ジョン万次郎と西部劇のガンマンたち
アメリカ人からジョン・マンと呼ばれることになる万次郎は、捕鯨船長のホイットフィールドに気に入られ、船員となってホノルルで仲間と別れて船に乗り続けるとアメリカ本土を目指した。航海中は生まれて初めて世界地図を目にし、日本の小ささに驚いている。
1843年5月、船は捕鯨航海を終え、ニューヨークの東400キロほどに位置するマサチューセッツ州ニューベッドフォードに帰港した。カリフォルニアでゴールドラッシュが起こる6年ほど前で、またこの時期はアメリカで奴隷制度に対する議論が盛んになるという時代背景があった。
1861年4月から1865年4月にかけてまる4年、アメリカ合衆国の北部と分離独立した南部との間で行われたアメリカの内戦がある。その戦争に突入しようとする時代、つまり万次郎がアメリカで過ごしたマサチューセッツは奴隷制度廃止運動の中心地のひとつでもあり、合衆国南北の対立が表面化してゆく時期であった。
万次郎はアメリカ本土上陸後、船長ホイットフィールドの故郷でもあるマサチューセッツ州フェアヘイヴンで養子のように暮らすことになる。この州は奴隷制に反対の立場をとっていた。そのような土地柄だったから、東洋人の万次郎にとっては比較的幸運だったとも言える。それでも多少の人種差別は体験したようだ。しかし貧しい片田舎の漁村で育った万次郎が、捕鯨と外国貿易の盛んなニューベッドフォードの港に降り立った時は、まるで異世界に転生したのに等しい衝撃を受けたのではなかったか。波の静かな湾内を行き来する外輪の蒸気船はなんと3階建てであり、街に入れば5から6階建てのビルが建ちならんでいる。そして正にこの時代はアメリカが西部へと開拓を進める拡張主義が全盛となる活気あふれる時でもあった。
そして万次郎は多分興奮も冷めやらぬまま、出会う人々の協力で、オックスフォード・スクールに入り小学生に混じって英語を学ぶ事になる。さらに翌年最も長く就学したフェアヘーブンのバートレット・アカデミーは、捕鯨業の中心にある学校として、操業に必要な高等数学、航海術、測量術を教え、航海士を養成する高等教育機関だった。そして英語・造船技術などを熱心に勉強し、なんと首席にまでなった。たった1年前までは小学生と机を並べて英語を習っていた万次郎がである。
もっとも日本に帰った後でアメリカの風物などを説明しようとして、言葉で言い表せない事柄を画に描こうとしたのだが、幼児並みにしか描けず相当苦労したと言われている。さらに明治になると英語を日本語で書き記す事が必要になり、日本で読み書きの習得が無いままアメリカに渡った万次郎の活躍は、次第に限られていったようだ。
1848年1月、万次郎が住むマサチューセッツ州から遠く離れた、サンフランシスコの州都サクラメントの開拓者だったジェームズ・マーシャルは、湾に流れ込むアメリカン川沿いに建設していた製材所の放水路で、金の塊を見つけた。噂は直ぐに広がり、新聞社によって真実であると確認された。
アメリカ西部の川で金が発見されたという報せに、アメリカはもとより海外からもおよそ30万人もの男、女、子供までもがカリフォルニアに海路から、陸路から殺到する事になる。東部での農場経営に見切りを付け、先祖伝来の土地を売り払いやって来たり、一獲千金を夢みる仕事にあぶれた者達でもあった。皆未開の土地に可能性を掛けた者達である。しかし1840年当時の人々がアメリカ東部からカリフォルニアに到達するのは容易なことではなかった。道中様々な苦難に見舞われ、たどり着けず死ぬ者も多かった。木を切り倒していかだでを組み、家財道具を括り付けて激流を下るシーンは西部開拓を扱った映画でも見かける。また海路アメリカ合衆国の東海岸から南アメリカの先端を廻る航海は5ないし6ヶ月を要した。別の海を進む経路としてパナマの大西洋側に到り、ジャングルをカヌーやロバを使って通り抜け、それから太平洋側に出てサンフランシスコに行く経路もあった。だが多くの者はアメリカ大陸を横切る山岳路を選択した。
採掘者の需要にこたえるために船舶が世界中から到着したサンフランシスコだが、その後船の乗組員までもが金探しに向かうという事態が発生。桟橋やドックは数百の船から乗員が消えて放棄されたままとなり、まるでマストの林のようになった。
ゴールドラッシュ初期の金探求者はカリフォルニア近くに住んでいた者か、カリフォルニアに早く到着する事が可能な人々だった。ある者は1日に見つけることのできる金の平均価値は東海岸の労働者の日給の10倍から15倍に相当した。
これらの採掘者らは船、あるいは幌馬車で北アメリカ大陸を横断したが、新たに到着した者達はなべのような単純な道具で小川や川床の砂金を探した。川に沿った水路に水を誘導した後で川床を掘削する金坑夫達も、初めは採り放題だった。金鉱原の川には私的財産権が無く、政府が出来るまでは税金も無かった。その場所に早く到着した者が得をしたのだ。
金発見の情報は、フランクリン号で捕鯨からニューベッドフォードに帰港した万次郎のもとにももたらされた。これを帰国のための資金稼ぎにしたいと考えホイットフールド船長に相談して、1849年9月、万次郎はサンフランシスコに行く事を決断する。
