第18話 闇に挑む者、命を繋ぐ者
@機内 貨物室
“それ”は、音もなくエミリーの間合いに滑り込んできた。
「──ッ!」
人間離れしたその動きに一瞬反応が遅れるが、ギリギリでエミリーは体をひねってナイフを振るう。喉元を狙って飛びかかってきた影を、手首のスナップで切り返す。
鋭く切り裂かれた“感触”はあった。だが──
……手ごたえが、全くないわ。
影の身体が、霧のように散った。切断された部分が、煙のようにほどけ、すぐにまた元通りに再形成される。
「それは、反則ちゃう?」
エミリーが文句を言った次の瞬間、影が床に溶けるように沈み、エミリーの背後から這い出してくる。彼女は反転し、オリンピック選手顔負けの驚異的な跳躍力で壁面を蹴って距離を取った。
体勢を立て直しながら、短く息を吐く。
物理攻撃無効の敵、現実でおったらアカンやろ。
エミリーの思考中も影は滑るように動く。腕や脚という概念すら曖昧な形状を変化させながら、間合いを埋めてくる。
「しゃーない。やるだけやったるわ」
エミリーは二本目のナイフを抜き、連続の斬撃を浴びせかけた。一歩踏み出し、低い姿勢からの肘打ち──肋骨を狙った突き──考えうる限りの斬撃、打撃を人間の急所という急所に打ち込む。
が、
「やっぱ、あかーん!」
またも手応えがない。どれだけ斬っても、叩いても、“質量”が感じられない。
切ったそばから、影は溶け、再構成される。
まるで自分がただ霧を切り裂いているだけのような──そんな虚無感。
エミリーは後退しながら思考を巡らせる。
銃は持ってへんし、多分効かんやろ。どうすりゃええねん。
影は再び動き出す。今度は天井から、逆さにぶら下がるような姿勢で忍び寄ってくる。ジュラルミンに映った“異様な姿勢”に気づき、エミリーは再びバックステップ。
それでも距離は詰まる。不規則。非人間的。まるで物理法則を無視しているかのような軌道。
瞬間、左肩をかすめる熱さ、数秒で痛みに変わる。薄くても防弾・防刃のはずのスーツを裂き、血が滲む。
「こんな傷、久々や。楽しゅうなってきたなぁ!!」
虚勢を張るが、かすかに乱れる呼吸。影の輪郭はあざ笑うかのように揺蕩っている。その目はない。けれど──“殺意”だけは確かにあった。
ほんま、死ぬかもなぁ。
ここには誰も来ない。助けもない。空気さえ、死神に狙われて凍っているようだった。
背中に冷たい汗が流れる。機内の一番底、誰も来ないこの密閉空間で、エミリーは今、壮絶な大気の殺意に曝された船外作業の時よりも、数段重い命の危機を感じていた。
だが──諦めの文字はNINJAは知らない。
「舐めんなや……死ぬのが怖くてNINJAが務まるか」
ナイフを逆手に持ち替え、エミリーは姿勢を猛獣のように低くした。
@機内 エコノミークラス中央
「……もとより命は捨てたつもりです。是非やらせてください。ただ、皆さんの命をできるだけ守るため、環境の構築には協力してください」
魔法使いの装束を纏ったChaosから来た少女──セリスは、神妙な顔で小さく頷いた。乗客を助けるのに命を賭けろという久我の言葉に呼応する。
「魔力転移術式を、一定距離内に展開された“視認済みの器”に対して接続できれば、順次転送可能です。座席単位、もしくは個人単位で──」
少女の口調は淡々としていたが、内容は恐ろしく具体的だった。
「ただし転移時の速度差と高度差の補正が必要です。推奨されるのは、対象航空機をこの機体の真下に平行航行させ、減速領域を確保した状態で、魔力膜を接続──」
「おいおい……本気でやる気かよ」
ダグが額に汗を浮かべて呟く。
「航空機同士で空中接触なしに転送なんて……ちょっとでもズレたら吹き飛ぶぞ。エミリーと違って、みんなNINJAじゃないんだ」
「分かってる。だが、やるしかない」
久我が言い切る。その目は、覚悟が決まっていた。
「それしか……乗客を生かす手段はない」
「……」
四海の視線が、わずかに揺れる。
「四海」
久我は四海に向き直る。
「この計画が何を目指してるか知らん。でも、お前が“見捨てていい命”を選ぶような女だとは思いたくない」
「私は、任務を遂行しているだけ。我々の目指すべき場所は、民衆には分からない」
「だからって見殺しにしていいのか? この乗客たちは何も知らずに巻き込まれたんだぞ」
四海の唇が、わずかに引き結ばれる。
