第6話(3) 『無力さを噛み締めて』
地下室は火が灯った魔導具によって光源が生まれている。
そんな狭い一室で、光によって先端に繋がれた金属の注射針が反射しキラリと輝きを放った。
「きゃああああああああああ!!!! やだやだやだやだやだっっ!!!!」
「――っ!?」
――その瞬間、注射針を見たテーラはあの特徴的な口調は何処へやら、まるで子供のように絶叫を上げ泣き叫びながら必死にその場から離れようと這いつくばるように身体を動かしていた。
驚いて目を見開く俺を尻目に、アルヴァロさんはまるで見慣れたかのように小さくため息を吐くと、ゆっくりとテーラへ距離を詰めていく。
意味が分からなかった。
ただアルヴァロさんは何も入っているわけがない採血用の注射器を持っただけだ。
冷蔵庫に保管されていた血液がテーラのものであることが確定してしまったにしても、それ自体は怯える必要性もない採血をするだけのはず。
なのに。
……おかしい。
あいつのあの姿は、やっぱりおかしいだろ……!?
「はあ……何度もやるんだからいい加減慣れてくれ。子供のように駄々を捏ねてもやることは変わらないというのに」
「許してっ! 許して下さい!! ごめんなさいごめんなさい!!」
「昨日もそうだけど、麻酔が無いとやっぱりこうなっちゃうんだよね……時間の無駄だ。ほら、早くその椅子に座ってね」
「いやっ! 助けて! 助けて!!」
「あ、アルヴァロさんっ!!」
わからない。
わからないけど、目の前で酷く泣き叫んでいる恩人の女の子を放っておくことなど出来るわけがない。
だから困惑しつつもアルヴァロさんの名前を呼んだ。
テーラの腕を強引に掴み上げ、拘束具が付けられた椅子へと向かっていたアルヴァロさんの足がピタリと止まる。
「ん、なんだい」
「い、嫌がってるじゃないですか! 無理矢理掴み上げるだなんて、天使として……いや、人としてもあるまじき行為ですよ!?」
「私だって穏便に済ませたいさ。でもここまで逃げられるとそうは言ってられないだろう?」
「それは、そうかもしれませんけど……他にやり方だってあるはずです!」
「といっても、別に何かするわけじゃない。採血しようとしているだけだよ? デルラルト君は注射を嫌がる子供が泣き止むと思うのかい?」
「そ、れは……でも、明らかに怯え方が異常じゃないですか! それにテーラは子供じゃ――」
「そうだよ。子供じゃない、大人だ。大人なら採血ぐらい我慢出来るようにならなくちゃね」
「ぐっ……」
アルヴァロさんに掴まれているテーラは子供のように泣き喚いている。
俺の家族に注射嫌いはいないため気持ちが分かると素直に言うことは出来ないが、注射をするという行為がテーラにとってトラウマに近い恐怖を抱かせているのは見ればわかる。
アルヴァロさんの言葉に一瞬だけ言葉に詰まってしまったが、たとえ採血するだけだとしても拒否し続ける子に対して採血を強制するのは人権を尊重していない行為のはずだ。
やっていることが単純なことだとしても、それでも止めなければならない。
もう何も出来ないのは、昨日だけで充分なんだ。
「アルヴァロさん!! 止めて下さい……! 天界に戻るために必要だとしても、テーラじゃなくたって……! それに、強要するのは良くないはずです!」
「彼女も協力してくれると約束したんだ。今更やっぱり無理は認められない」
「……っ!?」
「ごめんなさいっ! ごめんなさいっっ!!」
「――っ。だ、だとしても! 今嫌がってるなら仕方ないですよ! みんな言ったことを出来るわけじゃないでしょ!? 勘違いしていたことや、思っていたのと違うこととか、そう言ったことだってあるはずで……」
「それを世間では自分勝手と言うんだよ、デルラルト君。これは私達だけの問題ではない。妻やみんなの、天使の希望にならなければならないことだ。個人の感情で出来ませんは通用しない」
「……っ」
アルヴァロさんの言いたいことはわかる。
どうしてテーラが協力を受け入れたのかはわからないが、それが本当なら理屈も筋が通っていることだ。
俺もきっと、相手がテーラじゃなかったら同じことを言っているはず。
そのこともあって一番重要な説得力を持たせることが出来なかった。
アルヴァロさんは引き続きあまりの恐怖に身体に力の入らないテーラの腕を掴み上げながら移動し、強引に椅子へ腰掛けさせた。
そして拘束具である鎖を腕や足、身体に巻き付けて行く。
その間ずっとテーラは腕を振り払おうとして、それでも全身が震えてパニックになっているのか上手く身体が動かせずにいた。
そんな彼女の姿をずっと見ていて、胸が痛む。
何も出来ない自分自身を客観的に見て、どうしようもない事実に苛立ちを抱いた。
「痛いのやだっ! 痛いのやだぁぁ! 助けて! 助けてじぶん、じぶんっ!」
「――――ッッ!!」
助けを、求められた。
乞うような、必死に縋り付こうとしているような視線を向けられた瞬間、俺の脳は急速に沸騰しアルヴァロさんに対する怒りの炎が一気に燃え盛って行く。
「~~~~っっ!! アルヴァロさんッッ!!」
初めて、アルヴァロさんに対して大声を出した。
怒りの籠った声質に驚いたアルヴァロさんは困惑したように身体を静止させ再度こちらへと振り向く。
「やめ、ろ……!!」
明らかな敵意の籠った瞳を、アルヴァロさんへ向けている自覚があった。
これ以上はたとえ大切な人であるアルヴァロさんと言えど容認することは出来ない。