この年アメリカ西部に空前の人々が殺到した為、フォーティナイナーズ(49年者)という言葉まで生まれた。インディアンをのぞいて1000人たらずだった住人のカリフォルニアに、1年で10万人もの金に取り付かれた人々が押し寄せたのであった。毎日数百人がほとんど荒野と言っていい荒れた土地カリフォルニアに到着したのである。カリフォルニアに行くことにした万次郎は木材を積載したスティグリッツ号に水夫として雇われ、働きながらカリフォルニアに向かうことになる。
1849年11月ニューベッドフォードを発ち半年後にサンフランシスコに到着した。 万次郎のように捕鯨船乗組員も、大勢が金採掘に仕事を替え、金鉱掘りに転向した。これがその後の米国捕鯨の衰退する一因となったと言うから、まさに猫も杓子も金採掘に向かったというわけである。アメリカの西部開拓で鉄道網が西に西にと発展して行く波に乗った万次郎。アメリカ人のフロンティア精神も最高潮に達していた。
万次郎はサクラメント川を蒸気船に乗って遡り、サンフランシスコから100キロほど北東に位置するサクラメントに到着した。蒸気船ではギャンブラーやウイスキーを売る商人、また西部で一攫千金を狙う山師たちと同船しただろう。小さな和船で幼少期を過ごした漁師の万次郎が、川をさかのぼる白くてモダンな外輪船に乗船した時は何を思っただろうか。
その後は野宿をしながら金山をめざした。自分で作ったパンと牛豚の塩肉を5日分持参していたという。そして数か月間、金鉱で金を採掘する職に就く。共同で作業をし、金が見つかれば何パーセントかの分け前にありつけるシステムだったと思われる。
ちょうどこの時代、西部にやって来たのは金の採掘者たちだけではない。牛を追うカウボーイや、発展する街には目先の効いた商人、ごろつき、酒場にはギャンブラーやダンサー、怪しげな山師たち。治安を維持するのに必要な保安官が任命されるほど、銃を手にした荒くれ共が西部の町をのさばり始める。その保安官でさえ、食いっぱぐれた元強盗団の1人だったりして、何かの拍子で悪漢に逆戻りしたり。西部開拓時代はそういうカオスな世界が広がるカリフォルニアだった。万次郎たち金の採掘者も銃で脅された経験が有るに違いない。ひょっとして万次郎自身も護身用の銃くらいは身に着けていたかもしれない。
そしてその金だが、カリフォルニアで発見されたという報からまだ一年くらいしか経っていないから、まだまだゴールドラッシュの初期段階なのだ。さほど難しい場所まで行くとか、地域に暮らすインディアンとの軋轢もさほど無い。帰国の費用を得るのに苦労したという話は無いので、たぶん金はまだ良く取れた時代だったのだろう。万次郎の素早い行動力が光る逸話である。実際無数の採掘者により、簡単に入れる土地ではほとんどの金は瞬く間に取りつくされて、後は鉱山を採掘したり、インディアンの土地を荒らしたりと、金の採掘には様々な困難が出現してくるのである。スー族の大勢力と戦い全滅した第七騎兵隊を指揮していたカスター将軍は、ありもしない場所に、さも膨大な埋蔵量の金鉱脈があるかのように新聞報道をさせて、ゴールドラッシュを誘導し、地域のインディアンたちを窮地に追いやったという。
1849年、万次郎と同時期にカリフォルニアに到着したのはおよそ9から10万人と推計されており、その5万人から6万人はアメリカ人であり、残りが他の国からだった。かなりの数の中国からの者達も居たらしいから、同じ東洋人である万次郎も特別浮いた存在ではなかったかもしれない。
そしてゴールドラッシュが始まったとき、カリフォルニアは格別に無法地帯だった。アメリカ 西部開拓時代 の 有名な保安官ワイアット・アープは、1848年生まれだから、万次郎が捕鯨船乗りとして脂の乗り切った頃に生まれている。そのワイアットの下で働いたのが、杖で悪党を殴り倒して銃をあまり使わなかったとして、ドラマにもなる有名なバット・マスターソンが居た。またビリーザキッドは1859年、万次郎が日本に帰って約10年後に生まれている。
アメリカ西部開拓時代は、19世紀に始まり1890年のフロンティア消滅で終わるから、万次郎が日本に帰る頃は、既に西部劇で有名なガンマンたちは時代に取り残されつつある存在であった。
1851年(嘉永4年)、薩摩藩に服属していた琉球にアドベンチャー号で上陸。万次郎は薩摩藩の取調べを受けるが、藩主・島津斉彬は万次郎の英語・造船知識に注目し、後に薩摩藩の洋学校(開成所)の英語講師として招いている。
万次郎が帰国した1850年代は、アメリカ西部開拓史を飾ったガンマンたちが遅れて現れる頃で、10年後の1861年からは南北戦争が始まり、リンカーンは弁護士として、そして大統領として、西部開拓史に大きな役割を果たす鉄道の問題にかかわり続ける。
西部にまで鉄道網が伸び、街が発展してくるとガンマンたちはどうなったか。フロンティアの時代が終わりに近づくと、ワイルド・ウェスト・ショーなどの興行が行われ、バッファロー狩りで勇名をはせたバッファロー・ビルは、サーカスのような見世物の「ワイルド・ウェスト・ショー」を旗揚げし、その後合衆国中を巡業した。女性で射撃名手であったというアニー・オークレイや、白人の横暴に反逆したスー族の戦士シッティング・ブルもショーに登場した。こうして西部劇でなじみのあるガンマンたちの時代は終わった。ガンマンたち全盛の時代はそんなに長くはなかったのである。アリゾナ州コチセ郡トゥームストーンでOK牧場の決闘が起こっているが、万次郎晩年の出来事であった。