第3話(2) 『聖女の選択』
【聖女の聖痕】。
それは聖神ではなく聖女が唯一単独で選ぶことの出来る、聖女の力の一部をたった一人にだけ共有する能力である。
それはつまり、神の権能を授かるのと同じことだった。
だから聖女は聖書の神託に則り【聖女の聖痕】を秘匿し、本当に信用出来、尚且つ共に神のために生きることの出来る人物を見つけるまで使用を禁じられていたのだ。
帝国も信者の誰一人すら知らない、文字通り聖神ラトナと各聖女のみが知る極秘情報。
それが今、魔族と名乗る男によって簡単に暴かれている。
セリシアはこのことを誰一人にも言ったことがない。
結界を通り抜け子供たちを救ってくれて、一番信頼出来ると思っていた白髪の彼にすらだ。
別の聖女が情報を漏らしたのだろうか? 知っている理由はわからない。
ただわかることは、この男は【聖痕】を手に入れたいがためにここまで人々を苦しめているということだ。
彼女なりの精一杯の睨みを利かせてクーフルを見る。
けれどどうしてもセリシアの発する声には信じられないといった震えが現れていた。
「魔族、という種族は聞いたことがありませんが……それだけのために、こんなことを……?」
「それだけのため、ですか。どうやらあなたはあなた自身の力の有能性について気付いていないようだ」
「有能性だなんてっ、この力はラトナ様のお力になるために必要な力です! それ以外のために利用するなど、神はお許しになりません……!」
「いいや、違いますよ。その力は神のために使うんじゃあない。この世界の神になるために使うべきなのです!」
「……!?」
一人の人間が神になるなど、信者が聞けば殺されてもおかしくない言葉だ。
聖女ですらそんな発言は許されないし、考えたことも、行おうとすらも思わない。
だが聖女の力を知っているクーフルにとってはそれこそがまさに信じられないようでここぞとばかりに腕を大きく広げて世界に想いを馳せていた。
「どうして神があなた方人間に力を与えたのかわかりますか? それは神自体がこちらに干渉することが出来ないから、その役目をあなた方『聖女』という存在に担わせているのです」
「……そうです。だからこそ私達聖女は神様がこの世界を清く、正しく導いていただけるよう手助けをしています」
「あなた方は神の力を持っているという意味をわかっていない。その力は聖神のためだけに使う必要などないのです。世界にとって必要なのは光ではなく闇の力。邪神こそが! 力と欲望に溢れた世界へと作り変えることが出来る!!」
「邪神って……!? そ、それこそ渡すわけには行きません!」
「力ある者に【聖痕】が付与されれば、それは絶対となります!!」
「……っ」
話が通じない。
クーフルはまるで自分に酔っているかのように高揚した様子で高々と声を張り上げている。
そしてぎゅっと胸の前で両手を握るセリシアに流し目を送った。
「あなたに拒否権はない。そう遠くないうちに三番街の住民は私の闇魔法《カース・トラジディ》によって衰弱死を迎えます。くふふっ、三番街の命と【聖痕】。果たして『人間であるあなた』はどちらを優先するのでしょう?」
「――っ!」
……クーフルの言葉には即答するべきだ。
神の遣いとして生きる聖女として【聖痕】だと即答しなければならないことだ。
けれど出来ない、言えるはずがない。
聖女ではなく、『セリシア』は決してそうは思えなかった。
過ごして来た思い出がある。
子供たちにも、三番街の人達にも大切な未来がある。
けれど聖女としては信者を集めるのが聖女の目的だとすれば三番街に拘る必要などなかった。
あくまで三番街の聖女として存在しているのは帝国に指示されたからであって『聖書』に記された神託ではない。
ここで三番街を諦めることこそが、神の遣いとして正しい命の使い方だ。
【聖痕】を選べば、三番街のみんなを見殺しにすることになる。
三番街のみんなを選べば、【聖痕】はクーフルの手に渡り、これから一生神への反逆者として片棒を担がされることになる。
