第15話(6) 『無謀な決心』
教会で過ごしてきた子供にとって、血の繋がりなど関係なかった。
たとえ血は繋がっていなくとも、兄と呼ぶに足る日常を築いてきた家族がまたいなくなってしまうと思ったから、カイルは燃え盛る木々の隙間を潜りながら白髪の兄を探し続けていた。
その表情には夜に染まる森の中にいるにも関わらず怯えという感情は感じられない。
それは偏に、森の中に入ったのがカイル一人だけではなかったからだ。
「ルナ姉ちゃん、胸痛くなったりしてない? ちゃんと掴んでてね!」
「うん」
カイルの右手には、ルナの手が握られていた。
メビウスを起こし、そうしてそのまま置いて行かれたルナはその後すぐに起きてしまったカイルによって半ば強引に教会の外へと連れ出されたのだ。
故に月明かりさえも遮る程の森の中を、カイルは自分から連れて来た責任としてルナを炎から庇うようにしながら先へと進んでいる。
だが本来であれば、そもそも捜索をするにあたって最初に森の中に入るのを選ぶのは愚策でしかない。
三番街の中で一番最初に探すとしたら、聞き込みも含めやはり誰もが中央広場を選ぶだろう。
もちろんそれはカイルも同じで、わざわざ広く目印すらない森の中を一番最初に探すなど、当然自主的に選ぶはずがなかった。
けれどカイルがルナと共に教会の鉄門を超えた時、既に三番街へ続く唯一の舗装された道は燃え盛る炎によって塞がれていたのだ。
まるで意図されているかのようにその炎は人生経験の長い大人であれば誰しもが違和感を感じる地を這うような燃え方をしていた。
もちろん地面に燃焼物があったわけではないため、自然に作られたものというわけでもない。
だが10歳という年齢に加えてこれまで火事という現象そのものを見たことの無かったカイルにとって炎がどういう原理で燃えているのかわからない以上、そこに炎があり先に進めないという客観的事実以外の感想を持つことが出来なかったのだ。
そしてそれはきっと、何も言わずカイルの行く道をついて行ったルナも同じだったのだろう。
カイルが考えることが出来たのは、どうやって炎を避けながら先に進むことが出来るのかだけで。
まるで何かに導かれるように、カイルは既に炎によって創られた道を歩き続けてしまっていた。
「シロ兄~! どこ~?」
眠気に抗いながらも精一杯の大声で兄の名前を呼び続ける。
「げほっ、けほっ!」
だが息を吸えば吸う程、黒煙がカイルの肺に入ることで咳込み、何度も繰り返しているからこそ肺が痛んで目尻に涙を浮かばせてしまっていた。
「……大丈夫?」
そんなカイルとは対照的にあくまでルナは環境に左右されることなく平静を保てている。
故に無表情ながらも心配の言葉を口にするのだが、カイルはむせながらも口元を拭い、真っ直ぐに前を見続けていた。
「けほっ! ……平気っ」
「……戻った方がいいよ。聖女も、夜に外に出るのは駄目だって」
「最初に破ったのシロ兄じゃん。だから、怒られるならシロ兄と一緒に怒られるし」
ルナは心配の声をカイルに向けるが、カイルの意志は固く響かない。
大人と子供とでは許される範囲も許容量も違うため、先に約束を破った人がいるからといってその約束を自分も反故にしていいことには決してならない。
だがそれをわかっていても、今のカイルにとってはメビウスを連れ戻すことが何よりも大事だった。
兄が教会に帰って来る度に、疲れ切ってボロボロになった姿をずっと木の上や二階の窓から見続けてきた。
止めようとしても逆にそれを兄や姉に止められて、どうすればいいかわからない日々を送ってきた。
だからこそ、今日一緒に過ごして我慢出来なくなったのだ。
もうこれ以上頑張ってほしくない。
手伝えることがあるなら出来る限りのことをしてあげたい。
また今日みたいに、笑顔で一緒に遊んでくれる姿が見たい……と。
それはセリシアや子供たち全員が思っていることではあるが、それでも兄弟の中で一番行動力のあるカイルが率先して動いてしまったのは最早必然だったのだろう。
「もうシロ兄ばっかり疲れてる姿を見るのは嫌なんだ。だっておかしいじゃん。街のみんなは笑ってたのにシロ兄だけ笑えてないなんて。ルナ姉ちゃんだって、シロ兄がボロボロになってるの見るの嫌でしょ?」
「嫌って?」
「なんか胸がむずむずして、止めなきゃって、ほっとけないぃ~! ってなる感覚!」
「……うん。……嫌」