テーラに助けを求められた。
初めて、求められたのだ。
助けなければならない。
守らなければならない。
そのためにここに足を運んだ。
精一杯敵意の籠った目でアルヴァロさんを静止させる。
止めて下さいと、諦めて下さいと、そんな願いを籠めて。
「……はあ」
今まで受けたことのない俺の強い言葉に驚いたアルヴァロさんだったが、睨み続ける俺に小さくため息を吐くと、一度テーラから距離を取りアタッシュケースの別ポケットからタオルのような布を取り出した。
彼女から離れてくれたことにもしかしたら考えを変えてくれたのかもしれないと淡い期待を一瞬だけ抱く俺だったが、その感情はすぐに消え失せることとなる。
「やはり持ってきておいてよかった」
「何を……!」
「君は甘すぎる。聖女様だけならともかく、『彼女』にも優しさを見せるなど。優しさを超えて最早愚かだ。君にずっと騒がれてしまうと手元が狂ってしまうからね。申し訳ないが口を塞がせてもらうよ」
「ふざっ! そんなの、何の解決にもなってないじゃないですか!!」
「先程も言ったが、採血ぐらいで拒否されたら何も出来なくなってしまうんだよ。聖女様が協力してくれない以上、彼女にはこれからたくさん協力してもらわなければならないことがあるからね。君が決めたんじゃないか。聖女様を裏切らないと」
「――っ!」
確かにそうだ。
俺がセリシアを裏切らないという選択肢を取ったから、どうしてか今度はテーラが実験の標的にされてしまっている。
でも違う。
俺が言いたかったのはそういうことじゃないんだ。
大切な人が傷付いてほしくない。
そんな様子を見て見ぬ振りをして天界に帰ることは出来ない。
だから裏切らない選択を取ったんだ。
それでテーラに矛先が向いてしまったら、結局何も変わらないじゃないか!
「そう、だとしても! 俺はセリシアと同じぐらい、テーラが苦しむのを受け入れるわけにはいきません!」
「それはあまりにも自分勝手だよデルラルト君。何かを犠牲にせずに物事を達成出来るなどという綺麗事を信じてるわけじゃないだろ?」
「そ、それは……」
それは俺が何度も思い、何度も馬鹿にしてきたことだ。
天界でもいつもそうやって天狗になって自分の主張を意気揚々と口にしてきたこと。
それが今まさに俺へと帰ってきている。
都合の良い言葉を吐き出そうとしても、結局それを都合が良い言葉だと馬鹿にしてきた俺自身が否定してしまっていた。
「やだぁ……やだぁ……」
「……っ」
だから止めようとしても、止めるための言葉が俺には無かった。
でも椅子に座らされ、鎖によって固定されてしまっているテーラの姿は見るに堪えなくて。
必死に頭を回転させ、守れなかったものを助けようとしていた。
それが酷くちっぽけで、何の安心感を抱かせてやれていないことに気付かずに。
「大人しくしていてくれ。舌を噛まないように気を付けて」
「そんなの出来るわけがむぐぅっ!?」
叫び、アルヴァロさんに大声を上げるが、まるで子供をあしらうようにアルヴァロさんは何の躊躇もなく大きく開けた俺の口にタオルを嚙み込ませた。
そして後ろ手に鎖を結び締めると、満足気に小さく頷いている。
これで安心だと、いつもの気を遣った優しい笑みを浮かべていた。
「んんーー!! んぅーー!!」
暴れる。
何とか拘束を解こうともがき続ける。
しかし当然の如くしっかりと固定された拘束具が取れることはなく、鎖が肌を擦り摩擦によって軽い痛みを生じさせるだけだ。
それでも絶えず椅子ごと身体を動かし続ける。
俺の紅い瞳はずっと、終始泣き叫ぶテーラへと向けられていた。
「ごめんなさいっ! 次はっ、次はちゃんと聖女様を連れて来るからぁ! だから、だからっ!」
「あ、そもそも君の口も塞いでしまえば良かったのか。初めから気付くべきだったね。次からはそうしよう」
「許してっ! 許してください! 神様っ、神様ぁぁ!!」
神様にまで助けを求める始末。
けれど、やっぱり神はテーラや俺に手を貸してくれることなどなくて。
神は……テーラも教会で祈りを捧げていた聖神ラトナは、実質『聖女』にだけ手を貸していた。
いつもそうだ。
それが現実だ。
酷く、殺意にも似た感情が湧き上がるのを感じる。
……ふざけんな。
神託を、下した……?
聖女にだけか? 聖女だけなら守れるっていうのか!?
俺やテーラは守ってくれないっていうのに、聖女だけは守るのかよ!?
布が噛み込んでなかったらきっと口を嚙み切っていたと自覚する程全身に力が籠っている。
どうしようもない絶望が俺に襲い掛かっていた。
アルヴァロさんはガーゼにアルコール液を沁み込ませ、テーラの細く華奢な腕の血管部分を軽く拭く。
そして注射針をガクガクと震える腕に添えていた。
「助けを求めるのは結構だけど、そんな酷いことはしていないんだけどね……はい、少しチクッとするよ」
「ひぐっっ!!」
――か弱い女の子の悲鳴が、地下室に反響する。
「――――――」
……自分なら何とか出来るって、そう思い疑っていなかった。
セリシアもテーラも救えると。
カッコいい所を見せることが出来るって、根拠もないのにそう思い込んでいた。
でも、床に落ちたまま誰の腕にも抱えられない白熊のぬいぐるみが入った紙袋があるように。
「んぅーーーー!!!!」
俺は守るどころか彼女の盾になることすら出来ない。
ただ全身を震わせ、悲鳴を上げるテーラを悔しそうに見続けることしか出来なくて。
俺は……無力だ。
また、助けられなかった。