「貴方はもう少し懸命な判断ができる人だと思っていました」
四海は言葉とは裏腹に、分かっていた。久我なら必ず抵抗するだろう、と。あの時、なりふり構わず自分を救ってくれたように。
久我は一歩、前へ出る。
「俺は馬鹿だ。その上滅法、運が悪い。こんな状況になっているのも多分俺のせいだ」
その言葉に皆が首を傾げる。この事態は個人の運の悪さでカバーしきれるような事象ではない。
「だから、責任を取る。責任ってのは、目の前の命を守ること。それだけだ」
「……!」
その言葉に、四海の瞳がわずかに揺れた。
それは迷いか、怒りか、それとも記憶か。
「……だったら、どうするつもりですか。仮に一人ずつ転送できたところで、“鍵”が誰か分かったときには、既に接続座標がズレているかもしれない」
「その時はまた考える。可能性の話をしても意味がない。今、できることがあるなら今やらなきゃ手遅れになる。最悪、本当に打つ手がなくなったら、俺の負けだ。お前の好きにすればいいさ」
沈黙。
エンジンの唸りだけが、機内に残る。
数秒の後──
「……作戦の開始には四海の同意が必要です」
魔法使いの少女が、静かに告げた。久我の視線が、再び四海に注がれる。
四海は──静かに頷いた。
@旅客機内 貨物室
「……やばい、詰んだかも」
エミリーは後退しながら、切れた左腿を押さえた。影は追ってくる。這うように、滑るように。距離は限界まで詰まっている。機動力を奪われた。これ以上は避けるのも難しい。
影に生きたワイ、影に殺される……おもろいかもな。
その時──ふと、脳裏に閃いた。
「影……」
奴は完全に“影”だ。質量がない。物理が通らない。
だけど影なら、光しかない世界では存在できんのちゃうか?
エミリーは腰のホルダーに手を伸ばした。
「──あった」
指先に触れた、小型の金属筒。スタングレネード。閃光と音で制圧する非殺傷装備。
「やってみる価値は、あるやろ」
咄嗟にピンを引き抜こうとした瞬間──
「ッ……!」
影が飛びかかってきた。エミリーは体を捻って避けたが、グレネードがその拍子に手から弾かれ、床を転がる。
「ちょっ、待て! おい、待てや!!」
ころん、と転がるグレネードが、数メートル先のコンテナに当たり止まる。影の背後に丁度位置した。
僥倖や。
影が、今度こそとばかりに迫ってくる。脚が十分に使えない今、もう、逃げ道も、時間もない。とどめの一撃を叩き込む気配が、闇の中で膨らむ。
「ほら、獲物はもう動けへんで。こっちへおいで」
影が彼女に大きか被さろうとしか瞬間、エミリーの手が、袖から一本の投擲武器を取り出す。彼女の目が、スタングレネードの位置を正確に捉える。
「ワイが合衆国一のNINJA、エミリーや。覚えとけ!」
エミリーは叫び、放たれたクナイが一直線に軌道を描く。それはメジャーリーガーのピッチャーの投球よりも速い速度のはずだったが、エミリーにはスローモーションに見えた。ふとエミリーに過去の映像が思い浮かぶ。
──かつて訓練校で、「今どき投げナイフなんて使うやつは馬鹿」と教官に笑われたシーンだ。
だが、模擬戦で拳銃を構えた教官の手首を一瞬で射抜いた瞬間、誰も何も言わなくなった。
意識が現在に戻り、クナイはグレネードの起爆レバーに正確に命中した。その瞬間、世界が止まる。
──次の瞬間、閃光。
「ッ……!」
轟音とともに、貨物室が爆ぜるように白く染まった。数千ルクスの閃光が狭い空間を満たし、空気すら振動した。
その光の中心で、影がもがいていた。輪郭が歪み、形が崩れ、断末魔のようなノイズを上げながら──
「……ほらな。光の中じゃ、お前は存在できへん」
影は、一息の間もなく、光の粒に弾けるようにして消えた。
貨物室には、崩れかけたコンテナと、片膝をついたエミリーの姿だけが残っていた。
彼女は痛みに耐えてゆっくりと立ち上がる。
「ふー……やっぱ、頼るべきは忍術より最新兵器かもしれへんな」
その笑みに、さっきまでの緊張と恐怖はなかった。だが、再び気を引き締める。資格がいたということは、エミリーが探しているものはあるに違いなかった。
「さぁ、探し物の続きや……はぁーしんど」
本当は今すぐに倒れ込んでしまいたかったが、それでは今までの彼女や久我、ダグの努力は水の泡になってしまうかもしれない。エミリーは歯を食いしばって再び荷物の山に目をやり、ゆっくりと歩き出した。