「だから、連れ戻さないと駄目なんだ」
カイルの言葉に納得したのか、ルナは小さく頷くとこれ以上カイルを引き止めることなく一緒に歩みを進め始める。
子供だからこその無謀さを持ちながらそれでも自分の感情に正直に生き誰かを助けようと行動する様は、きっと誰もが否定せず肯定してあげたいと思えるものだ。
……だが故に、悪党はいつだってその隙を突いて来る。
「シロ兄~! シロ兄~!」
――変化のない呼びかけをし続けている最中、カイルが進んだ先には既に火は何処にも灯っていなかった。
教会を中心として燃え盛っていた炎がカイルの視界に無いということは、既に教会からかなりの距離を進んでいるということになる。
火という危険ながらも優秀な光源が無くなったことでカイルの進む道を照らすのは月明かり一つしかなかった。
いや……その月明かりすらも、明かりとして機能出来ているかといわれれば怪しいだろう。
「……?」
何故なら森の中は、炎の黒煙が消えたはずなのにも関わらず未だに煙に包まれていたからだ。
何処か甘いような臭いが鼻孔をくすぐり、煙にも少量であるが薄桃紫の色が付いているように見える。
「……」
不審に思うルナは警戒の意味を籠めて自身の身体に魔力を溜める。
だがその凝縮した魔力が塊になることはなく、まるで何かに阻害されているかのように別々の方向へと散り消滅してしまった。
「カイル……戻ろう」
「え? なんで?」
「……魔力が乱れる。多分、誰かがルナたちを見てる」
「誰か?」
魔力の残滓を視ることが出来るルナにとって、魔力を練れず魔力を感じ取れないという事実は由々しき事態だ。
触らぬ神に祟りなし。
現状の接触がこれだけであるならば、深追いはせず早急にこの場から立ち去るべきだと判断した。
もちろん何事も果敢に挑むカイルとはいえ姉であるルナがそう言うのであれば進んじゃ駄目なのではないかという気持ちになる。
だから『何事』も無ければ、ルナの言葉通り引き返すという選択肢を選ぶはずだった。
――近くの茂みから、何かが動く音さえしなければ。
「シロ兄!?」
「あっ、カイル……」
瞬間、ぱあっと表情を明るくさせてカイルは音のした茂みへと身体ごと視線を向けた。
本来であれば森という場所もあり獣の可能性も充分にあるのだが、今のカイルは静けさのあった森で初めて反応があったという嬉しさから先程ルナに言われたことの恐怖すらも子供特有の目先の幸福によって上書きされてしまっている。
それにたとえ獣だとしても、自分なら姉一人連れても逃げ切れるだろうという現実を知らないが故の慢心もあったかもしれない。
「カイル、駄目っ」
だから――ルナの声も届かない。
ただただ起こるべき幸福の未来のために、カイルは茂みへと近付いていた。
『――――』
……けれど。
茂みから出て来たのは。
――二人の身長以上の大きさを持つ白い手だった。
「……え?」
手首と称せない辺りで打ち切られた場所には黒い泥のようなものが漏れ出ていて、明らかにこの世のモノとは思えない風貌をカイルへと示している。
見てわかる怪物や獣じゃない、あまりにも異質な存在。
その指先が小さなカイルを覆うように見下ろしているから、カイルもまた内に湧き上がる畏怖の感情を否定することも出来ずに口を半開きにしながら後退った。
『――――』
「ぅ、あ……」
相手に瞳があれば、敵意や殺意があるかどうかがわかっただろう。
相手に牙があれば、それが凶器に成り得ると理解出来たはずだ。
だがカイルの目の前には指を広げる手しか無くて。
何をしてくるのかわからないという混乱が逆にカイルに恐怖を与えていた。
『――――』
ソレは覆うように広げていた手を今度は拳の形へと変えた。
身体が硬直し呆然とその様を見上げることしか出来ないカイルの頭上で、その拳が勢いよく振り下ろされる。
潰れる未来。
肉がすり潰され、身体を循環する水分が弾け飛ぶ数秒の結末をカイルはただ見ていることしか出来なかった。
――だが、その拳がカイルを潰すことは無い。
「うわっ!?」
風を切る音と共に拳がカイルを潰す直前、ルナがカイルごと飛び込んだことでギリギリの所での回避に成功する。
対象にぶつかることのないまま地面へと衝突した拳は轟音を響かせ地面を割ったかと思うと、土煙が吹き荒れ木々の隙間を超えて空へと舞った。
「い、たた……――ひっ!?」
だが――一撃じゃ終わらない。
