第6話(7) 『無力な天使』
テーラはここにいてはいけないのだ。
少なくとも昨日まで何の気概もせず笑っていた女の子を曇らせるような場所にはいてはいけない。
たった一日のはずなのに、もう彼女の笑顔を見ていない時間がとても長いものに思えた。
あまりにも悲劇が強烈過ぎて、彼女の嬉しそうな顔も何もかも、記憶から塗り替えられてしまいそうになる。
そんなの絶対に受け入れるわけにはいかなかった。
「俺が必ず、アルヴァロさんからお前を守る。絶対にだ。だからこの鎖を解いてくれ。そうしたら俺は、俺の全力を持ってお前の抱えてるものを全部解決してやる」
もう無力な自分を客観視するのは嫌なんだ。
鎖さえ外してくれればアルヴァロさんと対峙することも厭わない。
その場合アルヴァロさんの天界へ戻るための研究は大きく滞るだろうが、テーラを逃がした後今度こそ正当な手段で協力しようと思う。
やはりどうしても俺は、アルヴァロさんの行おうとしている非道な研究を受け入れることは出来ない。
アルヴァロさんにも奥さんがいて、早く無事を知らせたい気持ちはわかる。
俺のことを考えてくれるのも嬉しい。
……でもそれで苦しむ奴がいるっていうのは、良くないだろ。
それが俺の知り合いなら尚更だ。
「お前も俺の活躍は見てただろ? アルヴァロさんのことも俺はよくわかってるし、きっとお前の力になれるはずだ。それにそんな辛そうな顔をしてるお前を放っておけるわけないしな」
クーフルとの一件はテーラも見ていたはずだ。
今は拘束されているためその面影など無いに等しいかもしれないが、それでもやる時はやる男なのがこの俺。
アルヴァロさんと戦わなければならなくなるかもしれないが、俺とテーラが協力すれば撃退すること自体はそう難しくないだろう。
だから、拘束を外してくれさえすれば……
そう思い、様々な言葉を吐き捨てたもののテーラが反応を寄こすことは一度もなかった。
先程のアルヴァロさんの言葉が蘇り、徐々に焦りのような感情が芽生えてくる。
「な、なんで何も言ってくれないんだ? 結構お前にとっても有意義な提案だったと思うんだが……」
「……」
「確かに失敗したらって気持ちはわかる。でもこのまま受け入れ続けるっていうのはお前の未来を閉ざす行為だろ……!? お前も逃げたいって、助けて欲しいってそう思ってるはずだ」
「……」
「だからっ、神サマなんかにまで助けを求めたんだろ!? 神サマなんていう何もしてくれない奴に助けを求めるぐらいなら、俺がやる。俺が出来る。だから……な?」
「……」
なんで、何も言ってくれないんだ。
困惑が俺を支配していた。
決して無理な提案ではないはずだ。
手を差し伸べてくれる人がいて、その手を取らない理由なんてないはずだろ。
確かに俺はあの時、彼女を守ることは出来なかったかもしれない。
でもあれは拘束されていたから仕方なくて、決して信用を失う程の失態ではないはずだ。
そもそも俺を拘束したのはテーラ自身なわけで、そこで非難される言われはない。
だから、何か反応が欲しい。
そう思っていた時、テーラの口元が少しだけ動いた気がした。
「自分じゃ……」
「……!」
「自分じゃ、無理やろ」
「……は」
「…………」
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ俺は表情を明るくさせる。
だがテーラから発せられたのは思っていた返答とは全くの真逆で、脳が理解することを拒み思わず呆けた声が漏れ出てしまう。
……無理だと、言われた。
お前じゃ出来ないと、助けることなど出来ないと、そう言われた。
どうして……そう思うんだ。
そう思わせるような直接的なことを俺はしたのか。
助けなきゃ、辛いのはお前だろ!?