一筋の汗が流れているのを感じていた。
心臓が強く鼓動を打ち、思考が纏まらなくなってくる。
「わ、私は……」
「……………………はあ」
選べない。
選べるはずがない。
だが考えるという時間すらクーフルには理解出来ないようで、大きなため息を吐くと「それなら」と満面な笑みを浮かべた。
「なら、一人ずつ殺しますか!」
「――っ!?」
【聖痕】を選ぶのであれば、どの道三番街の住民は死ぬ。
であればそれが今からでも構わないだろうとクーフルはそういう意図を籠めてそう言った。
当然だ。
【聖痕】は一つしかないし奪えない。
だがたくさんいるうちの一人や二人の命など多少の犠牲だけで片付けることが出来る。
いつまでも悩む聖女に選択を強要するのは当たり前だった。
「パニックを引き起こすのはスマートじゃないのであまり行いたくはありませんが、時間が掛かってしまうと言うのなら仕方ありません。ではまずはあなたが必死に運んでいた女性と老人から殺して行きましょう!」
「ま、待って下さい!」
「それとも子供の方が良い声で鳴くでしょうか!? 未来のある子供たちの命の方があなたにとって重いんですか!? であれば、そうです! 子供にしましょう!」
「~~っっ!! お願いします! もう少しだけ、もう少しだけ考える時間を頂けませんか!?」
「いいや待ちませんとも。なぜなら――」
セリシアの懇願。
しかしそれすらも簡単に跳ねのけ、クーフルは踊るように闇の魔法陣から取り出した漆黒の短剣をセリシアへと突き立てた。
だがその刃は当然の如く【聖神の奇跡】によって防がれる。
「――っ!」
「あなたの命は……人質に出来ない。ああっ! この自分の意志で何かを失うことを選択させるこの瞬間が酷く私に快感をもたらせてくれます!」
恍惚とした表情でそんなことを言う。
セリシアにとって、クーフルの言葉を理解することは出来ず、徐々に跳ね上がる心音と命が消えてしまうという焦りからあまりの動揺に目の焦点が合わなくなっていた。
「だ、だって、そんな……こ、殺すだなんて……そんなこと、ラトナ様は……」
「おやおや、面白いことを言いますね。聖女という横暴な存在によって無情にも殺された人だっているだろうに、聖神ラトナとはなんと都合の良い神様なのだろうか」
「――っ」
クーフルの言葉は正しい。
少なくとも今までわかっていながら何も出来ない世界の理に、仕方がないことだと諦めていたセリシアにとって酷く胸が痛む言葉だった。
「あなたは神によって守られている。それはつまり、あなたはこの状況下ですら自分の命を担保にしていないということです。そして唯一差し出せる【聖痕】ですら、こうして出し渋り命の失っていく様を指を咥えて見ていることしかしない! それが聖なる信者が信仰している聖神ラトナの本来の姿なのでしょう!!」
「そ、それ、は…………」
「……では、まずは一人目から。行って参りますね、聖女様」
「あ、ああっ……!」
動かさなければならない。
足を動かして、魔族の前に立って「【聖痕】を渡す」とそう言わなければならない。
だけどセリシアの両足は小刻みに震えるだけで、まるで重りが乗せられているかのように半歩ですら動くことは出来なかった。
聖女としての彼女は、神に見捨てられるかもしれないという初めて感覚として理解する恐怖によって酷く怯えているのだから。
クーフルが踵を返す。
セリシアは動けない。
クーフルが一歩、また一歩と前に進む。
それでもセリシアはぎゅっと手を強く握り締めて、祈るように見えない神に縋ることしか出来なかった。
そんな資格無いと言うのに、涙が零れ落ちそうになる。
選べない。
どの選択が正しいのかがわからない。
悩み、葛藤し自分自身がどうしたいのかすらも曖昧になっていく。
……持ってはいけない感情が芽生えようとしていた。
「――何、やってんだよ、お前っ!」
「――っっ!?」
――その刹那、裏口の扉から飛び出す小さな影が地を駆ける。
そして影は勢いよくクーフルへと突貫し、自身ごとクーフルを転倒させた。