がある。ケヴィン・ラングフォードという名前の乗客のDPAXデータを調べて怪しい点がないか教えてくれ』


「佐藤、頼む」


 松永は特に理由を聞いたりしない。久我が依頼するということは要注意人物である可能性が高いという事だ。無駄なやり取りで時間を浪費したりしない。

 佐藤も優秀だ。久我が名前を発言した瞬間からデータの称号は既に始めていた。


「特に不自然な点はありません」


『……データ改竄の形跡も調べて、分かったら報告してくれ』


 佐藤の報告も聞いても久我は納得できなかった。この便にあれほど危険な匂いのする人物が偶然搭乗していると考えるほど、楽観的ではないし、根拠はないが自身の悪い予感を強く信じていた。


「少し時間をください」


『了解。そちらから情報は何かあるか?』


「機長、副機長の通信の結果、二人とも要注意人物となっている。確定情報じゃないが、機長は死亡か少なくとも拘束されている」


『ん、仲間割れですか? もうコックピットに着くので確認します』


 この緊迫化、その情報だけで仲間割れと判断できる久我の驚異的な冷静さに松永は改めて舌を巻いていた。現在、この国で久我以上にSMに相応しい人物は居ないとさえ松永は評価していた。



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