「……ご飯、作ってくる。世話しろって命令やから……」
「――ッッ!!」
震えながらも、テーラは俺を見ずに椅子から立ち上がった。
そして何事も無かったかのように転移魔法陣の方へと歩き出す。
足元はおぼついていて誰が見ても無理しているのがわかる。
そこまで震えていて、どうして助けての一言を言わないんだ。
焦りと憤りが俺の心を乱していた。
「お前……! このままだと必ず後悔することになるぞ! どうして諦めようって思えるんだ! 俺はっ、お前の苦しむ姿なんて見たくないんだよ! お前が笑ってくれることが、俺にとって大切なことなんだ! アルヴァロさんだって!」
想いを向ける。
少しでも彼女の心に届いてくれるようにと、声を強める。
「――っ!」
だが何を思ったのか、先程まで自分の感情を曝け出そうとはしなかったテーラが反射的か勢いよく振り返った。
まるで俺に裏切られたような、そんな悔しそうな顔で涙を流して。
「選べもしない自分に! ……うちのことなんて助けられるわけないやろっ」
「……っ」
何か、言おうと思っていた。
なのに俺は言葉を詰まらせて、目尻に涙を溜める彼女から目が離せないでいる。
どうして……。
どうして、そんな顔を俺に向けるんだ。
わからない。
改めて俺は彼女のことを何も知らなくて、彼女の抱えているものが何かすらわからない愚か者だと気付いた。
テーラが拒否する理由も、否定する理由も、怖がる理由も、苦しむ理由も……俺は何一つ理解していない。
「……ぐすっ」
「……っ」
泣き声がやけに耳に響く。
直視出来ずに思わず目を逸らしてしまうと、テーラもそれ以上は何も言わず転移魔法陣を使って『魔導具屋』へと転移してしまう。
地下室に残ったのは今度こそ俺だけになった。
「何を、すればいいんだよ……」
何か足りないものがあるんだ。
テーラの求めていることが俺にはわからなくて。
そしてきっと、テーラはその求めていることを俺が出来ないと確信している。
アルヴァロさんと協力することではなく、テーラを助けることを選んだ。
それだけじゃ駄目なのだろうか。
それは……選んだことにはならないのか。
――ただ一つ言えることは。
「教えてくれればっ……! そうしたら俺は……」
俺では答えを見つけられそうにないという、他力本願な願いを抱いていることだけだった。
――
結局あの後アルヴァロさんに布団を用意してもらい、テーラに食事を食べさせてもらって眠りに付いた。
あんなことを話した後に俺にご飯を食べさせるという意味不明な行為を行った時のテーラの心中は計り知れないが、少なくとも俺の中でまだ諦めることは出来ないという気持ちが芽生えただけでも儲けものだ。
今は恐らく昼前だと思う。
アルヴァロさんは既に【イクルス】の別番街へ向かったらしく、相変わらず地下室には俺とテーラだけが取り残されていた。
今日の夜……またアルヴァロさんによる実験の前準備が始まってしまう。
そうしたらまたテーラの泣き叫ぶ声を聞かなければならなくなってしまうだろう。
それが何日も、何日も繰り返されてしまう。
このまま拘束されたままだと、その未来は覆そうがなかった。
テーラの協力は不可能だと思うしかないだろう。
彼女の意志は固く、何も知らない俺ではテーラを説得する言葉もない。
だから……拘束を解除するのは、俺でなくてはならない。
「あ~ん」
「……ん」
そんなことを思いながら、俺は今日もまたお昼ご飯をテーラによって食べさせてもらっていた。
昨日もそうだがやはりテーラに料理スキルはあまり無いらしく、用意されているものは既に物として完成されているパン等、一般的に売られているものばかりだった。
レパートリーがそこまでないのでエウスやセリシアの食事に慣れている俺からするといつかは飽きそうではある。
が、現状はただ悪くないと思えてるので構わない。
律儀にジャムなども用意してくれているため、味付けにも困らなそうだ。
「こういうのも悪くないな!」
「いいから……黙って食っとき」
「……むぐっ。良いじゃん、もっとフランクに接しようぜ」
「自分は変わらへんな……自分の立場わかっとるの?」
「俺は未来じゃなく、今を生きる男だ。今はこうして美少女にご飯を食べさせてもらってるというシチュエーションを満喫したいわけ。あと介護されてるのは何もしなくていいから気分が良い」
「……はあ」
俺の言葉に呆れてしまったようで、テーラは大きくため息を吐く。
