第16話(12) 『悪魔的所業』
自発的にではないが、長い間取ることの出来なかった深い眠りにメビウスはついた。
教会メンバー全員と寝た時も同様に眠りにはついたが結局就寝から起床までの時間は眠るという行為を完遂させるには到底及ばない程に早かったため、その点現状のメビウスは全く起きる気配もなく無防備な寝顔を晒している。
これが平穏な日々の中で見られたものであったなら、きっと誰もが小さく微笑んでしまうぐらいに無垢な顔付きだ。
だが当然平穏な一時すら今この場には存在しなくて、鉄門越しに善と悪が対峙し続けている。
「シロ兄を返せよッッ!!」
聖神騎士団によって鉄門を超えられないよう防がれながらも今まで見たことのない形相で吠えるカイルに、セリシアだけじゃなく魔法使いの女も驚いていた。
「ここで過ごしている子らは皆元気じゃのう。やはりこれも皆の平穏を守る役目を担っているはずの聖女が、街を守護するどころかその職務を放棄し他力本願で他者に解決を強要し続けているからか」
「――っ」
「守られている内は、酷く心地良く過ごせるじゃろうなぁ」
その言葉はあまりにも意地が悪く、セリシアの抱えていることを思い起こさせるものだ。
ズキリと胸が痛くなる気分を味わいながら、それでもセリシアは困惑した様子で魔法使いの女に問い掛ける。
「どうして……こんな酷いことをするのですか……?」
「……というと?」
「毎日を清く正しく生きている方々の平穏を脅かし、森に火を付けるだけじゃ飽き足らず暴行を働くなんて……聖神ラトナ様は、決してその所業をお赦しにはなりません」
「赦されなければどうなるんじゃ?」
「いつか、必ず神の裁きが下されます。ですからそうならないためにも、もうこれ以上罪を重ねてはなりません」
聖女として、セリシアの言い分は正しい。
この宗教社会においてセリシアの言い分は非常に説得力のあるもので、事実聖神ラトナという存在が『聖神の加護』の存在によって確かに実在しているという証明を既にこの世界に周知している。
実際に神の干渉というものがあるからこそ、皆は聖神ラトナによる罰を恐れ敬い救いを信じ、聖女という存在を崇め信仰しているのだ。
故に言葉通り、いつか必ず裁きが下される。
だが、にも関わらず女はセリシアの主張に対し含みのある笑みを浮かべた。
「ふふっ、いつかか。そのいつかを信じて、今もこうしてこの子を助けようともせず見ているだけの聖女の行いは正しいと、そう思っているのじゃな? これは滑稽じゃ。行動しない言い訳に、神の名を使う聖女がいるだなんて」
「――っ!? ち、ちがっ」
「違わないじゃろ。いや……一個人ではなく、これこそが本来世界にその存在を秘匿され続けている全ての聖女の主張なのか。唯一表に出てきたお主のおかげで新たな知見を得ることが出来た。……でも」
「――っ」
「大事なのは……『今』じゃろ?」
そう言う魔法使いの女の言い分は一見、間違っているように見える。
たとえどれだけ現実的な主張だとしても先に聖女による解が成された以上、この世界にとってはその主張が間違っているのだ。
だが故に、現実を理解している者は全員同じ答えを示すだろう。
その証拠として、魔法使いの女は何の前触れもなく突然メビウスのシャツを捲り、その隠された肌をセリシアへと露わにした。
「見ろ。この子の身体を。見ているようで見えていない、その目にしっかり刻み込むといい」
「――っ!?」
「うっ!?」
そうして露出した肌は……もう既に、肌ではなかった。
正常な皮膚が見えない程の生傷が大量に刻まれ、青黒く染まった打撲痕が痛々しく思わず目を逸らしてしまいたくなる程に正常な人としての形を保ててはいなかった。
特に酷いのは背中側だ。
既に真皮はほとんど欠損していて、ぐちゃぐちゃに抉れた肉が生々しくその者の悲劇を物語っている。
応急処置による包帯は土汚れや擦れたことによって既にボロボロで、魔法使いの女やクーフルによって貫通させられた肉体は未だ小さな風穴を開け続けていた。
生きているのが不思議なぐらいに、死者の姿をメビウスはこれまでずっと服の中に隠し続けていたのだ。
その惨く恐怖すら感じる光景はセリシアやカイルだけじゃなく、戦いに身を置く騎士たちですら思わず顔を歪めてしまう程に酷い。
「ぁ、ああ……」
