第5話 通信不能、迫る影
@空テロ 執務室
「応答しない、くそっ!!」
松永は思わず拳で机を強く叩いた。
離陸許可を出してしまった後悔の念が濁流の如く襲ってくる。
が、今は沈む時ではない。
松永は歯を食いしばり、強引に感情を理性で押し流した。後悔は後からいくらでもできる、今は次善の策を打つ時だ。
「他に連絡手段がないかを徹底的洗ってくれ。この際、乗客経由でも非合法でも構わん」
機長との通信で、当該機の危険度が松永の中で跳ね上がった。彼の横暴をただの日本嫌いと片付けるほど、松永は日和っていない。いくら日本に個人的悪感情を抱いていても、テロのリスクには協力して対処するのが、機長としての最低限の職務だ。
能力が絶望的に低い機長でも、対応の質やスピードに問題があるにしろ、協力しないという選択肢は無い。
確かに久我は現時点では一般人であり協力要請しないという機長の主張は理解できるが、こちらの要求を否定するのであれば、代案を示す義務がある。一方的に協議を打ち切るのは言語道断だ。
そんな対応をした時点で、機長資格は剝奪決定だ。……フライトが無事終われば、だが。
にもかかわらず、その行動を取るという事は、機長自身に犯罪の意志がある可能性が高い。
……と、松永は結論づけた。
だが、それが分かっても手を出せない──それが航空犯罪の難しさだ。
しかし、今回はまだ蜘蛛の糸が繋がっている! 松永は両頬を叩いて再度業務に集中する。
久我と一刻も早く連絡を取らなくてはならない。休暇中に事件に巻き込むことの罪悪感が僅かには残っていたが、それも霧散した。
通じる可能性は低いが、一縷の望みをかけて携帯から久我に電話をかける。
『この電話は現在電波の届かない―』
当然通じない。あらゆる可能性を試す必要がある状況だ。松永はすぐに切り替える。
部下達の様子を見ると、苦戦しているのが伺えた。自分の指示がいかに難しい事を要求しているかを松永は理解していた。
飛行機では携帯電話は当然つながらない。
機内Wi-Fiもファーストクラスだけで提供される航空会社で、当該機にはビジネスクラスまでしかない。
執務室が暗い雰囲気に包まれつつあったその時、該当機から通信が返ってきた。
『副操縦士のスコットです。先ほどは機長が失礼しました』
室内に緊張が走り、松永の思考のギアが上がる。
なぜ、機長ではなく副操縦士が? という疑問に対する仮説をいくつかピックアップして、自身の取るべきスタンスの結論を瞬時に出す。
いずれにせよ、この通信は全神経を集中させて慎重に対応しなくてはいけない、と。
「いえ、よくあることです。機長はどうしました?」
『背任行為が認められたので、拘束しています』
機長の背任行為は松永の推測通りだ。そこに驚きはない。問題はこの副操縦士がクロかどうか、だ。口ではこういうものの、共犯者である可能性は十分にある。先ほどの機長との口論はこちらを混乱させるための陽動だと考える事もできる。
彼の口調が異様に落ち着いているのが、松永は気になった。
確かに現状と似たシチュエーションの訓練もパイロットなら積んでいるだろうが、ここまで冷静に対応できるだろうか?
「それは大変でした。お怪我などは?」
『ご心配ありがとうございます。ですが、自分の能力を過信したロートルに遅れは取りません』
副操縦士は冗談かどうか判断しかねる淡々とした口調でそう答えた。その余裕が、松永の疑念を強める。
──この状況で、そんな言葉が出るのか?
もし本当に機長が背任を働いたのなら、怒りや焦りが滲んでもいいはずだ。
だが、彼にはそれがない。冷静というより、不自然なまでの無風だ。
だが、情報が少ない今、静観をする判断を松永は下す。
「それは良かった。機内の状況は?」
『乗客に被害はありません……ただ』
言い淀む副操縦士に松永は嫌な予感がする。
「ただ?」
『操縦が効きません』
「え?」
聞こえてきた最悪の状況に、松永の脳は理解を拒んでいる。
『聞こえていますか? 機長が細工をしたようで自動操縦が解除できません』
本当に自動操縦が解除できないのか、あるいは意図的に解除しないのか、その真意は定かではないが、こちらが何も手を打てなければ結果は同じだ。あらゆるリスクを想定して動かなくてはならない。松永から本音が零れる。
「……まずいですね。目的地は?」
『バミューダ諸島のあたりですね。何とか解除できないか試してはみます』
バミューダ諸島? あんなところにテロリストの標的となるものがあったか? 松永に思い当たるものはない。しかし、テロリストの考えは人知を超える時がある。副操縦士が嘘をついている可能性もあるが、当局に連絡して備えるべきだろう。
「ええ、お願いします。こちらは各所に緊急連絡をしておきます。ところで……」
部下にジェスチャーで連絡の指示を出しながら松永はたっぷりと間を置く。相手の動揺を誘う戦略だ。
『……なんでしょう?』
痺れを切らした副操縦士が続きを催促する。
「機長に事情聴取は可能ですか? 何かヒントがあるかもしれません」
『難しいですね。拘束時に気を失わせていますから。こちらからもいいですか?』