気絶させて、あれだけ酷いことを言っても尚敵対心を抱かず空元気を見せて軽口を叩いている俺に困惑しているようでもあった。
どうしていつも通りでいられるのかと、そんな無言の圧を感じる。
「聖女様は自分を助けには来ない。うちも自分を助けない。味方がいないのに、どうして自分は……」
確かにテーラの言う通りだ。
セリシアやテーラを助ける云々を抜きにしても、現状この状態は俺がアルヴァロさんに屈しない限り天界に戻る方法が確立するまで続くだろう。
それはそれで問題があるわけで、俺自身の状況も最悪と言える。
だというのに失望や絶望、恨みを抱かない俺のことがテーラには理解出来ないようだった。
といっても、理由なんて大したものではないが。
「俺には夢があるんだ」
「……夢?」
「ああ。つまらないと思える程平和で幸せな毎日を送る。俺の周りだけでもそんな世界でいて欲しいって、そう思うんだよ。そしてそれが、簡単そうで一番難しいことも俺はわかってる」
「幸せ……」
「その周りにはセリシアも子供たちも、そしてお前も入ってる。お前が初対面の俺を助けてくれたように……俺も、お前には恩返しがしたいんだ」
「……っ」
「たとえ否定されても、見下していた俺に大切なことを気付かせてくれたお前を見捨てることなんて出来ない」
セリシア以上に、俺の思考が天界時代から大きく変わったのはまさしくテーラのおかげだ。
彼女がいなかったら、きっと俺はこの世界でも何者にもなれなかったと思う。
彼女と出会うことが無かったら、きっと俺は堕落したまま変わろうとすら思っていなかったと思う。
今こうして天使と人間の繋がりに悩むことすら、していなかったはずだ。
「逆にお前には夢とかないのか?」
夢というものは人である以上誰もが自分の理想を持っていると思う。
それはテーラも同様のはずだ。
「……うちは」
考えたこともなかったのか、どうやらそこそこ真剣に考えてくれるようでテーラはしばし思考の海に身を投げる。
やがて天井付近を見上げ何でもない風に微笑を浮かべた。
「……子供が、欲しいなぁ」
「ぶふっ!? は、はあ?」
急に何言ってんだコイツは。
まさかそんなことを言うとは思わず、柄にもなく狼狽してしまう。
そんな俺の様子を見てテーラは眉を潜めた。
「なに驚いてんねん」
「い、いや悪い。唐突過ぎてびっくりしただけだ。結婚願望があるとは思わなかった……」
「別に子供じゃなくてもええんやけど……絶対に信用出来る人が欲しい。うちの子供なら……うちのこと、絶対に信じてくれるやろ? そしたらうちも、その子のこと信じられる気がするんや。その子だけを信じて生きる人生も悪くないって思えるんよ」
初めは戸惑ってしまったが、テーラの言葉を聞くうちに段々と自分の心が落ち着いていくのを感じた。
つまりテーラには本当に信用出来る相手がいないと言っているのと同じだ。
誰も信用出来ないから、血の繋がっている家族であれば信じることが出来ると、そんな感情を持っている。
俺も家族だけは無条件で信じられるからテーラの言い分はごもっともだ。
彼女の両親はどうしているのかという疑問は抱くものの、それを聞くというのは野暮というものである。
だがそんな夢があるのなら。
「だったら尚更、このままじゃ駄目だろうが」
「……夢って言うたやろ。そんなの叶いっこないって、わかっとるから」
そう言うテーラの表情は、やっぱり諦めていた。
最初からそんな未来が訪れることはないと理解しているのか、期待すらしていないように見える。
期待してくれと、俺がどうにかすると言いたくても、テーラが俺のことを信頼してくれていない以上また同じ問答を繰り返すだけだ。
ここで気の利いた言葉を口にしても、彼女の不安や恐怖が和らぐわけではない。
俺には何も出来ない。
誰かに期待されなければ俺という存在はまさにいないのと同じだった。
全身に力が入っているのがわかる。
相変わらず拘束具の鎖は抵抗する俺の身体に喰い込み、拘束力を強めるだけだ。
何も出来ず、何か言う資格もない俺をテーラは見ない。
俺とテーラの関係は一昨日までと違い大きく変わってしまったように思えた。
「だから……もう諦めたんや」
その言葉には一切の感情が籠ってなくて。
俺は彼女に何一つ、声を掛けることが出来ずにいた。
俺は全てを諦めたような表情を変えたいと、そう思っても何も出来ない……無力な、天使だった。