目が覚めると、そこは地獄だった
「助けて!」
誰かが叫んだ気がして、俺は飛び起きた。
めまいで視界がぐるぐるとくらんだが、頭を振って吹き飛ばした。そこはレンガ造りの狭い路地だった。路地の先に見える大通りでは、多くの人が悲鳴を上げて逃げていく姿があった。何も訳が分からなかった。
「俺も、逃げないと」
誰かの乾いた声が聞こえる。それは俺の声だった。そして俺は気が付いた、この違和感に。
「俺、俺って誰だ?」
頭に手をやって考えても、俺が誰だったか、見当もつかなかった。顔の形もわからないまま、手が頬を滑り落ちる。 呆然としながら狭い空を見上げると、黒い翼を持つ吸血鬼が赤い空にいくつも影を作っていた。
突然、背後で何かが崩れたような大きな音がして、俺は振り返った。建物が焼け落ち、ぼろぼろに壊れた壁掛け時計が甲高い音を立てて砕け散った。ここにいては危険だと、ようやく実感がわいた。
走り出した時には、路地の群衆はすでにまばらになっていた。それどころか吸血鬼の影すらない。自分の浅い呼吸の音ばかりが耳に入る。曲がり角を曲がると、家にもたれかかっている一人の若い女性がいた。その女性は荒い呼吸をして、うつむいている。
「あの、大丈夫ですか」
思わず、声をかけてしまった。女性は答えなかった。ゆっくりと顔を上げ、真っ赤に充血した目でこちらを見つめる。
その片目の焦点は、ろくに合っていなかった。
突如、その女性は立ち上がり、俺に嚙みつくそぶりを見せた。
「うわっ!」
なかば反射的に身をよじり、嚙みつきを回避した俺は、そのままの流れで右足を振り切った。足にやわらかい感触がして、女がよろめいて後ずさる。言葉にもならない声を上げ、ふらふらとまたこちらに近づくそぶりを見せる。どこをどう見ても、正気を保っているとは思えない。俺も後ずさり、二人の間に少しの距離ができる。
その時だった。
「主の名において哀れな魂を救わん」
遠くから、男の声がした。
それと同時に視界の外から純白のナイフが目の前を横切り、女の首に突き刺さった。濁った甲高い悲鳴をあげて、女は大通りに突っ伏した。ナイフが飛んできた方を向けば、白い修道服を着た男が二人、こちらにものすごい速さで走ってきているのが見えた。俺は身構えたが、それは取り越し苦労のようだ。一人だけが俺の前で立ち止まって、唐突に話しかけてきた。
「血はかかっていませんね」
「えっ?」
「血はかかっていませんね」
言われている意味がわからず聞き返してしまったが、これは女の血が俺にかかっていないか聞かれているのか。幸いなことに、服に血痕らしきものはなかった。
「ええ……はい」
「では」
男は俺の返事を聞くやいなや、駆け抜けていったもう一人の男を追ってか、すぐに走り去ってしまった。急に、静かになった。息絶えた女性をまじまじと見ると、首筋に嚙み傷がある。分かったのは、それだけだった。
結局俺は、焼けた街を早歩きで立ち去ることにした。時おり、背後で建物が崩れたらしき音や、誰かの悲鳴が小さく聞こえる。
思うに、俺は記憶喪失なのだろう。人の心は強くない。この惨状を見て何もかもを忘れようとするのも、おかしくはないんだ。俺はきっと、この街で育ったんだ。そして、この惨劇の中で逃げるときに頭でも打ったか、発狂して生い立ちを忘れたんだ。
そうだろう、と念じても、誰も答えてくれないのは分かっていた。
「助けて」
悶々としながら歩いていると、ふと、誰かのか細い声が聞こえた。今この時に、誰かを助ける余裕なんてないことは分かっていた。
合理的ではないとわかっていても、それでも、俺には無視ができなかった。俺は声のほうに駆け出した。
そして見た。左手の袋小路に、小さな翼が生えた少女が座り込んでいた。翼には白いナイフが刺さり、血を流している。吸血鬼だ。少女は俺に気が付いたのか、視線が合う。その時だった。右手から別の女性の声がした。
「その吸血鬼から離れて」
振り返ると、先ほど見た男と同じような服を着た修道女がいた。その手には、少女の翼に刺さったナイフと同じようなナイフが握られている。次にどうなるかが、手に取るようにわかった。肩で息をする少女をかばうように、二人の間に割り込む。じりじりと少女に近づいていた修道女は、面食らったのかその足を止める。
「……どうしてそこに立つの?」
「分からない。助けてって、聞こえたから」
自分でも何を言っているか分からなかった。相手も、この答えに納得しているそぶりはなかった。
