第14話(9) 『【聖痕】に誓って』
結局俺もびしょ濡れになり、髪をタオルで拭きながら子供たちと一緒に風呂を出ることとなった。
正直ここまで来たら全身を洗い流したかったが、ぶっちゃけ割と真面目に傷口が痛むためそこは断念。
でもきゃっきゃとずっとはしゃいでいた子供たちの後ろ姿を見ているとその痛みすらも耐えられてしまうから不思議だ。
まあ実際には死なないとはいえ腹に穴が開き肉が見えてるにも関わらずこんなことをしていいわけが無いのだが、そこは天使である俺だからこその感覚と言えよう。
なんにせよ、俺にビビっていたカイルも今ではいつも通りでいられたみたいで良かった。
それだけでも痛みを我慢して風呂に入った甲斐があったというものだ。
「……戻るか」
けれど、独りになれば途端に冷静な自分が顔を出す。
どれだけ楽しくて幸せな日々を過ごすことが出来ても、そんな日々が頑張らないで続くことは決してないと思い知ってるからこれが甘い夢だったのだという現実を受け入れている。
抗うことはしない。
これ以上の幸せの積み重ねは求めない。
望めば望む程苦しくなる。
苦しくなるくらいなら、この光景をずっと何度も何回も思い返すだけで良い。
……でも、いつだって教会はそんな俺の願いだけは受け入れてなどくれなかった。
「メビウス君っ」
「―――ぁ」
目を伏せ、また懺悔室に籠ろうとした俺の背を呼び止めた声。
その嬉しそうな声色が聞こえただけでいとも容易く俺の足は留まった。
ゆっくりと後ろを振り向くと、そこには慈愛のような微笑みを俺に見せるセリシアがいて、俺の心情なんてまるでわかっていないだろうにいつも俺にとって一番嬉しい姿を彼女は見せてくれていた。
「少し……お話しませんか?」
そう言ってセリシアが手を向けたのは、礼拝堂にある長椅子の一つ。
今までだったらきっぱりと断っていただろうに、どうやら俺はまだ享受していた日常が抜け切れていなかったらしい。
「え、あ……うん」
拙くも思わず頷いてしまって、なし崩し的にセリシアの言うことを聞いてしまう形となり戸惑うがままに長椅子に腰を下ろした。
「……っ?」
てっきりいつものように俺の隣に座ると思ってたがセリシアはそうはせず、どうしてかそのまま俺の背後へと移動すると不意に俺の頭に掛けられたタオルに手を置き出す。
そして俺が驚き反応する前に、セリシアはそっと優しく純白の髪を拭き始めた。
「は、えっ……いきなり何を……」
「髪、まだ濡れてしまっていますよ。……ふふっ、お風呂場からとっても楽しそうな声が聞こえてきて、なんだか私まで嬉しくなってしまいましたっ」
「あ、ああ……」
そりゃああれだけ騒いでたら聞こえるか。
少しはしゃぎ過ぎたことに今更若干の気恥ずかしさを感じつつも、嬉しそうなセリシアの声を聞くとそれだけではしゃいで良かったという感情も一緒に出てくる。
髪を拭いてくれるセリシアの労いが手の平を伝って俺の心に透き通り、先程までざわめいていた心は既に落ち着きを取り戻していた。
「なあ……セリシア」
「……はい」
「心配かけて……ごめん」
だからだろう。
俺が君に、弱音を吐いてしまったのは。
「きっと君はもう俺の事、うんざりしちゃってるよな。言うことを聞かないガキだって思ってるはずだ。でも……それでも俺は、この日々を……」
こんな我儘で言うことを全く聞かない奴、俺だったらとっくのとうに見放してる。
君が俺のことをいつ見限っても、きっと俺は自業自得だと受け入れるに違いない。
でも……それでも、失いたくないんだ。
だから俺が頑張らなければならない。
けれどその代償としていつだって君の想いを無碍にしている。
なのに君はそれでもずっとこうやって俺に笑い掛けることを辞めはしなかった。
「どうして、まだ俺に構うんだ……?」