「可哀想にのう……『聖神の祝福』が効かず身体を休める暇もなく、その身一つで激痛や苦しみに耐え続けながらこの街を守るために自分の命を削り続けている。ずっと誰かに助けを求め続けているのに……お主はこれまでずっと、ただ見ているだけだった」
「わ、私は……これ以上メビウス君に苦しんでほしくなくて……だから」
「だから……『見守って』いたんじゃろう?」
「――っっ!!」
「ほら、この子が目を覚ました時直接言ってやるといい。『神はいつまでもあなたを見守っていますよ』……と。そうじゃなぁ。見守るだけだなんて……まるで、何処かの誰かみたいだとは思わんか?」
「わ、わたしは……」
「いや……天高く届かない場所にいる神よりも惨い! 口先だけで信者を死ぬまで酷使するだなんて、まるで……【悪魔】みたいじゃな」
「ぁ、ああ……!!」
セリシア自身、聖女として正しい行いをしてきたつもりだった。
メビウス・デルラルトという少年の想いを尊重しているからこそ、それに相応しい行動をしてきたつもりだったのだ。
でも、その行いは【悪魔】の所業だと魔法使いの女は言う。
事実彼女なりに精一杯出来ることはしてきたものの、実際に彼を止めることが出来たわけでも現状を打開することが出来たわけでもなく、行ったのは口から発せられる想いのままに彼に選択を迫っただけだ。
それを他者によって突き付けられたからこそセリシアは自身の行いを客観視して、胸が締め付けられる思いに駆られると共に強烈な罪悪感が彼女の心を蝕んでいた。
「貴様ッッ!! 聖女様を愚弄する気かッッ!!」
「聖女様を悪魔呼ばわりするなど万死に値する行為だぞ!!」
「ああ……守られて気持ちいのう? 肉壁がたくさんいて、自分が大きく見えて堪らないのう? 子供すら盾にする日々は、酷く気分が高まっていたに違いない。そして都合が悪くなった時、最後にはお得意の神託を告げるのか。『あなたには天罰が下りますよ』と! ――くはっ!」
聖神騎士団が激昂した様子で声を荒げるものの、セリシアの耳に届くのは魔法使いの言葉だけだ。
そんなこと思っているわけがないのにその声は弱るセリシアの心を侵食し、そうだったのかもしれないという疑念を彼女自身に抱かせていた。
「―――」
動いて、それでどうするべきなのかも決めることが出来ていないというのに……否定しなきゃと身体が動く。
神聖な聖女に触れることが出来ない騎士たちによる静止の声など耳に届かないセリシアはただ、自分の行動、願いを示した上でメビウスを返してもらおうと開かれた鉄門を超えて外に出た。
「そして無知で愚かだから……こうして悪意に、簡単に釣られるんじゃ」
そんなセリシアの行動を魔法使いはただ冷たい目で見下ろして。
「《ウインド・ブラスト》」
完全に教会に貼られた結界を超えた瞬間、別方向からセリシアに向け風魔法が放たれた。
「きゃっ!?」
それは当然、セリシアの持つ【聖神の奇跡】によっていとも容易く防がれ魔力の粒子となって散っていく。
だが別方向からという状況がセリシアに強い恐怖を刻み込ませていた。
魔法使いのことは、ずっと視界に収めていたはずだ。
それなのにまさか別方向から攻撃されるとは思わなくて、セリシアは防衛本能から胸の前で両手を握り縮こまりながらも視線を向ける。
――そこには、魔法使いの女が浮いていた。
「え……!?」
二人だ。
同じ顔、同じ身長、同じ服装の人物が二人一緒に宙を浮いている。
セリシアのリアクションが予想通りだったのかもう一人の魔法使いは面白そうに笑い声を上げていた。
「くすくす。聖女でも、可愛らしい声を上げるんじゃな」
「呪法……《鏡幻万華》。お主が聖女で無かったらもう既に死んでおったぞ。でもわかったじゃろ。悪意にあまりに鈍感だから……誰も、お主のことを信じない」
聖神ラトナに愛されているセリシアに攻撃は当たらないとわかっていたはずだ。
それなのに攻撃を仕掛けたのは、偏にセリシアのあまりの無警戒さを警告する意味合いがあったのかもしれない。
可笑しそうに笑みを浮かべるもう一人とは対照的に、最初からいた魔法使いの女は未だセリシアに厳しい目を向けていた。
「他の聖女よりかは物事に対する思考を持ち合わせているのじゃろうが……お主にはまだ『自分』がない。それはきっと、他人に興味が無いからじゃ。全ての生物が全く同じ『善』という感情だけで生きているのだと本気で信じ込んでいるから、『悪』との違いがわからない。個々が持つ個性というものをお主は理解出来ていないから、他人に答えを任せ、他人の答えに同調している」