地面にめり込んだ拳は再度空中へと浮遊し直すと、またしてもカイルに狙いを定め既に拳を突き出している。
「――――」
尻餅を付き、何も出来ずにただ近付いて来る拳を見るだけのカイルを身体を起こしながらルナは見ていた。
魔法が使えない以上、足が動かないカイルと一緒に逃げることは不可能だ。
あの拳は現状単純な攻撃しかしてきていないが、だからといって何度も今と同じようなことをした所で体力的にも必ず最後には捉えられてしまうだろう。
ルナはそれを瞬時に感じ取っていた。
そしてこの状況を打開する活路が、ほんの少しだけ残っていることも。
『――――』
「うぅっ――!!」
剛速球で再度放たれる拳の挙動を見たと同時に、カイルは生物的本能によって目を瞑り少しでも痛みを和らげようと両手で防御の構えを取った。
当然そんなことで痛みが和らぐわけがない、焼け石に水の行為。
拳が衝突すれば筋力も低く骨も細い子供のカイルの身体などいとも容易く砕け散ってしまうだろう。
――――だが。
「うっ、ぅ……?」
またしても、そうはならなかった。
その未来を見据えた拳がカイルの鼻先へと到達した刹那、突如としてその拳がピタリと止まったのだ。
時が過ぎても何も起きない現状に疑問を抱きカイルがゆっくりと目を開けると、そこには身動きが取れずに硬直している拳が目の前にあって、恐る恐るカイルはこの現象を引き起こしたであろう人物に視線を向ける。
「…………」
そこには今までハイライトが消えていた左目をより濃い紫色の輝きで灯したルナが立っていて、ルナの視線に映る巨大な拳は未だ指一本すら動かせないでいた。
そしてその拳は――徐々にその姿を石へと変える。
単純だが、だからこそ存在を変質させるという行為はこの世の理を覆す程に強力な力だ。
石化し完全にその物質としての存在を変えられた拳は浮遊の力すらも失い、ただの巨大な石となって地面へと落ちめり込んだ。
「す、凄い……」
たった一瞬で得た勝利。
呆然とその様を見ているだけだったカイルだが、それでもこの状況を打開することが出来たという事実はカイルの不安感と恐怖を取り除くには充分過ぎる功績で、湧き上がる高揚感のままにカイルはルナへと近付き声を上げた。
「凄いよルナ姉ちゃん! どうやったの!?」
「……」
「シロ兄が知ったらきっと凄い凄いって言ってくれるよ! みんなにも見せて――」
「――げほっ」
だが……カイルのその感情は一時のものでしかないのだと、ルナ自身が証明することになる。
煙によるものではないルナの突然の咳にカイルは驚き、口元を隠したルナはゆっくりとその手を降ろした。
――ルナの手の平には、べったりと多量の血が付着していた。
口元からも血が垂れ落ちていて、明らかに内蔵が損傷している状態をカイルへと見せてしまっている。
「ルナ、姉ちゃん……?」
それだけじゃない。
輝きを放っていた左目からも血の涙が流れ出ていて、明らかに耐え切れない程のダメージを肉体が受けてしまっていることは子供のカイルでも理解出来てしまうものだ。
「血、血がっ……! 大丈夫!? ルナ姉ちゃん!」
「ぅっ……! げほっ!」
「ルナ姉ちゃん!」
既に身体に力を入れるのも限界なのか、ルナは地に膝を付きそのまま血を地面へと吐き出してしまっている。
これでは目の前の脅威を退けることが出来たといえど、二人が何事もないまま生還することなど不可能だった。
早く、聖女様を呼ばないと。
だが――悪意まだ、終わらない。
『――――』
『――――』
「は――!?」
更に茂みから出てきたのは、もう一つの白い手と大きな一つのマントだった。
そのどれもが石化した拳と同じように物体の終点に黒い泥を漂わせ、無機質な浮遊姿をカイルへと見せている。
石化された手と白色の拳で二つ。
その中心にマントを浮かせた姿はなんとか人のような体制を保っているように見えるが、その不気味さはどちらかといえば亡霊に近いものだ。
「なん、で……!?」
驚いた所で現実が変わることはない。
既に更なる脅威が訪れてしまっている以上、今カイルに出来ることはこの場をどう切り抜けるかを考えることだけだ。
だが……子供は無力だ。
子供一人では何も出来ない。
それにそもそもこの状況を創り出した原因が自分だということに、カイルは自責の念に駆られてしまっている。
(どうしようどうしよう……!? 俺のせいでルナ姉ちゃんが……ルナ姉ちゃんが死んじゃう……!)