俺のことを考えずに無視すれば君にとっての理想の日々は完遂される。
気に病まず、俺を使い潰してしまえばそれだけで君は聖女としての君のままでいられるだろう。
それなのに、あの時みたいに街のみんなに俺を頼り過ぎないよう頼み込んだり、何度も諦めず俺の歩みを止めようとしてくれていたり……聖女だとしても家族だとしても優しかったとしても……それだけじゃ決してここまで見放さないなんてことないはずなんだ。
見放さなかったとしても……家族という特権を使って強引にでも押さえ付けようともせずにセリシアは決して俺の歩みを無理矢理止めようとはしなかった。
あくまで俺の感情を、いつだって尊重してくれている。
別に理由が欲しいわけじゃないけど、それでもずっと気になっていたことを今吐き出してしまったから、無言のまま答えを待ち無かったことにはしなかった。
ただジッと、セリシアの声を待ち続けている。
「……私が、そうしたいからです」
だからか。
セリシアは俺の頭を優しく撫でながら柔らかな声でその解を示した。
でもそれだけじゃ納得なんて出来なくて、むしろそう思うこと自体がおかしいのだと新たな疑念が浮かんでしまう。
だがその疑念すらも包み込むように、セリシアは言葉を紡いだ。
「それに、それを言うならメビウス君もですよ。私もわからないんです。どうしてメビウス君はいつも、私を助けようとしてくれているのか。メビウス君はいつも私を庇って、この教会に居て良いんだって、そう言ってくれますよね。私のことを聖女失格だって思っているはずなのに、それでもメビウス君は私を『私』であると証明させてくれています。だからきっと理屈じゃなくて……ただ、そうしてあげたいんだと思うんです」
決して等価交換のつもりじゃないことはセリシアの言葉から伝わってくる。
背中に立つセリシアの顔を見ることは出来なかったけど、頭を撫でる手はほんの少しだけ熱くなっていたような気がした。
「ですからメビウス君のこと、うんざりなんてしていませんよ。心配はしてしまいますけど……態度を変えるつもりはありません」
「―――」
「止まって下さいって、何度だって言います。いつか、メビウス君に届いてくれるように」
「…………」
わかっていたことだ……それが、セリシアなんだ。
君はいつだって優しくて、俺が君に抱いているものと同じ感情を抱いてる。
……君の願いを叶えることは出来ないけど、君がそう思ってくれることはとても嬉しく思うからせめてもの感謝を告げるために俺は笑みを浮かべて振り返る。
「あり――」
「でも一つだけ、約束してくれませんか?」
だけどそんな俺の笑みは、不意に声のトーンが変わったセリシアの言葉によっていとも容易く固まってしまった。
てっきり、セリシアも微笑み返してくれると思ってたのに俺の視界に映るのは複雑な目で俺と目を合わせる彼女の姿で。
動揺しつつもその『約束』というものが何かを知るために俺も言うべき言葉に切り替える。
「え、あ、なんだ……? 俺に出来ることだったらなんでも……」
「どうか、嘘だけは……吐かないでください」
「……っ!」
「もしこれまでに嘘を吐いていたのなら、今……教えていただけませんか? 今教えてくれたのなら、私はこれから先もメビウス君を……いいえ、理由は無くても」
「……っっ」
「お願いします……」
そう言ってゆっくりと俺の頭から手を離し、姿勢を正してセリシアは俺に頭を下げた。
その行動が、その小さく震えているような声が彼女の真剣さをより表していて、俺は一瞬だけ悩みながらも変える言葉など無いから頬を引き攣らせながら口を開いた。
「……俺が、君に嘘なんて吐くわけないだろ? 俺はいつだって自分に正直に生きている。普段の俺の堕落加減を見てきてるんだからわかるはずだ」
「【聖痕】に誓って、ですか?」
「え……?」