「よく見なさい。その少女は吸血鬼よ。悪魔に手を貸す気?」
「そうなんだけど」
「よく考えなさい。吸血鬼は人を噛む。市民の暮らしを守るためには、今、ここでやらないといけないの。……ええ、そうよ。情に流されてはダメ。今、やらないと」
修道女が言うことは理解できる。この街の惨状は吸血鬼が作ったのだろう。だから、吸血鬼が生まれたら、すぐに殺すのが正しいのだろう。
でも、助けてと言い、やけになって暴れないような吸血鬼がいるなら、それは人間が相手を知らないだけじゃないのか。
……甘い考えかもしれない。俺を欺く「助けて」かもしれない。それでも、俺には、あの少女が人を嚙むようには思えなかった。
「だから、あなたと話している余裕はないの」
修道女の頭上に光輪が浮かび、およそ常人が投げたとは思えない速さのナイフが俺の後ろにいる少女に向かって飛んでくる。このまま立っていても、俺には当たらないようだ。
ナイフに自ら当たる覚悟は無かった。でも、見たくないんだ。
そんな他力本願には、誰も応えない。そのはずだった。
背中に違和感を感じた。そして服が破ける感触がして、視界の端に映りこんだ黒く大きな翼が、ナイフを弾き飛ばした。
一瞬、時が止まったかのようだった。
「ああ、そう。あんたも、吸血鬼だったのね……!」
ああ、そうか。俺も、吸血鬼だったのか。僅かな呆然の後に、得心がいった。
……もう吹っ切れた。俺が吸血鬼だというのなら、全ての吸血鬼が人を噛もうとするのは間違いなはずだ! だから、あの「助けて」だって、本当なんだ。
「……逃げるぞ!」
ああ。むちゃくちゃだ、俺は。
少女を抱きかかえ、建物の壁を蹴って、翼を大きくはためかせた。顔に強い風を感じて、すこし目を閉じる。次に開いたときには、街を囲む城壁の向こうが見える高さにいた。振り返ると、いたるところからもうもうと煙が上がる街が見渡せた。
「あなたも、吸血鬼だったのですね」
街の外まで飛んだところで、抱きかかえていた少女に声をかけられた。そうみたい、だなんて、情けない答えしか返せなかった。
「あなたは、何も覚えていないのですね」
また、そうみたいと口から出た。名前は? と聞かれ、今度は首を振った。
俺はほとほと困り果てていた。おそらく、それも顔に出ていたのだろう。彼女が助け舟を出してくれた。
「私の両親は吸血鬼に嚙まれて、人の言葉すら分からないグールになってしまいました。しかし、私は吸血鬼に嚙まれて昏睡し、目が覚めたときに翼を見ました。……あなたと同じ」
「メーヴェスタ・ラス・メリカ」
「メーヴェスタ・ラス・メリカ。私の名前。一日前まではこの街の支配者だった、『今は無き』メーヴェスタ伯爵家の跡継ぎ」
メリカは目を伏せた。家族を知らない俺には、何もかける言葉がなかった。
「もう、この名前に意味はありません。貴族の娘が吸血鬼になっただなんて、お家取りつぶしと何も変わらないのですから」
「それでも、私は生きたい。私を、助けて」
……彼女は、俺の袖に縋りついた。その手は少し震えていた。
吸血鬼同士と分かった以上、もはや断る道理もない。それに、俺はこの子が人を殺さないはずと思って助けた。修道女の言う通り、幼い吸血鬼を助けていいことをした、と言い切るのはすこし早計なのかもしれない。何より、この手を振り払うことを、俺はできそうになかった。何もできないくせに、ゆっくりと頷く。
「でも、どうやって」
「今、メーヴェスタ領には指示を出す人が居ません。領地内にあるほかの町も混乱しているでしょう。そこに避難民として紛れるのが良い気がします。つつかれてもいいように、何か良い言い訳を作って」
聞かれてもいい関係、……関係か。男一人、少女一人……。
「……家族」
「えっ」
少女は首をあげて俺をまっすぐ見た。目がしっかりと合う。もしかして、今、俺はとんでもない失言をしたんじゃないか?
「あっ! いや、違うんだ。これは、その」
「ええ、それがいいかもしれません。そうですね……名はアレク、姓はルサイゼでどうでしょう。私もそのままの名前はまずいですね。私のことはメリサとお呼びください。兄様がいいかしら? それとも父上?」
少女は、自分の内心を見透かしたかのように、いたずらっぽく返事をしてくれた。
俺──アレク・ルサイゼの、いびつな家族ごっこが始まった。
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