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第21話 オメガ・グリッド、起動―Chaosへ―

@機内 ビジネスクラス ギャレースペース


「マニュアルすら読まずに、飛ばしている事だって奇跡だっての!!」


 機体操作に集中するため一人になったダグは、何度目か分からない怒鳴りをあげる。経験により培われたソフトウェアに対する勘だけで、なんとか300トンの塊を飛ばしていた。

 しかし、最早、コントロールしているとはいえない。機体は右へ、左へ、まるで海の上に浮かぶコルクのように翻弄されている。かろうじて堕ちていないだけだ。


 警報は止まらない。護衛輸送機との距離は30メートル──ギリギリだ。この環境、その距離で随伴する自衛隊機の操縦技術が凄まじいのは素人のダグでも分かった。が、この極限状態でミスをしない方が異常である。このままでは衝突するのは時間の問題であった。


「俺はこっちの世界の人間で魔法使いじゃねぇんだぞ!!」


『ダグ、お前はお前が思っているより特別な人間だ』


 久我の諭すような声がイヤフォンから聞こえてくる。


「知ってるよ! だけど、俺は俺だけのために能力は使って気楽に自由に生きていたいんだよ。こんな百人以上の命を預かるのは御免だ。最初に言っただろ」


 ダグが作業しながら、吐き捨てるように言った。滝のような汗がダグの顔を滴り、手に落ちる。


『ダグ……』


「何も言うな、聞くな、気が散る」


 ダグは極限の集中状態に入る前に深呼吸する。


「いいか? お前が悪い。お前の命を賭けて乗客を守ろうとするイカれた態度に、俺もおかしくなっちまったらしい。他人のためっていうのが気にならないけど……久々に本気出すから、ちょっと待ってろ」


 座標、風速、機体重量、乱流のパターン、魔力干渉波。ありとあらゆるデータをダグ自作ソフトウェアが解析していく。

 その結果踏まえて、自動運転プログラムを手打ちで再構築する。タイピングの指が早すぎて、残像を生んでいた。


 周囲の音が消えた。


 エンジン音も警報も、乗客の悲鳴も──すべてが“外側”になった。この数十秒だけ、ダグの世界にはコードと空しか存在しなかった。


「……再計算完了。自動操縦、転送モード“オメガ・グリッド”、起動──!」


 パチン、と指が端末に触れた瞬間、機体の挙動がガラリと変わる。乱気流の中でも一切ぶれない、柔らかく、包み込むような推進。機体が、まるで“空を掴むように”進んでいく。


 驚き混じりの久我の声がイヤフォン越しに聞こえる。


『……俺にとって、お前の方がよっぽど魔法使いだよ』


「……だったら、お前は勇者だな。……俺がここまでやったんだ。絶対、全員助けろよ」


 知力と体力を使い切ったダグは、肩で息をしながら、昇天したように満足感のある顔をしていた。



@機内 エコノミークラス中央



《“こだま07”より最終確認。転送対象、全員無事収容──生存確認、完了!》


 無線越しに響く歓声が、機内の沈黙に微かに波紋を広げた。


 術式の輝きはほとんど失われ、セリスも膝をついて動けなくなっている。


 久我達のまさに命懸けの奮闘によりはすべて転送された。だが、久我には感動は無い。彼の思考は冷静に次の危機をシミュレーションしていた。


 久我は一度ゆっくりと目を伏せる。そして、誰にも何も問わずに、心の中でそっと確認する。


 ……“ケヴィン”の姿は見ていない。


 久我は抜け目なく転送されていく乗客を全員、確認していた。しかし、そこにケヴィンは現れなかった。つまり、奴は乗客ではない。この目的ではなく、この飛行機自体に用があり残っているのだ。

 久我の疑いが確信に変わる。


 しかし誰にも告げず、あくまで胸の内に留める。下手に味方を動揺させて、ケヴィンを刺激してもよくない。だが警戒心だけは、微塵も緩めていなかった。


「……“鍵”は?」


 久我の問いに、セリスが微かに首を振った。


「まだこの飛行機が魔力を帯びているということは、残っているのは……人の中に鍵がいるということです」


 久我はすぐに通信を開く。


「ダグ、聞こえるか。鍵はまだ見つかっていない。残ってるのは、俺、お前、エイミー、四海だけだ。そして、お前には操縦を最後までしてもらわなきゃならない」


『……ちょっと待て。じゃあ俺、異世界行き確定……ってこと?』


「本当にすまないと思っている……」


 数秒の沈黙の後、ダグが笑う。


『誰が悲しいなんて言った? 最高じゃねぇか、異世界。アニメ好きなら誰しも憧れる体験だぜ』


 明るく言い放つ声に、少しだけ久我の顔が和らぐ。


「戻れる保証はないぞ?」


三次元リアルで嫁を見つけるさ。きっと、俺の好きな種族もいるはずだ』


 種族? と久我の頭にはてなマークが浮かんだが盛り上げっている所に水を差すのも悪いと思って話を切り上げる。


 次に、エイミーとの通信が開かれた。


『スーパーハカーに色々聞いたが、なんやけったいな事になったもうたなぁ!!』


 豪快な笑い声がイヤフォン越しに聞こえてくる。久我は思わず耳を塞いだ。


「すまないが、君も異世界とやらに行ってもらう必要がある」


『そんな気遣ってもらうなんて、舐められてんのかなぁ、ワイ。この仕事してたら、いつどこへ行くかなんて神様も知らへんし、命を落としたって葬式すらしてくれへんの、知っとるやろ。そんなことより、お客さんが助かったのが、ほんま嬉しいわ。エージェント冥利に尽きるなぁ。……ちなみに、例のブツはまだ見つかってないから急ぐわ』