「【聖痕】に誓って……もう一度、そう言ってくれませんか?」
「【聖痕】、に……?」
……どうして、そんなこと。
流石にその行為の本質を理解することは出来なかったが、聖痕が俺と君との関係を表すのにどれだけ重要な意味を持っているのかということはわかる。
その大切な証である聖痕に誓うという行為はきっと聖女にとってとても大きな意味を持つはずだ。
故に彼女の言葉に絶対に従い、聖女と【聖痕】を共有する者としての誠意を見せなければならないのだと察した。
だが、俺は彼女に嘘と呼べるものを告げたことがあったのか。
どこまでが嘘なのか。
それを今わからないでいた。
いや、わからないんじゃない。
何処までが嘘としてカウントされ、何処までが冗談として処理することが出来るのかとか、そんな醜い逃げ道を今まさに考えてしまっているのだ。
多分セリシアの意図を汲むのならこの場合、自分の言葉を訂正することが正しいのだと思う。
でもそれをすればじゃあ本心はどうなのかという話になり、結果彼女に多大な疲労と責任を与えることになってしまうだろう。
……結局、何に誓おうが俺が吐き出す言葉を変えることは出来ない。
だから唾を飲み込む喉の音が――鳴った。
「も、もちろん【聖痕】に誓って、だ。俺は君に……嘘なんて吐いてない」
「…………そう、ですよねっ」
故に出した俺の結論。
更に嘘を重ねるという行為は俺の心をより強く痛ませることとなったが、それでもそう言ったからこそセリシアは安心するように弱々しい笑みを浮かべていた。
「突然こんなことを聞いてしまってすみません。私、おかしなことを言いましたよね」
「いや、そんなことは……」
実際俺がそういう振る舞いをしていたのは事実だし、言葉にしなければ伝わらないこともあるだろ。
君がそう不安がってしまうのも仕方の無いことだし、その問いが的を得ているのもまた事実だ。
だからまた答えの出ない応酬を繰り広げようとした所で、不意にその声を途切れさせる足音が聞こえてくる。
「あ、あの……お取込み中、ですか……?」
「やっほ~お兄さん」
「――! お前ら……」
声を掛けられてそちらを振り向くと、恐らく風呂に入り終わったであろうユリアとパオラが寝間着姿でこちらへと近付いて来ていた。
ユリアはいつも通りだがパオラは俺と話すのを躊躇しているように見える。
それはまさしく先程までのカイルと同じで、俺は出来るだけ驚かせないように意識しながらパオラと目線を合わせるべく立ち上がりしゃがみ込んだ。
「いや、全然大丈夫だぞ。どうかしたか?」
「あの、聖女様にお願いがあって……」
「お願い、ですか?」
だがどうやら目的は俺ではなくセリシアだったらしい。
パオラの動く視線に追従し俺もセリシアの方へと視線を向けると、彼女もまた首を傾げつつも俺と同じようにしゃがみ込む。
「もちろんお兄さんにも関係のあることだよ。カイルから提案があったんだけど、今度はユリア姉たちの番だ~って言って逃げられたから仕方なくね」
「「……?」」
そんなことを言われ、俺とセリシアは互いに顔を見合わせ疑問を浮かべた。
なんだろうと眉を潜めた所で、ようやく覚悟が決まったのかパオラは意を決し前のめりに口を開いた。
「あの……! み、みんなで! 一緒に寝ませんか!?」
そして出て来たのはそんな突拍子もない提案だった。
呆気にとられる俺達を前にそこで限界を迎えてしまったパオラに変わってユリアが補足してくれる。
「みんなでお兄さんと一緒に寝たいんだってさ。でもいつもは男女で分かれて寝てるから、聖女様の許可を貰いたいの」
「みんなで、ですか?」
なるほど。
確かに一見、一緒に寝るくらいなら許可なんて必要無い程のものであると普通なら思うが、教会に限り如何なる年齢であろうと男女が寝床を共にするというのは神のなんとかかんとかと前に見た『聖女第二版』に書かれていたような気がする。
