第7話(1) 『堕落の道へ』
幼い頃の記憶。
地獄に至るまでの平和だった日常の風景はもうほとんど覚えてないけれど、あの日の……全てが変わってしまった日のことは覚えてる。
炎を出すことが出来た。
水を出すことが出来た。
風を出すことが出来た。
土を出すことが出来た。
氷を出すことが出来た。
出し方も使い方も全くわからなかったけれど、5歳になった日、テーラ・マジーグという少女は突然摩訶不思議な力を出せるようになった。
『アルヴァロ、どうだ? うちの娘に何処か異常はないか?』
父親とアルヴァロ・ゾルターノという天使は学生時代の同級生だったらしい。
娘が突然特殊な力を使えるようになり混乱してすぐに医者に連れて行こうとした母親を父親が止め、確証を持ちたいということで旧友に相談したのだ。
『……素晴らしい』
……それが、地獄の始まりだった。
『この能力の他には特段身体に異常は見当たらないね。でもこの力は素晴らしいものだよ。原理を調べ、他の天使も使えるのなら天界の発展に大きく貢献することだろう』
『……そうなのか?』
『ああ。だが前例のない現象だから完全に理解するには長い年月を必要とするかもしれないね。でもこの特別な力を天界のために活かせ、発展させることが出来れば彼女が神様に認められ【神天使】になることも出来るかもしれないよ』
『――ッッ!! 本当か!?』
天使にとって【神天使】となって神様に仕えるというのは非常に重要な使命だ。
天使の誰もが願い、奮闘し、祈る。
天使の存在意義に近い上位種に娘がなることが出来るかもしれないとアルヴァロは言った。
当然父親も歓喜する。
決して酷い父親なんかではない。
天使という種族にとって極々一般的な思考だった。
その思考を、もちろんアルヴァロも理解している。
『6年だ』
『6年……?』
『彼女を6年私に預けてくれれば、必ず天界の発展に貢献する物を創り出すと約束しよう』
『――ッッ!』
『もちろん報酬の6割……7割でもいい。それを君達家族に渡そう。私にとってお金は妻と不自由なく過ごすことが出来るだけで充分だからね』
だから提案した。
決して悪いようにはしないと、きちんとした交渉をしたのだ。
『……パパ?』
隣で父親の指を握っている白髪の少女が父親を見上げている。
……大切な娘が【神天使】になれる。
娘が天界の未来を変える力を持っている。
だが父親という立場と、今ここにいない妻に対する説明の難しさが彼の選択を狭めていた。
『テーラと定期的に会うことは――』
『それは駄目だよ。勉学については私の方で教えるから問題ないとはいえ、君たちと何度も会うようになればいつ帰りたいと言い出すかわからない。確証の持てない約束は出来ない』
『……そう、だよな』
家族としての絆を6年も絶たれる。
果たしてテーラは自分たち家族のことを両親だと覚えてくれているだろうか。
父親にとってそれだけが不安だった。
『……テーラは、どうしたい?』
だから自分では決められず、よりにもよって5歳の、思考能力の低い娘に判断を委ねてしまった。
不安そうな顔をして、5歳の少女の選択を見守る父親。
幼かったとはいえ、それを感じない少女ではない。
話を聞く限り大切なことだと何となく理解したテーラは一切の躊躇もなく選択をしたのだ。
当然、6年という月日がどれだけ長いのか、まだ5歳の少女は理解してなかった。
『パパとママが笑顔になるなら、いいよ!』
『……わかった』
そしてこれが人生で一生地獄の日々を味わい、アルヴァロという天使によって創られた鎖に縛られることになる言葉だということに、少女はまだ気付いていなかった。
――
『魔導具店』の転移魔法陣に繋がる地下室にて、アルヴァロは現状の様子について疑問を抱いていた。
メビウス・デルラルトが、地下室にいない。
しかしそれは既にテーラから『逃げたので別の場所に移した』と報告を受けているし、ほぼ想定内だったため一瞬だけ疑問を抱いたもののこれはあくまで余談の話だ。
では何か。
それはテーラのアルヴァロに対する対応の変化である。
一番街~二番街を周り、必要な機材のチェックリストを作成することは出来た。
運送もあるため、実際に購入するのは後日に回しいつも通りテーラの魔力回復量を確認しようと採血を行ったのだが……
「ふぐっ……!! うっ……」
「……?」
メビウスと同年代で、採血を怖がり泣き叫んで暴れていた少女が何故か今日は一切の抵抗を行わなかったのだ。
叫ぶこともせずただただ必死に我慢しているだけだった。
何故かそこそこ大きめの白熊のぬいぐるみを抱いているものの、それで我慢してくれるのであればこちらとしても何も言うことはない。
刺した針を抜き取り、血液を保管庫の中に入れつつも雑談と称してアルヴァロは口を開く。
「……何か心境の変化でもあったのかい? 君がここまで従順な態度を取ることなんて今まで無かったのに」
「……」
「んー考えられるのは……デルラルト君に何か言われたとか」
「――っ」
どうやら図星だったようだ。
流し目を送りつつテーラを見ると、彼女は抱えていたぬいぐるみをぎゅっと強く抱き締めていた。
彼が彼女に何を言ったのかは知らないが、テーラが従順な態度を取ってくれるだけでも計画はかなり楽になる。
心の中でメビウスに感謝しつつ、アルヴァロは少しだけ気分を高揚させていた。
「計画が早く終わり天界に帰ることが出来れば、私も妻に会うことが出来てデルラルト君も家族に会うことが出来る。そしてこの世界に来てしまった天使たちも必ず救われるだろう。……4年前【魔天戦争】が起きた日に君は急に天界から消えたけど、良かったら君も一緒に天界に帰るかい? 私も支援ぐらいなら――」
