秀秋の酒
小早川秀秋は幼名を辰之助といった。卑賤の家に生まれた中では日本で最も幸福であるといえる”成り上がり”をした。もっともそれもまた血のせいである。叔母である北政所が天下人の正室となっていたのである。
子のない秀吉はわずか七歳の辰之助を元服させ、名を秀俊とした。そして丹波亀山10万石を与え、大大名の仲間入りをした。しかし並みの大名とは格が違う。その丹羽亀山城へ入城した翌々年には従三位、権中納言となり名実ともに秀吉の後継者として振る舞うようになった。
幼き秀俊が、諸大名との酒宴に溺れ高慢になっていくことは必然であったのかもしれない。
ある時には100人ほどで夜通し酒を飲み明かした。その貴賤を問わず、ありとあらゆるものが参加したと言う。それが毎晩続くので、時には叔母にまで金の無心をした。北政所はその都度金を出してやったのだが、秀俊はその度豪勢な酒宴を張った。
そんな折、秀吉に子が生まれた。産んだのは淀殿という近江浅井の遺児であった。これまで接待してきた諸大名は手の平を返すように、秀俊を忘れた。秀吉もまた、この無能な酒狂いに悩んだ。
「毛利には子がありませぬ。そこへ養子にやってはいかが」
と側近黒田孝高の献策を受けた秀吉は、この養子縁組に飛びついた。一族は一族である。これが中国120万石の毛利の跡を継げばどれほど心強いか。
毛利は慌てた。結果、家老小早川隆景が養子とすることで落ち着いた。秀吉とすれば誰の養子でも変わりなかった。
秀俊の酒量はますます増えた。将来の栄光が一転したのである。地方大名の養子として謙虚におさまることのできるような教育は受けてこなかったのである。孤独な中で、小姓を集めて酒を飲んだ。ついには酔った勢いでその小姓を斬ったこともあった。「無礼である」という理由で。
自然、旧来の小早川家臣は離れ、隆景死後は毛利家に帰参した。
朝鮮の役では、朝鮮に渡った。それでも陣中で酒を飲み、酔った。
「異国での戦場ですから、ご冷静に」
付家老山口宗永などは諌止したが、秀秋と名乗るようになったこの無能は酒を飲まぬ方が冷静でいられなくなっていた。
「お体に毒です。気をつけられよ」
もう一人忠告してくれるものがあった。代官として朝鮮に渡っていた石田三成である。秀頼誕生以後権勢を増した近江人のなかでも筆頭格という感じがして、秀秋の苦手とする男である。何より頭の回転が違いすぎた。秀秋は常に、「酒のせいだ」と思うことにしていたが、まわりが愚者にしか見えない秀秋から見ても三成だけは別格であった。
「許してくだされ。幼少より毎日欠かすことなく飲んでおる。これが無くては手が震えるのだ」
三成は近江寺小姓である時、秀吉がその寺へ立ち寄って茶を所望した。まず大きな椀にぬるい茶を、ついで熱い茶、最後は小さな椀に熱々の茶を出した。秀吉はそれを気に入って取り立てたのだが、同じ卑賤の成り上がりにしてはあまりに対照的な”成り上がり”であった。
朝鮮から帰れば、その怠慢を三成に叱責され減封の憂き目にあった。それでも秀秋は三成を憎まなかった。ただ、優しい叔母に借りた金で毎晩酒宴を張った。
秀吉が死んでも、筑前59万石に加増を受けても酒宴は変わらなかった。周りは政争の只中である。三成につくか、徳川内府につくか。五大老筆頭の家康は諸大名を茶の湯でもてなしたが、この無能にだけは銘酒を集めて贈った。そして再三秀秋を酒宴に招いた。
三成は相変わらず難しい話を秀秋に説いた。秀秋からすればわからぬ話ほどおもしろくないものはなく、美味い酒ほどおもしろいものはなかった。
寝所で杯を干しながら家老松野主馬に相談する。どういうわけか秀秋は寝所ではいくぶん正気がある。
「主馬よ」
松野は「はっ」と短く返事をし、酔漢の様子を伺った。
「内府に味方すべきだろうか」
「石田治部どのになされよ。治部殿は毛利の大殿を旗頭にするおつもりにて」
関ヶ原前夜、松尾山に陣を張った秀秋は家康に内通した。松野主馬は反対したが、稲葉、平岡両家臣が取り付けた。秀秋は不満であった。不満ゆえに酒量も増えた。この無能の預かり知らぬところで家臣が勝手をするのである。秀秋への忠誠など、誰もないのである。
その陣に三成が訪ねてきた。
「お体に毒ですぞ」
「私の身体を案じてくれるのは治部どのだけですな」
自嘲しながらも、三成のその一言に懐かしさを感じつつ
「肚には決めておる。任せられよ」
という。こうなれば三成に味方してやろうと思った。
「信じましょう。戦後には関白として、秀頼さまの後見をお願いいたします」
松尾山の陣中に徳川方から酒が届けられたのは、三成が去ってすぐであった。