元々カイルにとってこの三番街で何が起きているかという情報はセリシアや教会のみんなと同等のものなのだ。
そして非教徒という悪意がいることを理解していても【帝国】から聖神騎士団が来ているという情報から、街のみんなと同じように三番街は安全だという根拠のない信頼を持っていた。
だからこそメビウスの疲労に、ずっと疑問を抱いていたのだ。
どうして騎士様がたくさんいるのに、兄一人だけがこんなにも傷付いてしまっているのだろうと。
『――――』
『――――』
「ぅ、くっ……」
けれどこんな異質な存在が街に蔓延っていることを知ったことで、カイルは己の安易な思考と行動を初めて呪った。
「カイル……早く、逃げて」
ルナがそう呟くと同時に、ずっと地面にめり込んでいた石化された拳にヒビが入る。
このままでは身を挺して行った打開策が容易く無に帰してしまうことを悟ったルナは、痛む喉に鞭打ってでもカイルを逃がそうと絞るようにそう告げた。
だがカイルもカイルで、姉と呼ぶ少女を置いてこの場を離れることなど出来るわけがないのだ。
「だ、駄目だよ……だって、ルナ姉ちゃんはどうするの……!?」
「カイルの方が、大事だから……だから早く……」
「だめっ、だめだよ!」
「はやくっ!!」
「――――っっ!!」
ルナのここまで張った声を、恐らくカイルが初めて聞いた。
同時に大量の吐血が地面へと吐き出されるが、だからこそそれほどまでに危険な状況であるということをその身で子供に理解させ、カイルは自分が何一つ出来ない存在であるということを突き付けられた。
「ぅ、ぅ……!」
後退る。
逃げるべきだと身体中が警鐘を鳴らしているのがわかる。
石化した拳は更にヒビ割れ、今にも解放されてしまいそうだ。
そうだ……逃げるなら、今しかない。
――だが、それでも。
「――俺は逃げない!」
「……っ」
「ルナ姉ちゃんを置いて逃げられないよっ!!」
カイルは身体を震わせ涙を流しながらもルナを背に仁王立ちし、巨大な亡霊たちへと立ちはだかった。
どうして逃げないのか。
どうして出来ることもないのに言うことを聞かないのか。
そんなの、カイルにとっては男だからという理由しかない。
たとえ年上でも倒れてる女の子に背を向けて逃げることなど出来ないという、ただのちっぽけなプライドと虚勢だけでここに今も尚立ち続けている。
それに姉と呼ぶ少女を置いて教会に戻ったとして、一体どうしてみんなに顔向け出来るというのか。
「ルナ姉ちゃんが死ぬなら、俺が先に死ぬから! だから、大丈夫だよっ!」
「だめ……カイルっ」
もう身体は震えで動けないし、痛いのは当然嫌だし死にたくなんかない。
それでもルナを心配させないようにと必死に瞳の焦点を真っ直ぐに合わせようとし亡霊を睨み付けるカイルの姿は、きっとこんな状況でなければ皆に誇れる程のものであるはずだ。
だが現実として、逃げないのであれば亡霊はカイルに狙いを定めるだけだ。
遂に石化も解除され、二つの拳がマントの左右で高らかに浮遊している。
その拳は既にルナ共々カイルを捉えていて、バネのように若干後方へ引いたかと思うと縮むように周囲の不可思議な煙も歪み始めた。
「ぅぅ……!!」
必死に目に力を入れて、もう瞑ることのないように涙を流しながらも覚悟を決める。
そして遂に、強烈な弾力を有した二度目の拳がカイルへと放たれた。
(シロ兄……シロ兄っっ……!!)
自身の身長よりも高く、尚且つ近距離からの拳を避けられる者など通常であれば存在しない。
だからこそカイルに出来ることは、ただ追い求めていた兄と呼ぶ少年の名前を心の中で叫ぶだけで。
自分の死期を悟りながらも、最後の最後まで目を逸らさなかった。
拳が……届く。
――だがその刹那、一陣の暴風が槍のように伸び漂っていた煙を消失させる程に吹き荒れる。
瞬間、カイルの顔前まで迫っていた白色の拳が強烈な影によって蹴り飛ばされた。
「――――!!」
目を瞑らなかった。
だから、その影が何なのかも鮮明に見届けることが出来た。
(天使、様……?)
幻覚かはわからない。
でも、真っ白に見えた一つの影には誰もが目を惹くような純白の翼があるような気がした。
……それでもそれは幻覚だ。
実際には翼も無いし、お世辞にも純白とは言えない汚い白色の髪を靡かせ、身体には大量の血を付着させ怒りの形相で金色の瞳を輝かせる一人の少年がカイルの赤色の瞳に移り込んでいる。
天使ではない。
だけど、ずっと求め続けてた。
「俺の家族に……何してんだよぉぉッッ!!」
メビウス・デルラルトが、到着した。