 エイミーは早口で捲し立てる。 久我は圧倒されて何も言えなかった。


 全員、覚悟はできていた。自分が異世界への鍵であってもなくても、ここで立ち止まるつもりはない。


 そして──エコノミークラスのギャレーの奥。

 冷蔵庫の裏側に沈むように隠れているケヴィンは、ただ一人、笑みを深めていた。


 やはり、彼が鍵か。なんとしても消さなければ。


 暗い瞳がわずかに揺れる。計画の“刃”が、静かに研ぎ澄まされていく。



@貨物室 



「……ったく、ようこんなに積んでるわ」


 金属製の床を歩きながら、エミリーは呆れたように息を吐いた。貨物室の空気は湿り気を含み、エンジンの微振動が足元にじんわり伝わってくる。


 彼女の目は、荷物の列を撫でるように動いていた。無言のまま、ひとつひとつを慎重に、だが迷いなく視線で追っていく。


 ──そして、止まった。


「……なんや?」


 半分崩れかけたスーツケースの山の奥に、不自然な“救急医療箱”がひとつあった。白い外装。赤い十字マーク。やけに清潔感のある外観。


「乱気流で転がり出たんか?」


 彼女は誰にも聞かず、ただ独り言のように呟いた。


 近づいてみると、その箱だけが明らかに“浮いて”いる。周囲とホコリのつき方が違う。積載ナンバーのラベルも、書式が他と微妙に異なる。感覚が、警告を発していた。


 彼女は指先で箱を持ち上げ──重さを感じた瞬間、目を細めた。


「えらい、重いな。こら当たりやな」


 中を開けることはなかった。そんなリスクを冒す必要もなかった。


 エミリーは、静かに貨物室後部の非常投棄口に歩を進めた。パネルを手動で解除し、気圧の帳尻を合わせると、小さく機体が軋む音がした。


 下は──外海。


 どこまでも広く、そして深い。


 彼女は、その箱を両手で持ち上げ、何の感情も込めずに呟いた。


「ほな、さよならやで」


 ごうっ、と風が吸い込むように吹き抜ける。箱は放物線を描いて、音もなく、雲の下へと消えていった。


 排出口を閉じる手際も早かった。再加圧が完了するまでの間、彼女はただ壁に寄りかかって、一息つく。


 その視線の中に淡い光が入る。荷物のひとつが光源だった。


「今度は……なんやねん」


 せめて敵ではないようにと彼女は祈らざるを得ない。最早、戦う気力も体力も残っていなかった。



@機内 中央通路



「……あと五分」


 久我は、通路を歩きながら腕時計を見た。四海から教えられた異世界への接続──“ゲート突入”のタイミングが刻一刻と迫っている。


 魔力を使い果たした魔法使い、セリスは壁際で眠るように膝を抱えていた。エイミーからは「投棄完了」の報告。ダグの自動操縦も安定を維持している。


 ──だからこそ。


 最後の確認。万が一、転送漏れがいたら──それは、全員の努力を無にする。久我は黙って、ビジネスクラス、ギャレー、そして後方通路へと歩を進めた。

 それは確定している脅威と向き合う時間でもあった。


  ──妙だ。体がうまく動かない。


 確かに奴がどこかにいて、何かを狙っているという事がプレッシャーになっている。自らの銃撃で負った掌の負傷も、セリスの魔法である程度治癒してもらったとしても軽症とは言えない。


 だが、その程度で久我が気圧されるはずはない。そんな修羅場は今まで何度も潜ってきた。

 それでも経験した事のない空気の重さを、今、久我は感じていた。


 そして──


「やあ、ようやく来たね」


 その声は、壁際の座席からふいに発せられた。久我が振り返ると、そこにいたのは──


「……ケヴィン」


 あるいは、副機長スコットだった男。その正体は、異世界Chaosの魔王軍幹部ネクレム。


 背筋を伸ばして立ち、袖口を直しながら、まるで舞台の主演でも務めるかのように微笑んでいた。


「まずは、ご苦労だった。人命救助。大いに感銘を受けたよ。君たちは本当に、“こちらの世界”で良く訓練された──使える兵隊だった」


 久我は構えを取った。だがネクレムは動かない。ただ語る。


「だが、それももう終わりだ。私の目的は──“災厄の芽”を摘むこと。異世界Chaosにとっての“天敵”を、芽吹く前に排除すること。それが私に与えられた使命……だったのだが」


 彼は口元だけで笑った。


「私はもう、あの連中の駒じゃない。命じられたから動くのではない。私が、私自身の意志で、この飛行機をここに導いた。召喚を完了させたのち──君たちごと、吹き飛ばすためにね」


 久我の目が細くなる。


「……なぜ、それをわざわざ話す?」


 ネクレムはふう、と芝居がかった溜息をついた。


「簡単だ。君たちはこの先、何も知らずに死ぬには惜しい──そう思ったからさ」


 ──その瞬間。


 機体全体が、淡い光に包まれた。魔力が飽和し、空間の向こう側へと“沈み込んでいく”ような感覚。天地が曖昧になり、景色がゆっくりと歪む。


 異世界Chaosへの転移が、始まった。


そして、ネクレムが懐から取り出したのは──小さな、黒いデバイス。親指が、その 中央の突起に、吸い付くように置かれる。


「さようなら。勇者《Chaosに災厄を齎す者》よ」


 カチリ。


 乾いたクリック音が、ゲートを通過する機体内に響いた。


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