「――ッッ!? いやっ!」
「嫌なら無理強いはしないが……こんな世界に居続けることを選択する意味が私にはわからないな」
せっかくだからと善意でそう口にしたアルヴァロだったが、テーラはぬいぐるみで顔を隠し前のめり気味で拒絶の言葉を吐く。
そもそもの話魔族の奇襲に合い転移事件が起きた前にも、こうしてテーラという一人の天使が4年前に人間界に転移しているのだ。
何か手がかりになることがあればと、転移してしまった原因をアルヴァロは問い質したのだが、返ってきたのはいつの間にか人間界にいたという現在の転移事件と同様の現象のみで。
何か転移する方法があるのはわかったものの、アルヴァロは現状でも大きな成果を得られずにいた。
「なんにせよ、研究の前準備は整った。君がこの世界でそれなりに稼いでくれていたおかげで機材も充分な量を揃えることが出来る。……本当に返さなくていいのかい?」
「いい、です……いいですから……」
「なら……有難いね」
アルヴァロが人間界で活動出来ているのも全てテーラの賜物だった。
場所も資金も全て彼女に提供してもらっている。
もちろん事が終われば借りたものを全て返すつもりだった。
メビウスもそうだが、借りは必ず返すのがアルヴァロの信条でもある。
だからたとえ天界に帰る方法を見つけたとしても、ある程度テーラに恩を返しきってから帰る手筈だった。
もちろんアルヴァロがここにいること自体がテーラにとって害以外の何物でもないので、そんなことを了承するはずがないのだが。
……それよりも、彼女は決してこのまま【実験体01】に戻ることを良しとしていない。
「そ、それより……ちゃんすを……チャンスを、いただけませんか……?」
「チャンス?」
メビウスを手に掛けてしまった時点で、既に諦めるという選択肢は無くなってしまった。
叫ぶのも、暴れるのも、もう既にそんな資格はないから我慢したのだ。
だが堕ちてしまった天使は空へもう一度羽ばたくことは出来ないように、テーラという天使もまた、このまま堕ちていくしか彼に贖罪することが出来なかった。
いや……贖罪などという善行でもなんでもない、都合の良い言葉では表していけない。
堕落することが、彼女に残された最後の選択だった。
声が震え、心臓がより早く鼓動を打つのを自覚する。
それでも、もう引くという選択は彼女にはなかった。
「……聖女様を、実験体にして下さい」
「……しかし奴らはデルラルト君の名前を出しても『聖書』という神の神託一つで拒否するような人物だよ。君が行った所でついて来てくれるとは到底」
「街の住民を人質に、取ります……」
「……!」
「たとえ神託によって行動を制限されたとしても、あの聖女様が信者を人質に引き籠るようなことはしないはずです。以前同じようなことがあった際も、聖女様は自分の身を明け渡そうとしたと聞きました……」
クーフルが襲来したあの時、テーラは各所に設置された魔導具の解除を行っていて詳しく見たわけではないが、そういったことをしていたと教会に泊まっていた時メビウスから愚痴を溢されたことがある。
その時の彼の苦笑いしていた姿を思い出して胸がズキズキと痛むテーラだったが、意識を無理矢理切り替えてぎゅっと白熊のぬいぐるみを抱き締め直した。
アルヴァロも仮にそれで聖女を研究に使えるというのなら願ってもないことだ。
もちろん、彼女がそれを出来るかは別としてだが。
「……君はこの街で長い間暮らしていたんじゃないのかい? 人質に取れるとは到底思えないけど」
「……どんなことだってやるって、決めたんです」
「……!」
「必ず、成し遂げます……」
やらなければ、彼を殺した理由が生まれない。
人生を奪われた自分が、人の人生を奪ってまで幸せを手に入れようとしてしまったのだ。
結局アルヴァロと変わらない。
それどころかアルヴァロよりも最低なことをしてしまった。
だから必ず聖女を攫う。
――でも。
果たしてアルヴァロから解放されたとしても、メビウスを殺して、聖女を攫ったという事実が消えることはないだろう。
……それで果たして幸せな人生をこれから先送ることが出来るのだろうか。
彼女にはもう、何が正解なのかわからなかった。
「……」
アルヴァロは顎に指を置き考える。
この作戦が失敗すれば少なくともテーラはこの街に居られなくなるだろう。
この『魔導具屋』も抑えられ使用出来なくなる可能性も高い。
……あまりにもリスクが高い。
ここが使えなくなれば一番街と二番街を自由に動くことも難しくなってしまうだろう。
功を焦っては大事なことすら成し遂げられなくなる。
普段のアルヴァロであれば確実性のみを求め、テーラの願いを拒否するはずだった。
……しかし。
教会の面々はメビウスに対し、己の安全のみを第一に考え危険だと言われた彼の安否を確認しようとすらしなかった。
子供は仕方ない部分もある。
アルヴァロ自身子供が嫌いではないし、そもそも子供というのは気の向くままに遊ぶのが仕事だ。
難しいことは大人が考えるべきだというのは、昔のメビウス一行の姿を見てよく理解していた。
だが……聖女に対しては思う所があるのも事実。
神様の神託とはいえ、姿も見せずに子供に全てを任せるというのが大人のやるべきことなのだろうか。
少なくとも身内にそんな態度を取って、アルヴァロは無視しようとは思えなかった。
「……必ず、攫えると誓うかい?」
「……はい」
「……わかった。なら君にその件は任せるよ」
「ありがとう、ございます……」
一言言わなければ気が済まないと思っていたのも事実。
アルヴァロは多少のリスクを承知でテーラの提案を了承し、テーラもまたぬいぐるみを抱き締めながら俯きつつも小さく頷いていた。