間髪を入れずに副操縦士は答える。もしこの副操縦士がクロだった場合は相当なやり手だ。動揺が一切感じられない。
そういう相手からの質問に対しては、より慎重に答える必要がある。下手に情報を与えると乗客の危険が増したり、テロの成功率をあげる可能性があるからだ。
松永の思考は、副操縦士が信用できるのか、及びどこまで情報を与えるのかという判断に占拠されて、副操縦士の回答の違和感に気づくことは無かった。
沈黙を了承と取り、副操縦士は続ける。
『乗客の中に共犯者がいるかもしれません。休暇中のSMが搭乗しているとのことなので、協力を願いたいのですが』
現時点で副操縦士をクロだとは断定できない。ならば、リスクを取捨選択する。久我の情報を彼に渡す場合と渡さない場合、双方の可能性が松永の頭を今、駆け巡っている。
「ああ、その件ですが誤情報でした。申し訳ありません」
シミュレーションの結果、渡さないという判断を松永は下した。
最終的なファクターとして、松永は部下達の優秀さを信じた。副操縦士に頼らなくても、久我と連絡が取れるだろうと。
この国の空を託せるとすれば、それは組織でも制度でもない。久我や佐藤のような、極限で理性を捨てない者たちだ。
『……そうですか』
副操縦士のその言葉には何の感情も籠っていなかった。興味の無い人間から明日の天気の話題を振られたくらいの無関心さだった。
「一旦、通信を終えますが何かあればすぐにご連絡ください。例えば、機長が目覚めるとか」
目覚めるの部分を強調して、松永は副操縦士を牽制した。
『了解です』
最後まで副操縦士は平静さを失うことなく、通信が終了した。
久我の情報を伝えなかった事をほとんどの部下は不思議がっていたが、佐藤だけは平然としていた。自身の疑念を確定させるために松永は話し掛ける。
「どう思う、佐藤」
「……限りなく漆黒に近いブラック、ですね。もしかしたら、機長はすでに死んでいるかもしれません」
「なぜ、そう思う?」
松永は素直に不思議だった。共謀までは予想できても、殺害まで踏み切る理由が掴めなかった。
「副操縦士の説明、“拘束時に気を失わせた”というくだりです」
「それがどうした」
佐藤はタブレットに目を走らせながら、事務的に言葉を継いだ。
「副操縦士の経歴は、商業パイロット一筋。軍務歴も、CQCや近接格闘に関する実戦経験も一切ありません。あっても研修止まりです」
「つまり?」
「つまり──コックピット内で暴れる成人男性を“意識を刈り取る形で”無傷で拘束するのは、素人にはほぼ不可能です。あの狭さでは相手の動きを封じるだけでも一苦労です。私たちのような制圧訓練を積んでいなければ、無力化する前に操縦系が壊れます」
松永は黙って頷いた。説得力があった。
「仮に拘束が事実だとしたら、副操縦士は格闘訓練を受けている。……経歴詐称の可能性が出てきます。それはクロを意味します」
「ふむ。たまたまうまく制圧できた可能性は?」
佐藤は少し言いにくそうにしたあと、言葉を選びながら答えた。
「隊長も感じておられたはずです。──奴は“感情”を殺して喋っていた。
たまたま制圧できた素人が、あの落ち着きでいられるはずがない。……兵士か、それ以上の特殊訓練を受けた人間です」
松永もそれには完全に同意する。だが、あらゆる可能性を検討しなければならない。
「そもそも機長の意識が無いというのが嘘だとしたら?」
「理由を整理するべきですね。そんな嘘をつかなければならない理由を」
「機長に話をさせたくなかった……のか?」
「あるいは、話せなかった、かですね」
松永の目が鋭くなる。
「……つまり、死んでいると」
「その可能性が高いと考えます。そして、その死を奴が隠す理由はひとつ。奴が殺したからです」
松永は顎に手を当てて考え込んだ。
「共謀説の線は?」
「薄いですね。副操縦士が共犯なら、我々との通信というリスクをわざわざ背負う理由がありません。恐らく目的は“久我警部の情報を引き出すこと”でしょう。」
「では、なぜ殺した」
「“使えないから”……でしょう。買収された機長が命令通りに動かず、暴走するリスクを嫌った。あるいは──裏切り防止のため、最初から処分する方針だった可能性もあります」
佐藤は最後に眼鏡を押し上げながら言った。
「いずれにせよ、副操縦士は想像以上に危険です。──奴が“カテゴリーA”と想定することを進言します」
なるほど、やはり佐藤は優秀だと思った。自分が漠然と感じていた違和感を見事に言語化している。松永の疑念は確信に変わり、副操縦士はクロと判定して動くことに決めた。
「あっコイツ!」
佐藤は松永に自身の見解を話している最中にも、連絡手段を探る作業を続けていた。
今、何かを見つけたようだ。
どこまでも優秀な奴。俺が冷静でいられるは佐藤と……久我のおかげだな。
「隊長、久我警部と連絡が取れるかもしれません。かなり危うい手段になりますが……」
この期に及んで手段を選んでいられない。
「かまわん。俺が責任を取る」
松永はキャリア組にしては珍しく野心を持っていない。自分が立場を失うことでこの国の安全が担保されるなら本望だった。
しかし、この脅威は警察の枠を超え、国家の論理さえも通用しない領域へと広がっていくのだった。