そうなると一応ではあるが教会の人間として異例の考え方ということになるため、セリシアの許可が必要なのだろう。
実際ユリアとパオラの提案を受け、セリシアは少しだけ困ったような顔をしていることから聖女の立場からしてもあまり即決出来るような事柄では無いのだと思う。
「駄目……ですか?」
多分パオラも、僅かな望みに期待した提案だったはずだ。
恐る恐るといった様子からあまりその提案が通るとも思ってないように見える。
でも、だからこそセリシアはそんなパオラの性格からは想像出来ない精一杯の勇気を直に感じて、柔らかな笑みを浮かべ小さく頷く。
「……わかりました。今日は特別に皆さん一緒に寝て良いですよ」
「……! 本当?」
「はい。……ふふっ。パオラちゃんがこんなにも勇気を出してくれましたから、特別ですっ」
そんなセリシアの言葉に恥ずかしそうにしながらもパオラは可愛らしくはにかんでいた。
二人を目を細めながら眺めていた俺だったが、不意にそれならそれで一つだけ気になることが頭をよぎった。
「……みんなって、セリシアもか?」
「え?」
セリシアの話し方から自分はどうするのかという言葉は無かったから割と深く考えずに口にした問い掛けだったが、それを受けたセリシアは思いもしなかったが故に一瞬だけ身を固め、やがて急激に顔を赤くし慌て始めた。
「え、ええっ!? あ、あああの私はその、そ、そういう不埒なことは……!」
「聖女様は聖女様なんだから、誰かと一緒に寝れるわけないでしょ? あ、はは~ん? お兄さん、そんなに聖女様と一緒に寝たいんだ?」
「違うっての。別々に寝る理由としてはセリシアもお前らも変わらないんだから、許可出したのに一人だけ別ってことは無いだろうって思っただけだ。てか前に一度セリシアはお前らと寝てたじゃないか。それなら俺一人増えようが別に一緒に寝るくらいわけないだろ」
「聖女様はそうは思ってないみたいだけど?」
「~~~~っっ!!」
「お、おお……」
そりゃあそうか。
セリシアの免疫の低さを鑑みれば自分も一緒に寝るという考えに行き着くことなどあるわけがないことは周知の事実だろうに、どうやら寝不足故に想像以上に頭が働いていないらしい。
セリシアの赤面に俺も居た堪れなくなって思わず頬を軽く掻くが、そんな俺達とは対照的にその考えを一度も思い至らなかったパオラは幼さ故に目を輝かせている。
「い、良いと思う! どう、ですか……?」
「もーパオラっ」
「だ、だって……」
ユリアはそういったルールを覆す期待は持たないタイプだからかパオラにのることなく窘めるように名前を呼ぶが、それでもパオラは諦めきれない。
故にセリシアもパオラの問い掛けを受け、再度顔を赤らめながら目を泳がせてしまっている。
……自分で聞いといてなんだが、まー無理だろ。
異性に手を繋がれるだけで盛大に狼狽える子だ。
俺や子供たちと違い、一緒に寝るという行為はセリシアにとって相当ハードルの高いものに違いない。
別に無理することでもないし、元々聖女としての立場ではそういったことは禁止されている事柄だ。
幾らパオラの期待が重くても正しい回答を示すことが出来るだけの強さをセリシアは持っているから、俺が期待させてしまったみたいで申し訳ないがパオラには諦めてもらうしかないだろう。
だから答えを求めるべく俺含め三人の視線がセリシアへと注がれると、セリシアは喉を小さく鳴らしながらも悩み続け、やがて解を成すべく震えた口をゆっくりと開く。
「……わかりました」
そして勢いよく伏せていた顔を上げ、無理のある真っ赤な顔をしたまま小さな拳二つを構えて。
「では、私も一緒に眠りますっ!」
「…………えぇ」
まるで覚悟を決めたような様子で、そんな言葉が礼拝堂に響いていた。