言葉を続ける。
「何も成し遂げることが出来ていない者の言葉だけでは、何も起こらない。大事なのは後悔しない行動をすること。無知な聖女に教えてやろう。考えるとは、そういうことじゃ」
魔法使いは言葉を続ける。
「お主ではこの子を救えない。たとえお主が今『聖神の神判』を使おうと、その前に《ディストーション》でこの場を離れる。神にまでも頼り、自身には何一つとして力のないお主には……この子以上の功績を上げることは出来ないんじゃよ。もとよりお主が己の役割を果たし、そもそもこの状況を作りさえしなければ充分功績を上げたと言えるじゃろうが……迷惑を掛ける行動しか出来ない聖女では無理もないか」
「……ぅ、ぅ」
「これはお主の為じゃない。この子があまりに可哀想だから仕方なく教えてやってるだけのこと…………無知は罪じゃ。罰を受けるべきは、お主自身じゃないのかえ?」
「―――」
無知は罪だと、罰を受けるべきは自分なのだと。
そう告げられて、それを否定することが出来る言葉をセリシアは何一つ持ち合わせていないことに気付かされた。
聖女が罪を抱えることなどあってはならない。
それに自身が罪を抱えているのなら必ずその前に聖神ラトナによる言及があるはずだと、セリシアは生まれて初めて味わった精神的負担により地を膝を付きながらも自身のベルトに固定されたブックホルダーから『聖書』を取り出し、必死に聖書のページを捲り続ける。
だが、捲るページはずっと……空白だった。
これまで聖神ラトナによって注がれた【神託】以外に、新たな神様の言葉はページの何処にも記されてなどいない。
『聖書』はそれを持つ聖女の人生を記す伝記のような役割もある。
【神託】を受けた数だけページは埋まり、その本が全て埋まった時、初めてその聖女の役目を成し遂げることが出来たという意味合いもあった。
だから……何処かにあるはずなのだ。
今後の自分が成すべき正しい行動を教えてくれる……【神託】が。
「――っ。――っっ!」
「くすくす。『聖書』に答えを示してもらえないと何も行動出来ないんじゃな」
地面に座り込み必死にページを捲る姿は、まるで子供のようだった。
そんな少女を嘲笑うもう一人の魔法使いを横目に、正面にいる魔法使いはそんなセリシアを見下ろすと呆れたように小さくため息を吐いた。
「―――!」
「―――!」
「相変わらず騎士団は五月蠅いのう……手筈通りガミジンがこの子を疲れさせてくれたおかげでフェネクスの尻拭いも達成したことじゃし、潮時か」
魔法使いはそう言うが今のセリシアに騎士たちの怒声は届かない。
ただただ何かに取り憑かれたように一心不乱にページを捲る姿は傍から見たら異常行動そのもので、既にやるべきことを見失っている彼女を見て魔法使いの女は見限るように目を伏せた。
「お主のせいでこの子が死ぬことになる。それまで精々……考えることじゃな」
「ぁあ……ああっ……!」
無垢な寝顔を晒す彼の顔を上げそうセリシアに突き付け、震えるセリシアを前に魔法使いの女は次元の裂け目の中へと入って行く。
「どけっ! どけよっっ!! シロ兄が……シロ兄がぁ!!」
「暴れては駄目です! 聖徒も守護するべき対象。安全な結界から出てはなりません!」
「シロ兄っ! シロ兄ぃぃぃぃ!!」
騎士たちに阻まれながらも必死に手を伸ばすカイルの想いも虚しく、消えることのない次元の裂け目はメビウスの身体と共に魔法使いの女を呑み込み……悪党は、完全にこの場から消失した。
「聖神、ラトナ様……」
そんな結末を見届けながら、ぽろぽろと流れる涙が空白の聖書を濡らす。
「どうか……どうか私に、【神託】を……授けてください……」
止まってくれない、誰も止めてくれない悪意というものを初めて知ったセリシアは、未だその悪意の浄化の仕方ばかりを考えることしか出来ずにやはり現実というものを理解出来てはいなかった。
何か理由があるのではないかと。
何か聖女として出来ることがあって、それを行ったらあの魔法使いも大事な人を返してくれるのではないかと、そんな甘い考え以外の思考をセリシアは持つことが出来なくて。
「私は……私は、どうしたらっ……」
神の答えを待ち続けながらセリシアは自身の無力感に苛まれ、挫折に心を侵されていた。